第三十一話 時雨を待ちながら・後編
「上手くできましたね」
「うん……」
土曜日曜を以って完成させた真央の絵を手に、クリスとノアは午後の廊下を歩んでいた。来夏に尋ねてみると、真央の居場所は恐らく音楽室だと教えてくれた。何でも、毎週この時間にはアニエスと一緒に歌の稽古をしているそうだ。もちろん、クリスは来夏に絵を見せることを怠らなかったが、来夏は一頻りクリスの絵の技術を褒めた後、恐らく胸に起こったであろう何かしらの感情は一言も口に出さずにいた。しかし、彼としても恋人を描いたこの絵に多いに満足したことは間違いない。作者であるクリスとてこの絵は近頃の絵の中で、なかなかの出来だと思った。頬を斜めに向け、どこか遠くを見るような目をした真央は、空想画の乙女と紛えるほどに可憐であり、アクリル絵の具で彩った肌の色、唇の色に、普段の無邪気な真央には見られない色つやがあるのである。
「君も皆の絵を描いてあげればいいのに。あんなに上手いんだからさ」
「僕の絵には色がつきませんもの。人に差し上げるからにはもっと華やかでないと」
「そんなことないよ。鉛筆画だろうが何だろうが……」
踊り場にさしかかって、クリスははっと口を噤んだ。薫がちょうど階上からおりてくるところだったのだ。薫はすぐにクリスには気がつかずに、思慮深そうな目で両手に広げた学校の広報誌に向けていたが、クリスが小さく「先生」と呼びかけると、ふと顔を上げて微笑んだ。薫を見た時に大きく跳ね上がった心臓は、今は落ち着きこそしているが、まだ小さくどきどきと微かな脈を打っている。挨拶を交わした後、二人の間には掴みきれないような妙な空気が漂った。そういえば、薫の顔を見るのはあの日以来だ。一緒に隣町へ出かけて、そして……
「久しぶりだね。元気だったかい?」
仄かに赤らんだクリスの顔に気付いてか気付かずにか、薫が尋ねる。
「えぇ……先生は?」
「僕も元気さ。ありがとう」
クリスは溜息を押し隠すので精一杯だった。もし隣にノアさえいなければ、もっと打ち解けて話すこともできるのに。場所が場所だけにもちろんこの間のようにはいかないだろうが、せめてこんなに他人行儀ではなく、せめて「薫さん」と呼ぶぐらいのことはできるのに。だが、驚いたことに、薫はクリスの唇を奪い、小さな頭を優しく強い力で壁に押し付けた。クリスが声をあげようとするのも、人差し指で制する。
「今日は珍しく一人なんだね」
クリスははっとして隣を振り見た。いつの間にかノアは溶けるように消えていた。
「あれ、有瀬……」
「君に会いたかったんだよ、クリス。ずっと」
「あっ……」
「僕の顔をちゃんと見て、クリス」
薫がメガネを外す。直接瞳の中に差し込んでくる青い光に、心まで射抜かれて動けなくなる。あの夜みたいだ、とクリスは頭の片隅でぼんやりと考えた。二人の距離が再び狭まった。誰に見られるかも分からないこんな場所で、許されない恋が展開されている――そんな罪の意識さえも心を蕩かす。いっそ、このまま一緒になってしまえたら。
「薫さん……」
「秋元真央君の絵だね?」
「あっ、はい……えっと……」
どうして秋元君を知っているんですか、そんな愚問は飲み込んだ。薫が真央を知っているのは当然だ。真央は有名であるし、薫が彼の授業を担当している可能性もある。それに何よりも、アニエスが愛情をこめて世話をしている従弟なのだ。クリスの表情がふと曇った。薫はアニエスのことをどう思っているのだろう。クリスは薫がアニエスと恋人同士であることを知りながら、結局何もかもうやむやなままに飲み込んでここまで来てしまった。薫への思いを遂げて、今、自分が思うべきことは何なのだろう。
「あの、薫さん……」
「素晴らしい絵だね、クリス」
薫はスケッチブックをクリスの手に返しながら、決して上から物を言う姿勢でなく言った。クリスは言いかけた言葉をぐっと堪えて、ただ「はい」とだけ頷き、それから急いで礼を付け足した。
「今年も君の活躍に期待してるよ。さて、僕は行かないと。これから来年度の教材について会議があるからね。遅くならないように帰るんだよ」
クリスはまた頷いた。そして、去っていく白衣の後姿を見送りながら、平たいばかりのスケッチブックを胸にぎゅっと抱き締めた。厚紙の表紙が、首からさげた水晶の指輪を皮膚に押し当てた。やがて、クリスは視線を落としてみて、初めて気がついた。薫が見ていたページに描かれていたのは、籠の底に力なく羽を広げた一羽の小鳥であったことに。
部活中に怪我をした生徒かと思って顔も上げずに応対し、はっとした。アニエスだった。長い髪を今日は白いリボンのバレッタでまとめ、洒落たブラウスの上に栗色のセーターを重ねて黒いタイトスカートを履いている。アニエスは驚くばかりの先生に小さく笑うと、遠慮し勝ちに置いていていた距離をつめた。里見先生は軽い眩暈のようなものを覚えたが、それは決して、アニエスの微かに漂わせている香水だとか、手を握り締めた指先の冷たさだとか、そういったもののせいではなかった。先生はアニエスの名を呟くだけで精一杯だった。
「サオリ、会いたかったわ」
里見先生の呼びかけに、嬉しそうにアニエスが応える。
「……とにかく座って」
里見先生はアニエスに、部屋の奥のカーテンで囲まれたベッドを勧めると、自身はコーヒーを淹れるために窓辺に立った。しかし、アニエスの声がそれを制する。どうせ大してゆっくりしていられる時間もないのだから、と、誰の気も知らずに朗らかにアニエスは言った。
「今日は真央の練習のお付き合いだったの。すぐに行かないといけないのよ。五時から打ち合わせだからね」
「そうなの」
里見先生は静かに言って腰をおろした。そして、一層美しくなった友人の横顔を、俯いた拍子に垂れかかった前髪を透かして盗み見た。以前に見た時は、もうこれ以上輝かしくなりようはないと、そう思ったものなのに。アニエスの美はまるで留まるところを知らない。当たり前だ。彼女は若いのだから。実際に里見先生とアニエスは十も変わらないし、西洋人の女性というものは東洋人より成熟して見えるものだから、二人並ぶとアニエスの方が年長のように見えなくもないのだが。家庭を持った女性と恋にときめく女性、二人の境遇の違いが、自分を何か薄汚れてしまったもののように、そして、アニエスを眩いばかりのものに映し出すのだろうか――里見先生は思わず両手で顔を覆った。ああ、決して嫉妬などしていない。していないはずなのに、このもどかしく、遣り切れない気持ちは何なのだろう。不思議そうなアニエスの呼びかけに、里見先生は顔を上げたが、それでも瞳に捉えるアニエスの姿はぼんやりとしていた。
「サオリ、目の下が黒いわよ。寝てないの?大丈夫?」
「まあ、最近寝付きが悪くってね。生徒たちに早寝早起きなんて勧められる状態じゃないわね……」
今日の自分の笑いは干からびている。唇に引いた古い薄桃色のルージュのように。
「駄目よ。体にも美容にも悪いわ。あのね、今少しお化粧で目立たないようにしてあげるわ。ちょっと待っててね」
アニエスが鞄を探っている間、里見先生はその言葉の意味も理解しないまま、漠然とした思考の海の中を漂っていた。
「そういえば、秋元君にどこか変わったところなかった?」
「いいえ、なかったわ。どうして?」
「いえ、別に。はっきりしたことはなんとも言えないんだけどね、ただこの間ね……」
先生は口を噤んだ。アニエスの指先が頬の輪郭に触れたからであった。アニエスの小鳥のように小さな頭が、自分の顔の上に影を作るのを、先生は息を詰めて見守っていた。
「この間、何?」
先生の肌の色の粉でまぶした人差し指を、アニエスはそっと持ち上げる。
「えぇと、この間ね、なんていうか、少し……少し具合が悪そうに見えたから」
声が上ずる。口の中が乾く。暖房なんてかけるんじゃなかった。
「本当?さっき見た時は元気だったわよ」
「そう。じゃあ、いいのよ……」
里見先生は目を閉じた。皮膚の上をアニエスの指が伝っていく。それだけの感覚だ。くすぐったくもない。それでも胸の中に泉のように湧き上がるものがある。それでも、その水底にあるものだけは、どうしても見えなくて。呼吸が止まりそうだった。瞼の外の世界では、何かが倒れる音がした。
「いいわよ」
里見先生が目を開けた時、アニエスはとっくに化粧品を鞄にしまい込み、立ち上がって出かける支度をしていた。見送らなければ。先生も続いて立ち上がり、彼女の後を、娘が母の後を追うように付いていく。アニエスは先生に対して「綺麗ね」と一言だけ言うと、相変わらずの笑顔で手を振り去っていった。先生はしばし、呆然としてその場に立ち尽くしていた。アニエスの香水の匂いが、まだ仄かに漂っていた。
先生は溜息と共に保健室を振り返り、積み上げたファイルが崩れてコーヒーカップを倒し、机一面に黒い液体が広がっているのを見た。今更慌ててもしょうがない。どうせ濡れてよくないものは置いていなかったのだし。そして再度廊下の方に顔を戻して、窓の外の光景に表情を震わせた。アニエスが薫と肩を並べて歩いている。冬の中庭を歩く恋人たち。この世で最も美しく、そしてなぜか最も憎らしい情景。自分を一体どうしてしまったのだろう。ゆかりを知らぬ執念から自我を振り切りたくて、里見先生は階段の方へ足を進めた。もしかしたら、まだ真央は音楽室にいるかもしれない。そうしたら、体の具合が本当に悪くないのかどうか尋ねることができる。まずは防音加工がされた扉を叩いてみて、さほど意味がないことに気付き、そっと隙間から名前を呼んでみる。返事はない。いないのだろうと諦めたその時、ピアノの音が微かに鳴った。無意識のうちに弾いたような、なんの関連のない音が二つ三つ重なって。その後に響いた鈍い音を、里見先生はもう少しで聞き逃すところであった。
「秋元君……?!」
里見先生ははっとして部屋の中に飛び込んだ。グランドピアノの前に、真央はうずくまっていた。背を丸め、片手を口元にあてて、激しく咳き込みながら。
「秋元君!」
先生が駆け寄っても、真央は咳き込むことに忙しすぎて、反応することさえ出来ない様子であった。先生は急いで真央を助け起こした。掌からシャツの袖の中へ一筋の赤い血が流れ込むのを、先生は見た。
「秋元君、大丈夫?!」
真央の潤んだ目が揺れる。里見先生は激しい衝撃の中で、何とか冷静さを手繰り寄せながらも、今にも泣きそうな自分の姿に気がついていた。
「秋元君、しっかりして!大丈夫よ……大丈夫だから……!」
***
知らせを聞きつけた来夏が、息を切らして保健室に飛び込んできたのは、真央が病院に運ばれてから一時間近く経った頃のことだった。病院に集まるのは迷惑だからといって、里見先生が保健室を真央の友人たちのために開放したのだった。クリス、ノア、落合は比較的連絡を早く聞きつけたので、心配そうな顔を寄せつつも、大分落ち着きを取り戻していたが、明音はまだずいぶん混乱している様子が見えたし、菜月は無表情ながらも檻に入れられた獣のように部屋の中を歩き回っていた。大河内もつい先ほど連絡を聞いたばかりなのだが、その割には落ち着いていて、唇が白くなるまで噛み締めたまま、じっと腕を組んで佇んでいた。病院からの電話に応対しているのは、ノアだった。来夏は弓道部の衣服もそのままに、ノアの元ににじり寄り、絶え絶えにこう尋ねた。
「あいつは……あいつは、どうしてる……?」
「今はまだ検査中です」
ノアが言った。
「でも、意識もありますし、命に関わるようなことはないそうです。今分かるのは、それだけです……」
「病院は、病院はどこだ……?!」
「三宿港病院ですけど。でも、里見先生が来ないようにって……」
「構うものか」
来夏は勇んで扉を飛び出ようとしたが、大河内がすっと一歩出て行方を塞いだ。来夏が言葉に出来ぬほどの凄まじい憎悪を込めて大河内を睨んだ。クリスたちは立ち上がった。今の来夏なら、いつ手を上げてもおかしくなかった。
「退け、大河内」
「おい!」
落合が駆けつけ、二人の間に入って来夏を押さえつけたが、大河内が悲しげな顔で首を振ると、来夏はがっくりと肩を落とし、ソファの上に崩れ落ちるようにして腰をおろした。何か声をかけたかったができなかったものと見えて、落合が来夏の肩に手を回して二回ほどぽんぽんと叩いた。来夏は只頷くことで答えた。居心地の悪い沈黙が、皆の固く閉ざした唇から漏れ出して、部屋の空気を重々しく濁らせていた。こんな沈黙の中で一同向かい合う日がくるなんて、考えもしなかった。真央の病気のことは知っていたが、まさかこんなにも早く病魔が暴れ出すなんて――クリスはいつか必ず来るその日を、はるか遠い日のことのように思い込んでいた。はるか遠く。それはいつか。自分と真央の関わりがすっかり薄れてしまったような時か。つまり、自分は、来夏に声を失った後も真央の傍にいろと説教しながら、自分だけは遠くで見ているつもりでいたのか。浅ましいことだとクリスは思った。
来夏が小さく咳をした。きっと悔しさからくる嗚咽を紛らわせようとしたのだろう。そんなもの隠したってどうにもならないのに。明音は来夏と大河内のにらみ合いの直後から、泣き始めていて、今頃になってしくしくと声を漏らし始めた。それは、沈黙よりも陰鬱で澱んでいた。
ノアが立ち上がった。どこに行くのかとクリスが視線で追ってみると、部屋の隅のやかんに水を入れて、湯を沸かし始めた。紅茶でも淹れるつもりなのだろう。クリスもできることなら何かしたかったが、立ち上がる気力さえもわかなかった。仕方なくクリスは呟いた。
「大丈夫だよ」
殴られることも覚悟していた。それなのに、言葉は空虚だった。来夏はぴくりとも反応しない。
「大丈夫だよ、きっと。そう信じなきゃ……」
そしてまた、誰もが死んだように。
来夏の立ち上がった音と、やかんの鳴く音と、どちらを先に聞き取ったのか分からない。一同の俯いた顔が、示し合わせたように同時に上がった。ふらふらと部屋の出口へ向かっていく来夏に、大河内が「どこに行く?」と尋ねた。来夏は振り返りもせずに中庭を散歩してくるとだけ答えた。それが事実であろうとなかろうと、誰も止める気が起きなくて、来夏はそのまま廊下へと消えていった。
ノアが注いだ紅茶が手も付けられずに冷め切った頃、電話が来た。最初に受話器に飛びついたのは菜月だった。菜月は無感動な文句で相槌を打ち終わると、一仕事終えた後のようにふぅと溜息をついた。菜月は黙ったままでソファに腰掛けたが、報告を急く言葉は誰も言わなかった。恐怖と興奮とが皆の胸の中に混在していた。それでも、言わなければならないものはならないので、菜月は立ち上がり、窓辺に立って、窓の外の暗闇にすっかり魅入られたように鼻先をガラスに触れさせながら、小さな聞き取りにくい声で言った。
「今のところはとりあえず大丈夫だって。まだ声も出るし、咳はあるけど血は出ないし」
安堵が有り余って、クリスはノアの肩に倒れこんだ。ノアも腕を伸ばしてクリスの体を受け止める。明音の泣き声がけたたましく変わり、落合は小さく飛び上がり、来夏に知らせようとしてすぐに廊下に駆け出て行った。だが、大河内は菜月が言わなかった事実を知っていたかのように、堅苦しい表情を貼り付けたままでいた。
「おい、ライ!ライ!」
下校の時刻を知らせる鐘が鳴っている。こんな時間に走っているのに、向かう先が校門ではないなんて、初めての経験かもしれない。来夏はきちんと約束を守っていて、中庭の噴水前のベンチに佇んでいたが、落合が来ると、目だけ上げてその姿を捉えようとした。落合はその横に座るのももどかしく、立ったまま来夏の手を握り締めて、良い報告だけをした。来夏は弱々しげに笑った。
「でも」
大河内の続きを促す目を首筋辺りに感じてか、菜月は重い口を再び開いた。
「手術はしなきゃ駄目だって。日本では難しいから、アメリカで……出来るだけ早くに」
「それじゃ……」
明音の声は震えていた。
「それじゃ、真央はアメリカに行くってことっすか?いつ?今すぐに?」
「分からない。まだ決まってないって。今週中に秋元の家族で決めるって、それだけ」
「そんな……」
白いばかりの部屋で真央はベッドに横たわり、浅く呼吸を繰り返していた。アニエスは先ほど家族に電話をするために出て行った。付き添っているのは里見先生と、担任の橋爪先生だ。もし二人に勘付かれなければ呟くことができるのに。誰よりも愛しい人の名を。きっともう真央が倒れたことを知って、もどかしい思いに駆られているであろう、先輩の名を。
もし、アメリカに行くことになったとして、先輩に会えるのは後何回だろう。そんな悲しいことは考えたくはないけれども、横たわっているだけのこの場所では、声を失うことよりも目先のことばかり不安になる。いや、違う。来夏との別れをこれほどに恐れるのは、来夏の存在がそれだけ自分の中で大きいということだ。僕はいいのに。最後の最後まで先輩と一緒にいられるのであれば、例え声を失ったとしても。命を失ったとしても……
***
冬の冷気が温く湿っている。指で触れた常緑樹の分厚い葉の表面も、水気を含んでいるようで。クリスは空を見上げる。流れていく。白い空に灰色の雲。
真央が倒れてから今日で三日間が経った。経過は里見先生から知らされていたが、もう体調はすっかり治っているのを、大事をとって安静にしているとのことだった。見舞いに行くことは許されなかった。落合と明音は不満を唱えて、こっそり学園を抜け出る策をいくつも打ち出したが、来夏はどの案にも首を振った。提案者の二人も、まさか来夏に「真央の顔が見たくないのか」などと詰るようなことはなかった。来夏は努めて冷静に振舞っていたが、その仮面の下に、狂おしいほどの真央への想いを抱えていることは、誰の目にも明らかであった。アメリカ行きの可能性についても、アニエスの口からぽつぽつ知らされたらしいが、悲しみに打ちひしがれるような素振りはまるで見せなかった。すすり泣きながら、ほぼ完璧になった日本語を操って語るアニエスに、来夏は静かに言った。「ご家族でご相談して決めてください。俺はどんな決定であれ、真央のためならと思えば納得できますから」そして、とうとう泣き崩れたアニエスを、里見先生と共に慰めもした。クリスたちはそんな来夏の様子に胸を打たれ、自分たちも彼の毅然とした態度を真似ようとは試みるものの、無理に平静を繕えば繕うほど、いよいよ悲しみを募らせるばかりであった。
その日の放課後、来年の選択科目を野瀬先生と共に最終調整していた来夏は、ようやくのことで鞄を背負い、教室を出ようとしていた。ふと思い立ったように廊下の窓から中庭を見下ろして、来夏ははっとした。真央とアニエスがいる。従姉弟同士、睦まじげに身を寄り添わせながら、何か言葉を交わしている様子だった。駆け寄って、抱き締めてやりたい。真央がいつ自分の元を離れるだとか、そんなことはどうでもよくて、ただこの一瞬だけでも傍にいてやりたい――来夏は込み上げてくる衝動を押さえ込むのに只管苦労し続けた。要談を交わしているのに違いないのに、邪魔をするのは何たることか。そんな常識を振り回すのは、心に潜んでいる自分の臆病さだったかもしれない。それでも来夏は、まずはその声の方に耳を傾けた。真央とアニエスは噴水の前に立っている。真央がしゃがみこんで、噴水の水を掬んだ両手にくみ上げるのが見えた。その時、真央は顔を上げた。視線を校舎の壁に伝わせて、来夏が見下ろす窓に突き当たり、手の中の水を捨てて立ち上がった。真央は一瞬間ためらってから、さびしげな笑みを浮かべて来夏に向かって手を振った。来夏もためらってから手を振り返し、階段をすぐに駆け下りていった。
「真央……」
「……来夏先輩」
再会して、二人は互いを見つめあうのに無心になった。この世界に必要なものは他に何もないようにすら思われた。芝生にスカートの裾が触れる衣擦れの音がして、二人は我に返った。アニエスが退散するために身じろぎしたのであった。
「アニエスさん」
「いいのよ、ライカ君。私の話は済んだから。マオと話してやって、ねっ。私は校長先生とお話に行かなければならないし」
「でも、姉さん……」
「いいのよ、マオ」
何か言いかけた真央に向かって、アニエスは優しく微笑みかけた。くるりと踵を返した彼女の服の色は黒かった。それが喪服のようにも見えて、来夏は不吉なものを感じなくもなかったが、急いで振り切って真央の方を見る。真央は病院で滋養分だけはつけられたと見えて、頬は前より一層明るく豊かになっていたが、首筋や額あたりの白さや、目元の落ち込みようは、さすがに病人らしいところが見受けられて、見る者の、殊に恋人の哀れみを誘った。真央は相変わらず寂しげな笑みを浮かべたままで、何も言わずに歩き出した。来夏もそれに続いた。すっかり葉を落としたリンゴの林の上で、空は曇っていた。なんだか時雨の来そうな午後だった。
「……体調はどうだ?」
「もう大丈夫です。心配かけてすみません」
ありきたりな言葉が口をつぐ。風も温く吹く。
「アニエスさんも大丈夫なのか?この間は随分取り乱してたけど……」
「えぇ、もう立ち直ったみたいです。この間顔を真っ赤にして、『ライカ君に恥ずかしいところを見せちゃった』って言ってました」
「そうか」
「ねぇ、先輩」
「ん?」
「僕、アメリカに行くことになりました」
「そうか」
真央は足を止める。前を歩く彼がどんな顔をしているのか、来夏には見えなくて――それでもよかったのかもしれない。真央が泣いていた時、来夏はどうすればいいのか分からない。そしてまた、来夏と向かい合った時、真央もどんな顔をすればいいのか分からないでいたのだから。
「僕がいなくなったら、さびしいですか?」
「そりゃあな。でも、事情が事情なんだから、しょうがねぇだろ」
「えぇ……そうですよね」
なぜ時雨はまだ来ないのだろう。
「どれくらい向こうにいるつもりなんだ?」
「分かりません。両親はこの際出来る限りのことを全てやってしまおうと言っていて。今月末には日本を経つつもりですけど、もしかしたら何年もかかるかも」
「そうなのか」
「はい。でも、両親も治療中はアメリカにいてくれるって言ってますし、僕は大丈夫です」
「よくそれだけのことが一週間で決まったな」
「思い切りと気前だけはいいんですよ、うちの両親。今度会ってもらいたいな」
「俺にか?」
「もちろん」
「はは、そのうちな」
真央の喉元から林檎林を覆う大気よりも湿っぽい息が漏れる。来夏はこちらに背を向けて泣く恋人から、そっと目を逸らした。一体誰がこんな苦しみを自分に強いるのか。物分りのいいような顔をして愛しい恋人との別れを無表情に受け止め、惜別の場においても笑顔で手を振り、涙一つなく、辛抱強く、いつになるかも分からぬ恋人の帰りを待つことを。自分が子供であったならば。泣いて何とでも言えるのに。真央に付いて行くと言い張ることも、真央を引き止めようとすることも。必ず会いに行くという、無責任な約束を取り付けることも。
大人であるということは、結局こういうことなんだ――
「真央」
「はい……」真央は振り返らない。来夏も振り向かせない。時雨の来そうな午後。
「俺は待ってる。お前のことを、いつまでも。それだけは約束できる」
「先輩……!」
「でも……!」
交差した視線が濡れたようにぼやける。
「見送りには行かない。それでいいな?」
「はい」
二つの影が木々の狭間でそっと寄り添いあった。時雨を待ちながら。少年たちは悲しみを分かち合う。そこに言葉もなく。