第十四話「空に近い部屋」
桐生は、エレベーターの前に立っていた。
見覚えのないビルだった。
外観は普通だ。
特別な看板もない。 古いわけでも、新しいわけでもない。
ただ、夜の街の中にある どこにでもあるビル。
それなのに、
桐生は迷わずここに来ていた。
ポケットには何もない。
招待状もない。
だが、香りがあった。
微かに漂う香り。
それが、ここまで導いてきた。
エレベーターのボタンを押す。
表示は一つだけだった。
最上階。
桐生は少し笑った。
「分かりやすいな」
扉が開く。
誰も乗っていない。
桐生は中に入る。
静かな箱の中で、 ゆっくりと扉が閉まる。
上へ。
機械音はほとんどしない。
ただ、
ゆっくりと街の上へ運ばれていく感覚だけがある。
数字が増えていく。
7 9 12 15
やがて、
軽い音が鳴った。
扉が開く。
そこは、
廊下ではなかった。
一つの広い空間。
天井は高い。
地下のLuxeAgehaよりも高い。
だが、神殿のような高さではない。
静かで、
落ち着いた高さ。
床はいつもの石の床。
御影石のようだが、
足に触れると温かい。
そして、
正面には
大きな窓。
桐生はゆっくりと歩いた。
窓の前に立つ。
東京の夜景。
無数の光。
道路の線。 ビルの灯り。 遠くの赤い航空灯。
だが、
どこか違う。
街は確かに東京だ。
それなのに、
桐生は思った。
これは、誰の東京だろう。
見覚えのある場所もある。
しかし、
見たことのない景色もある。
街は、
現実と少しだけずれている。
「綺麗でしょう」
声がした。
振り向く。
亜衣が立っていた。
いつもの黒いワンピース。
静かな微笑み。
「ここに来た人は」
亜衣が続ける。
「みんな、この窓を見ます」
桐生は再び夜景を見た。
「人によって」
桐生が言う。
「見える景色が違うんですか?」
亜衣は少しだけ考えた。
そして答えた。
「そうかもしれません」
曖昧な答えだった。
だが桐生は納得した。
ここはそういう場所だ。
桐生は窓に手を触れた。
冷たいはずのガラス。
だが、
わずかに温もりがあった。
「亜衣さん」
桐生は言った。
「この店」
「なくならないですよね」
亜衣は黙っている。
桐生は続けた。
「人はさ」
「美しいものに惹かれる」
「理由は分からなくても」
「止められない」
桐生は窓の外を見た。
夜の街。
光。
無数の人。
「だから」
「この店は消えない」
亜衣は、ほんの少しだけ笑った。
「どうしてそう思うんですか」
桐生は肩をすくめた。
「なんとなく」
少し沈黙があった。
静かな空間。
街の光だけが揺れている。
そのとき、
桐生は気づいた。
部屋の奥。
一つの扉。
黒い扉。
中央に、
金色の蝶。
蝶は、
静かに光っている。
地下で見た蝶と同じ。
だが、
ここでは
光が少し違う。
まるで
夜空に浮かぶ星のような光。
桐生は扉を見つめた。
亜衣が言う。
「桐生さん」
桐生は振り向いた。
亜衣は静かに言った。
「ここに来る人は」
「みんな何かを探しています」
桐生は少し考えた。
「俺は?」
亜衣は答えない。
ただ桐生を見ている。
桐生は笑った。
「分かった気がする」
亜衣は首を傾げた。
「何がですか」
桐生は言った。
「ここは」
「探す場所じゃない」
桐生は蝶を見た。
「気づく場所だ」
亜衣は何も言わなかった。
ただ、
静かに頷いた。
その瞬間、
蝶の光が
ふっと揺れた。
まるで
羽ばたいたかのように。




