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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
番外編 桜のない花物語
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向日葵

ひまわりは太陽にむかって咲くという。あれは眩しい花だから許されるのだ。もし、ひまわりが燻った灰色なんかをしていたら、きっと曇り空の下に咲くことしか許されない。

物心がついたとき、母親と自分だけの家族には何かが足りないと気づいていた。そのうちに、父親の存在というものが我が家にはないことを知り、しかも、父親の不在の理由が、どうも世間で通るような一筋縄でいく話ではないと子供心に気づいて、母親の前では、明音は父親というものを知らないかのように振る舞っていた。それが、とても辛かった。

 そのうち三文芝居も通じぬような年ごろがくると、母親はある日、突然明音の手を引いて自分の膝の上に座らせ、電気を消した部屋でテレビの電源をつけた。夏の夕暮れだった。エアコンが体に悪いからといって、明音の母はどんな暑い時でも扇風機か外からの風に頼っていた。真っ赤な風が入りこむと、舞い上がったカーテンがテレビの画面を覆ってしまい、母親はその度にじれったそうに手で払いのけていた。やがて、母は窓を閉めた。扇風機が遠くから弱弱しい風を送る中、じっとりと汗をかきながら、明音は暑いとも言えず、いつもと変わらぬ優しい様子の母親が逆に怖いとも言えず、ただ、母親の示す通りにテレビ画面に見入っていた。それは、母親が好きな映画のビデオだった。つくつくほうしが鳴いているのは、映画の中なのか、それとも現実世界でなのか分からなかった。映画の中も同じく夏の夕暮れであった。一人の若い男性が自転車をおしながら歩んできて、木陰に足を止めた。美しい顔立ちの人だった。それから画面は男の足元へ移って、土の中から這い出る蝉の幼虫と、ころりと裏返って死んだ蝉の死骸を映し出した。子供は、死骸の傍らから生まれ出てくるのであった。母親はなぜか、先ほどの俳優の顔のアップではなく、この場面で言った。

「貴方のお父さんよ」

明音は衝撃を受けた。色々と聞きたいことが多くあったが、小さな口に最初にのぼったのはこの質問だった。

「……蝉、死んじゃうの?」

母親は声をたてて笑い、明音をぎゅっと抱きしめた。母と子の汗がTシャツとノースリーブの白いワンピース越しに張り付いた。

「そうよ死んじゃうの。お父さんも死ぬわ。死ぬふりをするの、このお話の中ではね。でも、現実では生きているのよ。生きてお母さんのことを愛しているの。お母さんもお父さんのことを愛しているわ。愛しているってね、こういうことよ、明音。お母さんが今ぎゅっと明音のことを抱っこしているみたいなこと。お父さんはここにはいないけど、遠く離れたところでお母さんをぎゅってしてくれているの。だからね、明音、あなたはお母さんの宝物よ。大好きな大好きなお父さんとの間にうまれた子供だからね」

あの時、母は泣いていたのかもしれない。首筋を伝っていったのは自分の汗か、母の汗か、それとも母の涙か、分からなかったし、分かろうともしなかった。今となっては知る術もない。そして、母親の予言通り、父親は銃で撃たれて死んだ。父は、夕焼けと同じ真っ赤な血を流した。


母親は、細切れにした物語を、明音の成長に合わせて話してくれた――お父さんとお母さんは本当に愛し合ってたのよ。でも、お父さんはもう他の人と結婚していたから、お母さんとは結婚できなかったの。仕方のないことだったの。お母さんも最初から、お父さんと結婚できないことを知っていて、それで好きになったんだからね。でも、お母さんはお父さんと結婚できなかった代わりに明音を生むことができたわ。だから、いつもとっても幸せでいられるの……

貴方にはね、お兄さんがいるのよ。ううん、お母さんが生んだ訳ではないけれど。腹違いのお兄さんって意味。知ってる?お父さんとお父さんの奥さまのお子さんよ。二人いるの。一番上のお兄さんは薫さんっていってね、次のお兄さんは慎さんっていうのよ……」

お父さんの映画ね、もうすぐ日本でも放映されるって。アメリカでは大ヒットみたいよ。ねぇ、今日はごちそうにしましょうか?

お父さんは決して浮気な心で私を愛したんじゃないわ。私がそれを一番知ってるもの……

 こうした物語の最後に、母は必ず、その時だけ怖い顔をして付け加えた。

「でも、この話は絶対に誰にもしちゃいけないわ。いい?絶対によ。どうせ嘘だと思われるに決まってるけど、他の人に知られたらお母さんもお父さんも困ることになるんだからね。お父さんの家族にも迷惑がかかるのよ。明音、貴方はお父さんが好きでしょう?お兄様が好きでしょう?だから、絶対に誰にも話さないこと。約束ね」

 今思えばどこか狂気めいている。穏やかに、優しい顔で、男女の強烈な愛と、父の家庭の秘密を暴く母の姿は。それでも、明音が少しもひねくれずに育てられたのは、やはり母親のおかげだった。父親の姿がいつでも傍にあったから。手は届かなかったけれども――憧れることができた。夢に見ることもできた。顔を合わせたことすらない父と兄を、明音は母と同様に愛し、尊敬し続けた。少なくとも、明音はそう思い込んでいた。


「……私を、憐れみますか?」

 そんな母の呟きが聞こえる。真夏の夕暮れの廊下を歩いていると。明音は足を止める。学校の白さは病院の白さに通じるものがあった。明音はふと窓の外と見遣る。青葉が、この一時だけは紅蓮に燃えている。

 母の余命が宣告された日であった。中学二年生の夏だ。部活をやめることを母は許してくれなかったので、明音はサッカー部の練習が終わるなり急いで母の病院へ駆けつけていた。その日はスイカを一玉抱えていた。サッカーボールよりは一回り小さな、でも身のつまった果実だった。人は好いがいつも仏頂面の看護婦は、明音が院内に泥を持ちこむことを許さなかった。彼女の監視の下しっかりとマットで泥を落として、明音は母親の病室へ続く階段をのぼっていった。その後ろ姿さえも、看護婦は見張っていた。

「母さん!」

いつもはそんな風にして病室へ飛び込むのだったが、母の静かな呟きが、明音の勢いを止めた。母は一体だれと会話しているのだろう。

 母はエアコンをここでも拒んだ。半開きになった扉から、母の病室に吹き込む風が流れてきた。覗き込む部屋の中に、二つの影が縦に重なってみえる。パイプ椅子に腰かけた祖父母であった。明音はぞっとした――私を憐れみますか?母は自分の両親にむかって投げかけたのだ。

「静香、何を言ってるの?」

「言葉の通りですわ、お母様。私を憐れんでいらっしゃるかお聞きしているのです」

「自暴自棄になるのはおやめなさい。私たちに貴女を憐れむ余裕なんてある訳ないでしょう?」

「どうして?」

「どうしてって……自分の可愛い娘が病気に苦しんでいるのですよ。悲しまずにいられぬ親がありますか。貴女を憐れむより、今は自分の悲しみでいっぱいです」

「お母様……」

ハンカチを目にあて、突如泣きだした祖母の肩に寡黙な祖父はそっと手を置いていた。母が寝台の上で身動ぎをする音がした。明音が眺めていると、母親はベッドの縁に膝を寄せて、祖母の肩に縋りついた。その目にも涙が光っていた。

「静香……」

「ごめんなさい、お母様、お父様……」

「いいんだ。静香」

祖父は初めて口を開いた。喋り方を忘れたか、悲しみに胸がいっぱいになっていたのかは知らないが、その声はしわがれてかすれていた。

「まだ望みはある。諦めたら、明音に笑われるぞ」

「はい……」

「そうよ、静香。貴女には明音がいるじゃない。明音のためにも生きなきゃ駄目よ」

「明音……」

「貴女らしくないわ。病気が見つかった時だって貴女は凛としていたじゃない。力を落としちゃ駄目。ねっ?」

「はい……」

 祖父母が席を立つ気配を感じた時、明音は咄嗟に階段を一つのぼって踊り場に姿を隠した。祖母は泣き、祖父がそれを慰める形で二人は階段をおりていった。明音は一度病室の階に戻ってはみたが、母の部屋に入ったものかと迷った。母はきっとまだ泣いている。泣き顔を見られるのを母は嫌がるだろう。どうせなら、明音の記憶の中では、母はずっと笑っていたことにしておきたい。明音はその場を去ろうとした。

 その時だった。何かがぶつかる鈍い音と共に、ぐしゃっという嫌な音が聞こえて、明音は引き返す足を止めた。母親の病室からだった。母は、半開きになった扉から覗けるところに立っていた。白いワンピースに白いカーディガンを羽織って、白い壁にじっと向き合っていた。差し込む夏の夕日がそれらを全部真っ赤に染め上げている。音の正体は尚も分からなかった。一体何だったのだろう――ふと、明音は壁の赤色が尋常でないことに気づいてはっとした。壁の色は、投げつけられた果物の果汁の色だった。果汁は床の上に朽ち果てた残骸の上に滴って、まるでスイカの血のように、ゆっくりと拡がっていた。明音は父親が銃で撃たれる場面を思い出した。

「この樹登らば、鬼女となるべし夕紅葉……」

母親が悔し涙で見ていたのは、明音ではなく、明音の後ろの窓に揺れる木の葉だった。今、校舎の傍で揺れる葉と同じく、紅蓮に染まる……


 それから、明音は見舞いにスイカを持っていくのをやめた。ひまわりの花を持っていくことにした。母親もこの明るくけなげな花が好きだったし、花は枯れるまで明音が生けた通りに花瓶に飾ってあった。それから、半年後に母親は死んだ。

 あの病室での出来事を、明音は抹消することにした。だから、明音が話す涌水静香はいつも笑っている。しかし、明音が母親のことを思い出す時、何の条件もなしに穏やかな気持ちになるのは、あの日のおかげだと明音は思っている。明音はどこかで安堵していた。母親もまた、理不尽な運命の仕打ちに苦しむ一人の女であったことに。チャイムの音に急かされて、明音は更衣室へと急いだ。



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