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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第四章 革命
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第三十九話 されど世界は美しい


 三月一日。木曜日。晴れ。

 風はない。天気予報士が三月の下旬並みといった気候は、鳥も花も人をも喜ばせている。薄雲はパステルブルーの空をのんびりと流れ、海も穏やかである。休校日のために人影はまばらであるが、私立三宿学園の校舎は相変わらず白く真っ直ぐにそびえている。何も変わりはない。何も不思議はない。そんな朝のことであった。

 落合と来夏は学園の門に手を振って、寮への道を引き返すところであった。重々しい溜息をつかなくとも、二人の沈んだ気持ちは互いに察することができた。落合は不平を洩らす代わりに両手をぐっと高く空にむかって伸ばした。

「大丈夫か?」

「そっちこそ」

返された言葉に来夏は苦笑する。

「俺は何となく分かってた。いつかこんな日が来るんじゃないかって、時々思ってた。昔からああいう奴だったから……」

「こんなことになるなら、もっと色々しておけばよかったよな。旅行とか、パーティとか。百人一首大会なんてやってねぇで」

「別にこれで最後って訳じゃない。またそういう機会はあるさ」

「……そうだといいけどな」

「それで、今日の予定は?」

「まず頼まれたことだけ済ませて、酒本のお帰りなさいパーティの道具を買いにいって……あっ、二時から大河内の試合を見にいかねぇと」

「相変わらず忙しいな、お前は」

来夏は通りかかった際にポストにエアメールを差し込んだ。異国の恋人へ。はたしてこの想いは届くのであろうか。

「しっかし、大丈夫かな、あいつ……」


***

「お帰りなさい」

 理事長室に入った瞬間、そんな言葉が投げかけられた。両手を後ろで組んで立ち、懐かしの部屋をしみじみと眺める時間さえも与えてくれない。大学以来の朋友でもあり、盟友でもあり、上司であり、そして好敵手でもある自分を、無感動な微笑みと慇懃無礼な態度で迎え出る。それが風間信吾郎という男だった。有瀬裕理事長は自分の落胆を示すために、かなり大袈裟に肩を落としてみせた。

「何かご不満ですか?」

「いや、まさかお前が待っていてくれると思わなかったから。わざわざ休日出勤ご苦労様」

「理事長に復帰なさったお祝いを一言申し上げようと思いまして」

復帰か。呟いてはみたが、気持ちは一向に盛り上がらない。朝日が照らし出す豪奢な椅子と机とを見遣ってもやはりそうだった。そこに久しぶりに腰かけると、なんだかこの席に拒まれているような気にすらなってくる。前理事長の痕跡はすっかり追い払われていたにも関わらず。

「おめでとうございます」

校長が腰を折って言う。

「何がおめでとうだ。僕はもうすっかり参ってるよ。せっかく久しぶりにゆっくり過ごせたのに、もう仕事に追われなきゃいけないんだから」

「仕事というのはそういうものです。貴方はまだ働けるんですから、しっかりしていただかないと」

「お前みたいなのとは話しててもちっとも楽しくない。同情もされないんだから」

「おや、それは申し訳ありません」

「のれんに腕押し。豆腐にかすがい。お前は何を言っても応えない」

「柳に風と言ってほしかったですね」

いらだたしげに鼻を鳴らして、理事長は回転式の椅子をぐるっと回した。理事長室の景色の何もかもが一色に変わる。一言話す度にこちらの神経を逆なでせずにはいられない、校長の姿さえも。しかし、何度かやったところで唐突に気分が悪くなり、理事長は頭を押さえてふらふらと立ちあがると、窓辺に寄った。

「……大丈夫ですか?」

校長が尋ねる。気持ちのこもらぬ同情より、回る目には美しい中庭と春の風が一番効果的であった。はあ、と溜息が零れ出る。この男に言ってやりたいことは沢山あるのだけど。

「まあいいや。文句を言ってても始まらない。とにかくやらなきゃいけないことが山積みになってるんだから。残念なことに、お前にも手伝ってもらわなきゃならないからね」

「この学園の改革、ですか?」

「そういう大々的な話は後。まずは退学届の受理をね」

「ああ、そうでしたねぇ……」

校長は理事長がまだ働けないのを見てとり、断りもせずに机の抽斗に手をかけた。確か一番上の段だったはずだ。勝手な行動をプライバシーの侵害だと言わんばかりに睨んでくる理事長の目線は無視して、校長は二枚の書類を取り出した。石崎・エーリアル・クリス。有瀬ノア。二人の退学届であった。必要事項はすっかり記入しつくされ、後は理事長の判子を待つだけになっている。理事長は首を振りながら溜息をついた。

「……さびしいねぇ。学園からまた二人もいなくなるんだからねぇ」

完璧になった書類を理事長は一刹那だけ、目を細めて見つめた後、すぐに顔を背けるようにして校長に手渡した。

「貴方の手で変えられますよ。誰もここから去らなくてもいい学園に。それに、生徒会役員たちは戻って来てくれたではありませんか」

「嫌な奴ばかり戻ってくるなぁ。僕、あいつら嫌いなんだよね。みんな取り澄ましてて生意気だから。全然子供らしくないんだもん」

「理事長がなんということを……」

座り心地の悪い椅子は、先ほどより少しましになったような気がする。ようやく元の持ち主を思い出したのかもしれない。思い出してくれなければ困るのだ。これから後何年間かはこの椅子に座っていなければならないのだから。


***

 生徒会書記、榊原颯は寮の縁側に腰かけていた。紺の木綿の着物をゆるやかに着こなして、立てた片膝の辺りに湯飲みを持ち、眼鏡を外した目の中にようやく取り戻した平穏に静かな喜びを映している。その傍らでは菜月がきちんと正座をしながら和三盆をつまんでいた。

「あーあ、せっかく楽しかったのに……」

菜月の呟きに、颯は目線だけを向けて続きを促す。

「颯と二人きりで。今日からまた自分の寮に戻らなきゃいけないし。颯だってもうすぐ卒業でしょ?そしたら今度は……ずっと一人だ」

どうやら落ち込んでいるのは真面目らしい。颯は湯飲みを床に置いて、うつむく菜月の頭にぽんと手を乗せた。少しだけ顔をあげた幼なじみに颯は優しく微笑みかける。「そういう日はいつか来るんだよ。でも、何も変わらないさ。今までとね」

庭の白梅は今が見ごろである。



 生徒会議長、小杉茘枝は寮のバルコニーに立ち、愛猫を膝にのんびりと紅茶を嗜んでいた。喉元をくすぐってやると、シャネルは満足げな声をあげてますます丸くなった。ここに帰ってきたら久しぶりにやりたいことはいっぱいあったのだけれども。この懐かしい海を見た途端に、全てが飛んでいってしまって、何から手をつけていいか分からなくなってしまった。バイオリンも弾きたい。もう長いこと手を触れていないから、よほど腕が落ちているだろう。また元に戻るには相当な練習が必要なはずだ。だが――茘枝は透き通った空を仰ぐ。その途端に視界を塞がれた。子供っぽい悪戯に茘枝は頬を緩ませる。焦る気には到底なれないのだ。この少年と一緒だと。



 生徒会会計、川崎陽は寮のバルコニーで寛ぐいとこの姿を見つけ、その目に右手で覆いをかけた。いとこの指が絡んだままのティーカップから紅茶を盗んだ後で、陽は茘枝の口元に唇を持っていこうとする。茘枝がそれを制した。

「何で?」

「君が今盗んだのが最後の一口だ」

「弁償はしてやる。コーヒーでよければ」

「……まっ、偶にはな」

コーヒーの香りは既に漂ってきている。シャネルは早くも呆れ顔をしてぴょんと膝の上から飛び降り、開けっぱなしの窓から居間へと戻っていった。



 生徒会会長、千住慎はフェンシング場にいた。「フェンシングを教えてほしい」と明音が突如頼みだしたのには驚いた。理由を尋ねても、明音はこんな時にかぎってにやにやと照れるばかりで何も言わなかったが、自分がフェンシングをしているのを昔から知っていて、実は密かに憧れていたのだろうと推測できた。

「慎様ー!」

相変わらずのかしましさで明音が駆けてくる。大きく手を振る明音に眉を少しひそめつつも、慎も小さく手をあげて返事をした。明音の満面の笑顔が零れ落ちそうになっている。

 あの時――フェンシングを教えてほしいと頼まれた時、ちょっと考えた後であっさりと快諾したのは、一緒に過ごした一週間かそこらの間に、多分ほんの少し分かったからかもしれない。慎は自嘲するように、しかしそれも清々しい自嘲の仕方で、一つ息を吐いた。すぐ後ろで、兄だけがそんな溜息を聞き咎めたかもしれない。でも、薫は笑うだけだった。



***

 荷物は少なかった。父が餞別にとくれた鞄で全て事足りた。初等部の生徒たちがきゃあきゃあと明るい声をたてながら、前を横切っていく。何も知らない無邪気な姿だった。知人に挨拶まわりをする必要はないだろう。自分はこれから忘れ去られ、自分もまた彼らを忘れていくのだから。

 ノアはチェック柄のキャスケットを目深に被り、学園の門へ続く道を歩いていた。あの人は今頃どうしているだろう。彼は光を失った。それはノアを助けるためでもあったし、彼自身を助けるためでもあった。彼は救われたのだろう、恐らくは。でも、だからといってこの胸を刺す罪悪感が消える訳ではない。だから一人ここを去る。あの人がくれた全てをしっかりと抱きしめながら。

 守衛の操作で門が開く。いよいよお別れだ。最後に学園を振りかえろうとして、ノアは門の手前の木陰に一人佇む人物に気づき、はっとしてその場に立ち尽くした。風が一つ吹いて、木々をざわめかせた。紛れもない春の風だった。

「有瀬……よかった。来てくれたんだね」

「あっ……」

ノアの瞳は大きく揺れた。その人の瞳は――分からない。だが、クリスは微笑んでいた。

「ここまでどうやって……」

「関本と落合が手伝ってくれた。二人にちゃんと挨拶はしといたよ。二人分まとめてね」

ノアは顔を伏せた。貴方の優しさが僕には時折痛かった。それをどうして理解できないのですか。そんな想いを込めたつもりだった。

「有瀬」

クリスがそっと呼んで、不器用に踏み出した一歩に気づき、ノアは思わず駆け寄りそうになった。案の定クリスはふらついたが、すぐにその手が桜の幹を見つけて何とか持ち直す。

「クリス様……!」

「有瀬……君は君を責める必要なんてない。俺は今までの光を失ったけど、同時に君という光を得たんだ。だから、何も失ってなんかいないんだよ。二人で行けばいい。二人で行けば、必ず道は開かれるんだ。お願いだ、ノア、どうか……!」

真っ直ぐにこちらに向かって差しのべられた手。それは多分、ノアの手を引くために差しだされたものではない。ノアが引いていくために。ノアが道を作っていくために。

 そこに大きな困難が待ち受けていることもノアは知っていた。これまで自分たちを守ってくれていたものが全てなくなることも。ノアはクリスの方へとゆっくりと歩み寄っていったが、その時、まだ決心はついていなかった。目の前に自分が立っていることすら分からぬこの人に、一体どんな結論を出せば……ノアは目を閉じた。これがクリスのいる世界だった。世界は暗かったが、クリスの立っている場所に、ノアは光り輝くものの存在を感じることができた。差し込む朝の陽ざしだったのかもしれない。だが、目を開けたノアは、一瞬ためらった後で、しっかりとクリスの手を取った。

「ノア……!」

「……行こう、クリス」


 同じ頃、クリスとノアの寮の整理をしていた落合と来夏は、二人の寝室に置き去りにされたスケッチブックを見つけた。止める来夏を無視して、落合はぱらぱらとページを捲った。最初は鉛筆で描かれたモノクロのスケッチだった。「石崎のタッチと違うよな」そんな二人の会話を止めたのは、そこだけ色のある絵であった。笑顔のノアの姿。そして、その隣のページには、鉛筆で描かれたクリスがノアに笑いかける姿が。二人の手はそれぞれのページを超えてしっかりと結ばれていた。

 落合が傑作だと評して口笛を吹いたその絵。そこに描かれた二人は、新しい道を歩み出した現実の二人を、まるで予想していたかのようだった。




「されど、世界は美しい――」









ご愛読ありがとうございました。

本編はこれにて終了となりますが、Crystal Brush短編集「桜のない花物語」(http://ncode.syosetu.com/n5430n/)はもう少しだけ更新するつもりです。

また皆様とお会いできる機会がありますように。


篠原零

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