15.穏やかな時間
あのショコラを食べた日以来、緊張がなくなったせいか落ち付いた日常を過ごせている。殿下は忙しく公務をしているし、私は私で自由に動いているからか、あまり会うこともない。
「リゼ様、今日はどうされますか?」
「この本……全部読んでしまったの。新しい本を取りに行こうかしら」
「でしたら、ティーカップだけ片付けてきますので少しお待ちください」
「分かったわ」
読んだことのない本が沢山ある図書館が、最近の癒しだ。やっぱり物語は、起承転結があったとしてもハッピーエンドが一番楽しい。自分の人生もこうなら良いのに……なんて、野暮な事すら考えてしまう。
「お待たせしました。参りましょう」
シェリルと半分こで本を持って、図書室まで来た。香りに敏感になってから特に、図書室を埋め尽くす本の香りが堪らない。
「私が本を返してきますので、リゼ様は新しい本を探して下さい」
「ありがとう」
シェリルの言葉に甘えて、本棚を回りながらタイトルを流し見していく。ふと、目に入った本に手を伸ばしたのに、あと少しの距離が届きにくい。その時、またあの香りが鼻を撫でた。
「……これか?」
触れそうで、触れないギリギリの距離――
「殿下っ、」
「……無理はするな。届かないなら、呼べ」
私の手に本を置いて、視線がぶつかった。
「……ありがとう……ございます」
随分、心臓が煩い。耳元で殿下の声を聞いたせいか、余韻をかき消そうと耳を抑えてみたり。
「殿下も本を探しに……?」
「いや、計画的犯行だろう」
殿下の視線が、少し離れたソイル様とシェリルに向いた。ソイル様がウィンクしてるなら、確信犯だろう。
「殿下も……こういう時間、嫌いじゃないですよね」
「……そうだな。割と」
先を歩く殿下の少し後ろを歩いていると、香りに安心している自分に気付いた。少し前までは、当てられるのが怖くて口元を覆ったりしてたけど、今は……嫌じゃない。
……だめ。そんな関係、殿下は望んでない。触れない約束だってあるし、別にお互い心を許し合ってるわけでもない。首を振って、小さく息を吐いた。
そう思うのに、足は自然とその後ろを追ってしまう矛盾に気付いた。私も案外、人のこと言えない。
***
以前なら向かい合って座るなんて、考えられなかった。それが今では……遠くも近くもない距離に、落ち着くなんて。会話はないし、二人の空間にページを捲る音だけが鳴るだけ。
俺にとって、居心地が良いのは母の側だけだった。あの頃も、こうして母が本を読んでる側で、自習をしていたっけ。そして母は、時折俺にこう聞く――
“何を読んでいるの?“
「何を読んでいるんですか?」
「……え?」
まさか、同じことを聞かれるとは思いもしなかった。
「あぁ……これか」
本の表紙を軽く持ち上げて見せると、リゼが少しだけ身を乗り出した。
「……歴史書、ですか?」
「退屈そうな顔だな」
「いえ、そんなことは……少しだけ」
「正直だな」
ふっと、息が抜けるように笑った。以前なら、こんなやり取りすらなかったはずなのに。
「リゼは?」
「私は……こちらを」
差し出されたのは、柔らかな装丁の物語本。
「恋愛小説か」
「……悪いですか?」
「いや。分かりやすい」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
ページを捲る音に紛らわせるように、視線を落とした。……少し、からかい過ぎたか。
「殿下は、読まれないんですか?」
「読まないな」
「どうして?」
「結末が、決まってるものは……あまり好きじゃない」
悲劇の恋愛小説なら、そんな顔して読まないだろう。
「……ハッピーエンドでも、ですか?」
「だからこそだ」
「……私は、好きです。現実がどうであっても、物語の中くらい……幸せであってほしいので」
その言葉に、無意識に目が合った。
「……都合が良いな」
ぽつりと零れた声に、リゼが少しだけ息を呑んだ。
「それで良いんです」
「……」
「そう思いたいだけです」
静かな声が、不思議と……耳に残る。立ち上がり、本を元の位置に戻そうとした彼女の手が、わずかに届かないのが見える。
あと少し。ほんの、あと少し。
もう一度、ふっと笑って自分も立ち上がった。
「……貸せ」
本をそっとリゼの手から取って、元に戻す。
触れない。触れられない。分かってる。
距離を取るように、一歩下がった。
「……ありがとうございます」
「あぁ」
それだけのやり取り。互いに、何も言わないまま席に戻った席で、ページを捲る音が少しだけ増えた気がした。
互いに意識している……それだけは、分かる。この時間が、嫌だとも思っていない。むしろ――終わらなければいい、と。
「……殿下」
「なんだ」
「この距離……大丈夫でしょうか」
その問いに、即答が出来ない。守ると決めたはずの線引きが、どこにあるのか、正直分からなくなりそうだから。
「……分からない」
正直に答えると、リゼは一瞬だけ目を伏せて「私もです」と、小さく笑った。
それだけで、離れる理由が見つからない――




