最終話「香りの行き先」
東京の夜は、いつも通りだった。
ネオン。 信号。 人の流れ。
何万という人が街を歩いている。
その中に、桐生もいた。
特別な夜ではない。
いつもの帰り道。
仕事を終え、 駅へ向かう。
ただ、それだけの夜。
だが桐生は、少しだけ立ち止まった。
交差点の端。
風が吹く。
その瞬間、
ふっと香りが漂った。
あの香りだ。
LuxeAgehaの香り。
桐生は振り向いた。
人混みの中。
黒いコートの女性が歩いている。
玲。
間違いない。
桐生は少しだけ歩み寄る。
「玲さん」
女性は振り向いた。
桐生を見る。
そして、
少し困ったような顔をした。
「……すみません」
「どちら様ですか?」
桐生は一瞬だけ笑った。
「そうですよね」
玲は軽く会釈をして、
そのまま歩いていった。
人混みの中に消える。
桐生は追わなかった。
追う必要がないことを、 もう知っていた。
LuxeAgehaでの出会いは、
現実とは重ならない。
だが、
完全に消えるわけでもない。
桐生は空を見上げた。
雲の切れ間から、
月が見えている。
そのとき、
視界の端に黒い影が映った。
もう一人の女性。
長い髪。
黒いワンピース。
亜衣。
桐生の足が止まる。
亜衣は歩いている。
桐生の方へ。
すれ違う。
ほんの数歩の距離。
桐生は声をかけようとした。
だが、
その前に亜衣が止まった。
ほんの一瞬だけ、
桐生を見る。
その目は、
LuxeAgehaで見た目と同じだった。
だが次の瞬間、
亜衣は首を傾げる。
「……すみません」
「お知り合いでしたか?」
完全に、
知らない人を見る目。
桐生は静かに首を振った。
「いえ」
「たぶん、違います」
亜衣は軽く会釈をした。
そして、
そのまま歩いていく。
玲とは反対方向。
二人は、
同じ通りにいた。
だが、
互いに気づかない。
交わることもない。
桐生は、その背中を見送った。
そして思った。
LuxeAgehaは、
場所ではない。
店でもない。
人の五感と欲が、
生み出したもの。
だから、
消えることもない。
人がいる限り、
存在し続ける。
桐生は歩き出した。
信号が青になる。
人の流れに混ざる。
そのとき、
ポケットの中に違和感を感じた。
紙の感触。
桐生は立ち止まる。
ゆっくりと取り出す。
一枚のカード。
黒いカード。
中央に、
金色の文字。
蝶ではない。
桐生はその文字を見た。
そこには、
こう書かれていた。
碧
桐生は少しだけ笑った。
夜風が吹く。
どこからか、
また香りが漂った。
それは、
LuxeAgehaの香りとは少し違う。
だが、
どこか似ている。
桐生はカードをポケットに戻した。
そして歩き出す。
東京の夜の中へ。
光の街。
人の街。
欲望と、
美しさの街。
そのどこかに、
また新しい扉がある。
香りに導かれた者だけが、
見つける扉。
桐生は振り返らなかった。
ただ、
前を向いて歩いた。
夜の街へ。
その先へ。
香りの行き先へ。




