第十三話「すれ違う香り」
東京の夜は、静かだった。
雨が降るほどではないが、空気は湿っている。 街灯の光がぼんやりと滲んでいた。
桐生は、歩いていた。
仕事帰りだった。
広告代理店の仕事は忙しい。 だが最近、以前ほど疲れを感じない。
理由は分かっている。
LuxeAgehaだ。
あの場所に行くようになってから、 桐生の思考は静かになった。
怒りが減った。
焦りも減った。
何より、
人を見る目が変わった。
交差点で信号を待つ。
人が多い。
夜の渋谷。
若者。 会社員。 観光客。
その中に、
一人の女性がいた。
黒いコート。
長い髪。
桐生は思わず目を止めた。
玲。
間違いない。
LuxeAgehaで何度も見ている女性だ。
桐生は歩み寄った。
「玲さん」
女性は振り向いた。
桐生を見た。
そして、
少し首を傾げた。
「……すみません」
「どちら様ですか?」
声は同じだった。
だが、表情が違う。
完全に、
知らない人を見る目。
桐生は言葉を失った。
玲は軽く会釈をして、そのまま歩いていく。
人混みに消えていく。
桐生は立ち尽くした。
そしてその瞬間、
ふっと香りが漂った。
あの香り。
LuxeAgehaの香り。
だが周囲の誰も反応していない。
通行人は普通に歩いている。
香りは、
桐生だけが感じている。
桐生は理解した。
LuxeAgehaでの出来事は、
現実と完全に重なっているわけではない。
だが、
完全に別でもない。
そのとき、
桐生の視界の端に、
もう一人の女性が映った。
駅の方から歩いてくる。
黒いワンピース。
長い髪。
亜衣。
桐生の心臓が一瞬だけ強く打った。
亜衣もこちらに気づいた。
目が合う。
だが亜衣は、
桐生の横を通り過ぎた。
何も言わない。
振り向きもしない。
まるで、
桐生がそこにいないかのように。
だがすれ違う瞬間、
ほんの一瞬だけ、
亜衣の目が揺れた。
それだけだった。
亜衣は歩いていく。
玲とは反対方向。
二人は、
同じ通りにいた。
だが、
互いに気づかない。
互いに、
存在していないかのように。
桐生はその光景を見て、
静かに息を吐いた。
理解し始めていた。
LuxeAgehaは、
場所ではない。
店でもない。
人の心が触れた瞬間に現れる場所。
だから、
人によって見える景色が違う。
人によって入口が違う。
そして、
同じ人に会っても、
現実では
他人のまま。
桐生は空を見上げた。
雲が流れている。
夜の東京。
どこにでもある街。
だが、
桐生は知っている。
この街のどこかに、
あの扉がある。
いや、
正確には違う。
扉は、
どこにでもある。
見える者にだけ。
そのとき、
桐生のポケットで、
何かが触れた。
紙の感触。
桐生はゆっくりと手を入れる。
取り出す。
一枚のカード。
黒いカード。
中央に、
金色の蝶。
LuxeAgehaの招待状。
だが、
以前のものとは少し違う。
蝶の羽の形が、
わずかに変わっている。
桐生は静かに笑った。
そして呟いた。
「……まだ終わりじゃないんだな」
夜の風が吹いた。
カードがわずかに揺れる。
その瞬間、
蝶がほんの少しだけ光った。




