Act2.柊
柊の実の赤はキリストの流した血の色だという。そんなことをぽつりと陽に話すと、彼は「えっ、ただの魔除けだろ?」と返した。何も言えない茘枝は、少し呆気にとられてそれから笑った。
全人類のために十字架を背負ったキリストの痛みに何も感じない陽は、茘枝が陽のために傷つくことを何よりも嫌がった。宿題を拒む子供のような嫌がり方であった。あの学園で過ごした四年間、茘枝も陽も互いに求めあいながら、互いの肌に触れながら、相手の指がなめらかな皮膚の上に一つくぼんだ傷痕に触れることないように気を配った。時々二人のとぼけたような視線が、空中でぶつかって弾けることもあった。しかし、二人は切ない猜疑でさえも愛の内に押し込めた。弾けたものの欠片を、真昼に輝く月のように簡単に引きはがせそうな薄い膜の破片を、指ですくってしまいこんで。
きっと今は違う目をしているのだろう、自分たちは。茘枝の膝の上でぐっすりと眠りこんだ黒い頭を撫でて、茘枝は目を細めた。この気持ちをなんといえばよいのか分からない。愛しながら互いの背に容赦なく鞭を宛がっていた時代は過ぎ去った。今はひたすら甘やかしたいような愛おしさだけがこみあげてくる。朝の日差しが箱庭に注ぎ込んで、やがて満ちあふれるように。
「陽」
名前を呼ぶと陽はほんの少し身じろぎして、小さく呻いた。猫が返事の代わりに尾を振るようなものだった。
「時間だぞ」
腰にすりついてきたものに、茘枝は目を落とす。愛猫のシャネルが飼い主たちの暇をめがけて飛び込んできたところであった。茘枝は陽の髪をなでていた手で、今度はその顎に触れる。すると、陽の手がたちまちそれを奪い返して、シャネルは不満げに一つ鳴く。
「陽、十分だけじゃなかったのか?」
「んー……」
「やらなきゃいけない課題があるんだろう?」
「別に、明日でも……」
「明日は大学のクリスマスパーティだろう?」
「んなもんサボって……」
「君はあまりに引きこもりすぎる。偶には社交的になったらどうだ?ほら、とりあえず、私の膝の貸し出し期限は終わりだ。次の予約者が待ってるんだから」
茘枝が空いた方の手で頬を優しくつねると、眠い頭とまだ開かない喉で示せる限り不服そうに、陽はのろのろと頭を起こした。彼の顔がやや傾いで茘枝の胸元あたりまで上がった時、いつもは顔の上半分近くを覆っている長い前髪が幕をよけたかのように開いて、蒼い瞳を透かして見せた。茘枝の腿にあてていた方の頬は赤く染まって、茘枝のズボンの縫い目の痕をくっきりと残していた。茘枝はそこをなだらかにするように撫でてやった。
「おはよう」
「おはようじゃねぇよ……」
陽は寝起きの低い声でぼやいた。
「確かに午後十一時は早いとは言えないな」
茘枝は悠然と言い放つと、場所が空くなり飛び込んできたシャネルの温かく柔らかい体をぎゅっと抱きしめた。鼻先をくすぐる白い毛から日向の匂いがした。
「そんなに睨むな、陽。君が頼んだ通りに起こしてやったんだ」
「……気が変わるってこともあるんだよ」
「いちいち君の気まぐれに付き合っていたらどうなることやら。なぁ、シャネル?」
「あー、ちくしょう。黙らねぇと口を塞ぐぞ」
「おや、光栄だ」
最後の言葉を言い終わるか言い終わらないか、その狭間に既に茘枝の頭はソファに肘掛に押し付けられ、唇に鋭い感化を受けていた。かわいそうなシャネルは二人の飼い主の間でぺしゃんこにされないように急いで逃げていった。暖炉の火を受けてより一層爛々と燃えるシャネルの大きな緑色の目は、一つに溶け合った二つの影が飽きることなく互いの口を塞ぎ合っているのをしばらく見つめていたが、やがて諦めたように部屋を出て行った。シャネルの後ろ姿を目で追って、二人はようやく離れた。
「ほら、シャネルに怒られた」
「好都合だろ?」
茘枝の黒髪に顔を埋める陽の声の低さは、最早寝起きのためではなかった。茘枝は微笑みながら、聡明にも彼の体を引き離した。
「陽、英語の課題はどうしたんだ?それに私も明日一つミニコンサートを控えているんだ。敬虔なクリスチャンに音のはずれた讃美歌は聞かせられないさ」
目を閉じればすぐに流れてくる自らの奏でる音楽。この音がきっと明日、冷え冷えとした貧しい教会に響き渡る。そしてそこに集う人たちの祈りはより清らかにより強く燃え上がるのだろう。この胸の中にある愛とどちらと……
三宿学園高等部を無事に卒業した二人には、慣れ親しんだ三宿港を離れるのは非常に惜しく思われた。二人の生活には常に海があった。だからせめて、二人の暮らす場所は海の間近に見えるところでなくてはならない。
茘枝のバイオリンのファンだという素封家の老人が、息子夫婦が海外転勤のために引き払った後誰も住み着いていなかった海辺の館を貸家に出したのはちょうどその頃だった。陽は卒業後間もなくあてもなく散歩をするくせがついていて、ホテルから延々二時間近くも歩き続けた末に、バルコニーを砂浜の真上にさらけ出した瀟洒な白い建物を見つけて足を止めた。それから三日連続でその家の持ち主を訪れ、一人でさっさと話をつけてしまうと、ルームサービスでゆったりと朝食を済ませていた茘枝とスーツケースを引っ張って、ヤドカリのように素早く住処を変えてしまった。茘枝は喜びがこみあげてくるまでの間は、とことん呆れ返ってみせた。
四月になると、陽は三宿学園大学の商学部に進み、茘枝はバイオリニストとしての道を選んだ。二人はこわいほど順調であった。夜になって、二人で白いシーツの上で寄り添いあいながら窓の外の海原を見つめるとき、二人は実生活で感じない分の不安を、波打つ暗黒に見出した。それでも、何も起こらなかった。四月の海は冷え込む夜でさえも穏やかで、夏の日の下ではまぶしいほどさざめきたった。だが、冬が足音をたてて駆け込んでくる季節、雲の彫の深い、海の荒れる日に事件は起こった。
あっ、と茘枝が玄関から一歩出て止まったのは、羽織ってきたジャケットがあまりにも薄いことに気が付いたからだった。今夜は大分冷え込むそうだ。もう少し着込んできた方がいいだろう。
翻した肩に白銀の刃が襲いかかろうとしていた。茘枝がすべてに気付いたのは、茘枝の体にしがみ付くようにして抱きすくめた強い力と、耳に触れた吐息の熱さのためだった。
「あき……?」
からんと一つむなしい音がして、茘枝の足元に何かが転がった。それはナイフだった。はっと顔をあげた時、陽の黒いシャツの肩が茘枝の視界を覆った。背中を探る手の指先がふと濡れた。
無意識のうちに信じていた。もし、二人の内のどちらかに生命の危機が訪れて、どちらかがそれを庇って死なねばならぬとしたら、それは自分だと。自分が陽を守って死ぬのだと。それは尊い愛であると同時に子供じみた理想でもあった。現実という名の刃が切りかかってきて、茘枝は初めて守られ、愛される受け身の自分を知った。この手が赤く染まって初めて。
「陽……っ!!」
幸い陽の怪我は浅かった。もちろんその基準は命に別状があるか否かのところで作られているものなので、茘枝は陽が弱弱しく笑うまでひどく打ちのめされていたが。今までにないほど素直に恋人たちが抱きしめあう病室がある一方で、氷室彼方は取調室の冷たい灰色の壁に囲まれて死んだように沈黙していた。どんなに厳しい刑事とて、彼に荒々しい言葉を投げかける気にはなれなかっただろう。憐憫は茘枝の胸にすら起こった。哀れな青年である。彼は人生にみはなされた。氷室弘毅の贈収賄疑惑と、数々の不正のせいで。
「お前のために死ぬんだったら構わない」
陽がいつになく真面目な口調でつぶやいたのを、涙で濡れたまどろみの中に聞いたのを茘枝は覚えている。
「でも、お前が生きててほしいっていうんだったら、生きててやってもいいぜ」
「おい」
教会を出ると、空は一面の黒だった。神が黒いストールをこの世の果てにむかって投げかけたかのような。そして、その真ん中にはしんと冷え切った満月が煌々と輝いていた。見上げている横顔を、呼ぶ声があった。
「帰るんだろ?」
「……ああ」
肩を並べて歩きながら、茘枝は今宵の舞台を振り返る。クリスマスを飾るイルミネーションも、ステンドグラスから洩れる灯りもない。街灯のともった夜の街の暗闇にさえ埋もれそうな、小さな、薄青色の、みすぼらしい建物。しかし、そこは温かかった。そしてどんなに歴史ある教会もかなわぬほどの神聖さを醸し出していた。どんなに踏みつけられても絶対に犯されず、永久に失われぬものがある。それが信仰であり、祈りであるのだと、茘枝は貧しい子供たちの瞳の輝きから知った。
「まっ、悪くはなかったんじゃねぇの?」
陽がまっすぐ前を見たままでつぶやいた。
「驚いたな。君が聞きに来ていたなんて気づかなかった」
「愛が足りないからだぜ、きっと」
「なにを戯けたことを。愛ならここにあるだろ?」
陽にそっといたずらを仕込んで、茘枝は逃げ出すように二、三歩駆け出した。陽が自身の前髪に見つけたのは、柊だった。クリスマスケーキに飾りとしてささっている類のおもちゃである。陽は、茘枝がこのおもちゃを受け取っている光景を思い出した。茘枝にクリスマスケーキの贈り物を受けた孤児院の少女が、この柊を礼に代わりによこしたのである。
「おい、茘枝」
「何か?」
振り返った生意気な口を、二晩続きで塞いでやる。街灯がどんなに優しいオレンジ色の光で二人を照らし出しても、道路の上には二人の他に誰もいない。そして酔うほどの量を陽は茘枝に注ぎ込む。
「……魔除けのはずなのに」
陽の抱擁の海に溺れながら、茘枝は寒さと熱さの容赦ない責め苦に耐えかねて涙目になりながら言った。陽は不適に笑う。柊を恋人の髪にそっと挿して。
「生憎オレには効かねぇみたいだな」
その実の色は恋人のために流した血の色である。




