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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
番外編 ネオンが灯るまで
73/82

Act1.クリスマスベル

番外編です。

クリスとノアが学園を去ってから最初のクリスマスの話です。

「ねぇ、これ鳴らないよ」

 菜月がそう言ったとき、颯の目に映っていたのは十八歳の青年ではなく、前髪を切りそろえて大きな黒目を潤ませたあどけない幼子の顔だった。笑おうか笑うまいかと迷ったが結局傷つきやすいこの時期の心を思いやって、優しく微笑むだけにとどめた。そして、たった今目の前に突き出されたばかりの鈴を手にとってひっくりかえした。本来小さな鈴の声帯が存在するはずの場所には、空虚な暗闇が鈴の金色と色を交えてむなしく横たわっている。

「あたり前だろ。ただの飾りなんだから」

「どうして飾り物だからって音が鳴らないようにするんだろ。音がしなきゃ鈴は鈴じゃないのに」

「その方が安上がりだからだろうね」

「つまらない」

 颯の現実的な答えに子供らしく唇を尖らしても、わかりきったことをやはり尋ねずにはいられない無邪気さを保っていても、菜月は変わった。この一年で身長は3センチ近く伸びていたし、鼻筋が通って頬が白く痩せ、丸かった目がやや切れ長になって、表情がぐっと大人びた。体つきももうほとんど立派な大人といってよかった。今までは小柄さと可憐とさえ言える幼げな風貌でうまく隠していたが、剣道で鍛えた体は健やかで、四肢はすらりと伸びていた。たまに試合を見に行くと、菜月は馬が躍動するような動きをしてみせることがあった。

『奔馬』――かの文豪の小説の題名がふと頭に浮かんだ。颯にはなじみの深い作品だった。中学の頃、美しい文章にあこがれて何度読み返したことだろう。そして今もパソコンに向かう颯の左手には、同じ本が握られている。三月の卒業式を終え、三宿学園大学文学部国文学科に進学した颯の今年最後のレポートのテーマである。自分の使命にとりつかれたように純粋で短すぎる人生を送った飯沼勲の横顔が、時折菜月と重なるのはどうしたことだろう。菜月には確かに純粋さがある。だが、それは世界に立ち向かって砕けていく純粋さではない。空気のように周囲に溶け込んでいく透明さ。その中にいる浮遊感と温かさ……決して刃は光らない世界である。それでも――

「颯、どうかした?」

菜月に尋ねられ、颯は我に返った。真っ赤なセーターに身を包んだ菜月の背後では、窓が四角く冬の夜空を切り取って、オリオン座をその中央に据えている。大学の学生寮は、高校の頃の豪華な純和風の邸宅からみれば、ひどく小さい。だが、颯は他の生徒と平等に同じ建物に押し込められることが、なんとなく心地よかった。正直にいえば、高校の頃は悪目立ちがすぎたと颯はいまさら思っている。

「別に。寒いから、カーテン閉めようか」

颯は歩いていく。オリオン座をダークグリーンの布で覆い隠すために。よく澄んだ冬の空に、星の光がゆらめきながらの永遠を語っているのを見ると、颯はあの少年を思い出さずにはいらない。石崎・エーリアル・クリス。彼もまた、飯沼勲の目をしていた。



 立ち上がり、窓辺に頬を寄せる颯を見つめる菜月の顔には、繕った訳でもなく聡明そうな表情が宿った。颯が大学に入り、毎日のように顔を合わせることができなくなってから、颯との距離はずっと遠くなり、それ故に近くなった。しかし、菜月はもう依然のような我儘や嫉妬を素直に表せなくなっていた。それは、颯の世界に菜月が存在しない場所があるように、菜月の世界にも颯のいない場所が存在しはじめたからだ。しかも、そこは決して虚無の世界ではなかった。

 生徒会書記としての日々は忙しい。颯はよく悠々と落ち着いて歩いていられたものだ。菜月は休み時間ごとに廊下を疾走しては森先生に発見され、よけいに移動に時間がかかるという事態に陥ったが、本当に緊急の場合は落合を見習って逃走するという方法があった。ただし、次の体育の時間が必ず恐ろしいことになったが。

 一体なぜ自分などを校長は生徒会役員に指名したのか。菜月はさっぱりわからなかった。自分は特別優秀な生徒である訳でもない。ただ剣道に一つ道を捧げてきた。一度校長に直接聞いてみると、校長は笑って答えた。

「君は特別な経験をしていますからね。おそらくこの学園では、君のような経験をする人は今後二度と現れないでしょう。僕がそのように取り計らいますから。僕は君のような人間を二度と生み出したくないと思っていますが、でも、君には価値があるのですよ」

 そう言って、校長捜索隊の足音を聞くなり身をひるがえした校長に、それ以上何も聞けなかった。菜月は聞こうともしなかった。ただそれから菜月の態度に少しずつ変化してきたことに本人は気づく由もなかったが、颯と友人たちは気づいていた。菜月の目はより広いものを捉えるようになり、無表情な表面をざわめかせていた激しい感情の波は、以前よりずっとおとなしくなった。時々けだるさが菜月を襲うこともあった。春の日の午後に、一人取り残されたようなけだるさだった。不快ではなかったが、違和感はあった。颯の変化に瞳を注ぐとき、そのけだるさは余計顕著になった。

 颯は変わったと、自分の変化には一向に気づかないまま、菜月は敏感に感じ取っていた。ラベンダー色の瞳から追い詰められた獣のような野性の光が消えた。高校時代の颯は、一言言葉を発するのにも警戒していた。極めて慎重に丁寧に会話を運びながらも、彼は相手がいつ刃を抜いてもいいように構えていたのだ。例え会話の相手が菜月であっても。擦れて丸みを帯びた彼の声や言葉を聞くとき、菜月は高校時代の颯が異常だったことを改めて思い出し、驚いた。

 会うたびに菜月は颯に「老けた」と悪口を言った。颯は呆れたような顔をしてみせたが、彼は老いていくというよりも、ゆるやかに円熟していくようだった。それは颯が菜月に認めた青葉の成長ではない。細石が集うような、しかしもっと美しい現象であった。

 もし以前の、去年までの単純な自分であったら、自分はそんな颯の変化を嫌がっただろう。なんとかして颯をそのままの状態に留めようと努めたはずだ。たとえどんな我儘で乱暴なことをする羽目になっても。今の菜月はそうした颯の変化を認めていた。これは諦観なのだろうか?

 菜月は手の平の鈴をもてあそびながら、先ほどまで颯が腰を下ろしていた椅子にこしかけた。パソコンのスクリーンには菜月の知らない難しい単語が並んでいる。菜月はそれを読もうともしない。颯はカーテンを閉めようとして指を布に絡ませたまま、オリオン座に見入っている。何か一つ音でこちらに引き戻したいけれど。耳元で何度鈴を振っても音は出ない。鈴を放りかけた菜月は、掃除のいきとどいた白い壁の上にあるものを見つけた。



「ねぇ、颯」

 こぼれ出た音は鈴の音より尊く、震えて、かすかに。

 振り返ろうとして、颯は突然動きを止められた。菜月が急に背後から腕をのばしてきて、颯の体を抱きしめたからだった。颯は突然のことに困惑し、自らそういう柄でないことを感じながら、窓に押し寄せられた唇から洩れる吐息が窓を曇らせ、頬をしっとりと熱くさせていくのを感じた。また、颯は、菜月の鼓動を感じる位置がずいぶん高くなったことを知った。菜月の伸び方は三センチでは済まないようだった。

「どうしたんだよ、急に?」

優しい嘘で誤魔化す術は颯にはもう残っていない。

「真似してみただけだよ。ほら、あの絵」

「あの絵?」

颯に巻きついた腕が一本解けて、壁にかけられた額縁を指す。見上げてはじめてその存在に気付いたように、颯は絵を眺め、苦笑した。ああ、そうだ。僕は彼の貴重なスケッチを持ってきていたのだった。


 菜月の腕がまた元に戻って、絵の中の二人と同じ姿勢に戻る。戻ろうとはしたのだろう、だけど……颯は窓の外の暗闇が一層鮮やかに描き出す自分の顔が、最早昔のように微笑めないことを承知していた。菜月の抱擁を背中に受けた颯の表情は、幸せそうだがどこか切なさそうでもあった。充足感に浸りながら、どこかに何かを置き忘れたような。

「ねぇ、クリス、僕は満ち足りてしまったよ」

颯はひそかに胸の中でつぶやく。

「僕は変わらず高みを目指しているけれど、それは僕の世界でも十分手にすることのできるものなんだ。そしてそこに行きつくまでに、非現実的なほど強大な力に襲われる不安もない。ねぇ、クリス、僕は……」

絵の中に少しの変化を加えることを颯はためらわなかった。自分の胸にしがみつく菜月の手にぎゅっと握られた鈴を、颯は手を重ねるようにしてそっと奪い取り、オリオン座に向けてかざした。

「僕は鳴らなくなってしまったんだね」

けれども、その鈴の飾りは美しかった。鳴らない鈴の輝きを、菜月の目もまた颯の肩越しに追っていた。




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