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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第四章 革命
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第三十一話 時雨を待ちながら・前編

ひとり風の音に耳をすませるとき。時雨を待つとき。


***

「これで一つ僕は目的を果たしたよ。あの男が我が物顔で僕の学園を歩いているのには心底嫌な心地だったよ。そうだろう、ノア?」

「えぇ、お父様」

 薄暗い照明にワインの濃い色が映える。安楽椅子に凭れ掛かり、グラスを揺するのは紛れもなく薫であったが、その表情、仕草、声音などに普段の彼と異なる所が見られた。ノアはまるで臆することなく、そんな薫の真向かいに立ち、静かに手を組んでいる。二人の間には丸テーブルが置かれ、その上には絵を入れた額がある。遠くから見れば、それは神々しい女神のようにも、可憐な妖精なようにも見える。だが、傍に立つノアにはその絵の正体が見えていた。

「あとは光を消し去るだけだ。水晶の美しい輝きならいい。だが、世の中には目障りな光もある。全て紛い物だ……」

薫はふと天井を見上げた。電灯が放つ光は先ほどから弱々しく揺れている。ノアは二歩ほど後に下がり、くるりと向きを変えて部屋の出口を目指したが、そう広くないこの部屋ではいとも簡単に捕まってしまう。後ろ向きに引っ張られたノアがぶつかった衝撃で、丸テーブルは大きく揺れ、絵が床に落ちた。

「……っ!」

「大丈夫だ、ノア。怖がらなくてもいい。光は直に消える」

「僕は時々分からなくなるんです……貴方は誰なんですか?」

「お前の父親さ。紛れもなくね」

目を閉じてノアは思い出す。心待ちにするのはバカげいるけれども、どうしても忘れられないあの言葉――今度は僕が助けに行くから……!


 冬休みの最後の三日間は宿題を片づける作業で潰された。二週間弱の休みもすり抜けるように過ぎていき、始業式が行われ、授業が始まった。教師生徒共にまだ正月ボケが抜けていないらしく、鳥居先生は英語を発音しようとして一時間に三度も舌を噛み、橋爪先生は公式を書き間違えた。この時期に生徒がぼんやりしているのは言うまでもないことだが、しかし、年が変わって以来、校長がぴたりとサボり癖を出さなくなったのは、さすがに事情があるらしいのだった。噂では理事長が変わったのが原因だということだが、この突然の理事長追放事件については、授業中はぼやけている生徒も教師も急に深刻な顔をし始めて、こそこそと少人数で固まって意見を交し合っていた。クリスがその群れに入らないでいたのは、ノアの心を慮っての行為であったが、ノアは案外平然としていて、新しく理事長になった大林という鉛筆のような男にも、きちんと腰を曲げて挨拶する始末であった。クリスは一度、理事長はどうしているのかと恐る恐る尋ねたことがあったが、こちらもこの少年の父らしく、落ち込みもせず、寧ろやっと暇ができたと喜んで、元来の美食家の気質を満足させることに熱中しているらしい。やっぱり変わった人だとクリスは思った。

 本人がまるで気にしていないなら、周りが格別懸念するようなことはなさそうに思えたが、それでも、理事長の追放にはやはり不審なところがあるし、生徒にこそ伝わってこなかったが、先生たちの方では遣り方に大分変わったところができたと見えて、不満を漏らす声もあるらしい。しかし、何せ今度の理事長がえらい強硬派で、下手なことをすれば首を切られかねない。自分のことは良いにしたって、この理事長の思いやりのなさときたら、生徒にも危害を加えかねないということで、先生方は生徒たちのために出切る限りの沈黙を保っていた。一方で、生徒会役員たちは大林理事長に前任よりもずっと懇意にしている節があった。

「訳がわからねぇ」

「ああ、全くだな」

「校長は犬なので金色のスカートを持っていますってどんな状況だよ?」

「……和訳し間違えてるんだろ」

 来夏が落合のテキストに横から顔を突っ込んでいる最中、クリスたちは理事長と談笑して歩く生徒会役員たちを観察していた。「慎様ー!」と騒ぐ明音を鎮める役は真央が務め、菜月は颯の姿を目で追いながらつまらなそうにシャボン玉を膨らませている。クリスとノアはシャボンの液に十分警戒しながら、弁当を使っていた。

「酒本、颯先輩は何か知らないの?理事長のことについてさ」

「知ってても教えてくれないよ。秘密主義だもん」

クリスの問いに、菜月は気のない声で答えた。

「そっかぁ、教えてくれないのかぁ」

「有瀬こそ自分の父親なんだから聞けばいいじゃん」

「父も何も教えてくれないんですよ。秘密主義ですから」

「確かに……」

間もなく生徒会役員と理事長の姿は見えなくなり、いつもの中庭での穏やかな昼食が再開された。明音も騒ぐのをやめ、今日もこちらを見てくださらなかったとしょ気ていたが、ふと、真央の様子が彼の気を引いたらしく、心配そうに尋ねる声が左から聞こえてきた。

「秋元、どうかした?」

「えっ、あっ、ううん、何でもない」

「どうした?」と来夏も尋ねる。なんでもないと言いながら、真央は喉の辺りを押さえて小さく首を傾げていた。同じ事態を思い浮かべ、皆の間に緊張が走る。

「おい、まさかお前……」

「ち、違いますよ!さっき食べた鮭の骨が引っかかっちゃったみたいで」

なんだと息をつく一同は、来夏の顔色が誰よりも早く変わったのを見届けた。

「おまえなぁ……気をつけろよ。喉傷つけたら歌えねぇだろう」

「そうでした……」

「そうでした、じゃねぇよ。早くうがいでもしてこい」

「はーい」

やはり喉に違和感を覚えて、わざとらしい咳のようなものを繰り返しながら、真央は素直に水道のある方へと向かっていく。溜息をつきつつも足取りが軽いのは、来夏の言葉が嬉しかったからだ。ぶっきらぼうな言葉で、無愛想な表情で、自分を心配し、愛してくれる先輩が好きだ。まだキスもしてないけれど……真央は思わず指を口元まで持ち上げた。指で触れただけなのに、薄桃色の唇は形を崩す。いつか指ではないものが、この唇の形を崩す時が来るのだろう。自分は少し背を伸ばして。先輩は少し身を屈めて。楽しくもあり気恥ずかしくもある空想が途絶えたのは、ふと自然に咳が零れた拍子だった。口を押さえた後の掌を見て真央は立ち止まり、しばしその場で呆然としていたが、冬空に飛び交う小鳥たちのさえずりを機に、掌を隠すように拳を握り、水道へ走り出した。幻覚だ。嘘だ。有り得ない。そんな言葉が脳を横切っていく。真央は深く息をついたあと、ようよう震える拳を解いたが、水に濡らした掌には最早何も残ってはいなかった。

「秋元君?」

真央ははっとして振り返った。ラベンダー色のセーターの上に白衣を纏い、右手に救急箱を、左手にサッカー部の室井の襟首を掴んで引き摺っているのは、養護教諭の里見先生だった。

「大丈夫?どうかした?」

「いいえ……何も」

真央は自分の言葉が事実よりも胸奥で疼く願望の方を多く示していることに、密かに気がついていた。


***

「冬休み中は何をしていた?」

「別に、何も」

 放課後の誰もいない教室の前を右肩に、茘枝と颯が歩いている。茘枝は黒く長い髪を乾いた空気に時々舞わせながら、颯はきつく組んだ腕の中に数冊のファイルをきちんと収めて。

「惚けることはないだろう」

「惚けるも何も、別になんにもしていないったら。今年も相変わらずさ。神社の手伝いして、菜月と宿題して……」

「隠すなよ、颯。私と君の仲じゃないか」

「……そんなこと言ってるとまた陽が拗ねるよ」

「私は変なつもりはなかったのだけど……なぜ?」

優雅に首を傾げる親友に、颯は呆れた微笑を向けながらファイルを二、三冊、腕の中から引っ張り出して預けた。全く、茘枝もつくづく人が悪いと思う。小学生から――海王学院初等部からの付き合いであるから、この学園の生徒の中では、菜月の次か同じぐらいに古い絆を持つ友人である。しかし、それを絆とか友情と呼んでよいのか、はっきりとしたことは分からない。互いに大切な友人であることは確かであるし、着飾らずに遠慮なく淡々とした会話のできる相手という点でも、互いに貴重な相手である。それでも、やはり二人はいつも距離をおかずにはいられない。友情からくる細々とした愛はまるで生まれてこない。これはきっと颯と茘枝だけにいえることではないのだ。生徒会役員たちの全ての相互関係において言えることで、唯一の例外が茘枝と陽の恋人関係ということになるが、彼らの愛とて本式の恋人の愛情といえるかどうか怪しいところが少々ある。四人はどんな建前があろうとも、互いに信頼はしている。けれども、決して互いに頼りあったり、本音を語り合ったりすることはない。それを寂しいとか虚ろだとか批判するのは、また外界の人間の話だ……

「新しい理事長を君はどう思う?」

こんな思考をしている間に、茘枝はさらっと直球で投げかけてくる。

「どんな人だろうと関係ないよ。どうせ水晶の言うとおりに動いてるんだから。強硬派だなんだって先生方は仰ってるけど、あんなのただの操り人形で言われた通りにしてるだけさ。まあ、そういう意味では前任よりはよっぽど愚鈍なんだろうね……」

「君のその考えを採用すると、私たちまでもが愚鈍ということになるぞ。私たちとて、水晶の言うとおりに動いてる人間だろう?」

「そうさ。僕は自分のことを差し置いて物を言ったりしないさ。僕も、そして君も愚鈍だよ。そして、同時に賢い。僕たちは自分の住む世界に従うしかないじゃないか」

颯の横顔を暗い影が横切るのを、茘枝は一瞬見た気がした。肩を竦めて小さく溜息をつく。反論はできまい。窓の外を見遣れば校庭に運動部の生徒たちが集まっているが、結局彼らとも自分たちも大差はないのだ。決められたものに従い続ける。光を求め、その下に集う。自分たちを惹き付けるものの正体を知っているか、知らないか、それだけの差で、自分たちは校内におり、彼らは校外にいる。茘枝はふと思い立って窓を開けた。冷たい風が不意に二人の傍を駆け抜けていく。

「……こんな日には時雨が来そうだな」

右手を開いた窓の外に手を突き出して、茘枝が呟く。颯も隣に立って空を見上げる。吹き抜ける風が微かに湿ったように匂う気がした。

「冬休み中に美術館へ行っただろう?」

「おかしいな。相当ばれないように気をつけたつもりなんだけど」

「私には私の情報網があるのさ。安心しろ。どうせ水晶は気付いていない」

「だといいけど。まっ、美術館に行った目的までは喋らなくていいよね」

茘枝はただ微笑みの形だけを浮ばせた。


***

 目を素早くかつ慎重に動かして、居間の椅子に花を持って斜めに腰掛ける真央と、スケッチブックの中の線とを見比べてみる。やや形に修正すべきところがあって、急いで消しゴムを取る。真央は飽きる様子も疲れた様子も見せず、よく耐えてポーズをとり続けている。マネージャーとしてサッカー部の生徒たちの世話をした後だというのに、大した気力であると、見守る友人たちはひたすら感心していた。金曜日の今日は、明日も皆遅いこともあって、夕食をクリスとノアの寮でとることとしたのだ。カレーライスとスープの温かい食事は皆終えたところで、明音の「何となく」の発案によりクリスが誰かの絵を描くこととなって、来夏の「さり気ない」提案によりモデルは真央と決まったのだ。よく見れば、真央はぼんやりした様子で、食事時もスプーンの動きはゆるやかであったが、このモデルの役割だけは素直に受け入れた。ノアの育てた白い薔薇の茎を持つ真央の手は、じんわりと汗ばんでいく。

 昼間の光景は、花持つ手に見た赤さは、果たして幻覚であったのか。そんなことが絶えず頭の中を巡っている。幻覚であると認めようとすればするほど、そうでないと主張し続ける意地の悪い声が高くなる。ためしに咳をしてみても、何かそっと言ってみても、澱みなく言葉は出る。まるで確証がつかなかった。自分はまだ笑えるし、喋れるし、歌える。それは自分が健康である紛れもない証拠になる。だというのに、なぜ心はこんなにも不安でぐらぐらと揺れたままなのだろう。誰か何か言ってはくれないのか。

「クリス先輩、今度慎様の絵も描いてくださいよ。今ちょうど、ベッドの上の天井のところに貼るポスターがないんっすよ」

「えー、嫌だよ。なんで生徒会長の絵なんか……」

「それより先にベッドの上の天井って何なんだよ」

落合がこつんと明音の頭を拳で叩きながら言った。明音が、起きた後と寝る前に好きな人の顔を見る幸せを語り続ける傍で、クリスはうるさそうにもしないで、熱心に手を動かし続けている。その少し後ろから来夏と菜月が興味深げにその動作を眺めている。来夏の目が時折、自分の上に注がれるのに、真央は気がついていた。何かクリスの動作を見るのとは違う、独特な色を帯びた目だ。恋人を見る眼というのがあのような目なのであろうか。そんな素朴な疑問にも真剣になれない自分がいる。もしあの光景が本物だったら、自分の身を何か汚染されたようなものが蝕んでいるとしたら。そんなことは想像するだけで、どこかに逃げ出したいような、目を閉ざしてしゃがみこみたいような衝動に駆られるのだった。

「お茶が入りましたよ」

ノアがティーセット一式を揃えて、台所から顔を出した。こういう時に限って行動の早い菜月は、さっさと椅子を飛び降りて、自らノアを手伝った。アップルティーの甘くさわやかな香りが皆の鼻についた。菜月はノアの手作りクッキーの缶を見て、早くも飛び上がっているのであった。

「ごめんね、真央君。後もう少しだから。ちょっともう少し肩のところをどうにかするだけで……」

「いいえ、お構いなく。僕は大丈夫ですから」

真央は屈託なく言った。自分とクリス以外は揃ってテーブルを囲み始めているが、今日は食後のせいか、特別うらやましさも覚えない。来夏はなんとなく遠慮して紅茶を口に運ぶ手も遅れ勝ちであったが、菜月はクッキーを次から次へと頬張っている。落合が角砂糖を三個ほど口に放り込んだその一瞬だけ、真央は再び喉に違和感を覚えた。

「あっ」

 クリスは鉛筆の先を素早く手の中でひっくり返そうとして、鉛筆の線を描きかけの絵の中に一本引いてしまった。後で消すのだから別に放っておいてもよいのだが、場所が不吉なだけに、誰にも気付かれぬうちにと急いで消しゴムを取った。真央の喉に一本、横切るような線を引いてしまったのである。


「まーた、出ない……」

 里見先生は苛々と携帯電話の電源を切って腰を手に据え、がくんとうな垂れた。これで四回目だ。時間も三十分毎にきちんとあけて掛けているというのに、友人は一向に出てくれず、メールの一通も寄越さない。今夜は仕事が入っていないと言っていたはずで、もしかしたら一緒に食事行く予定が入っていたかもしれない日だったのを、こちらの都合で断ったような次第なのに。さては、デートにでも出かけたのだろうか。土日を前にした、恋人たちの甘く耽美な時間――自分からはかけ離れてしまったもの。里見先生はソファに腰をおろす。おろした直後に、鈍いうめき声が上がった。

「痛っ!」

「はいはい、ソファは寝転ぶところじゃないわよ」

里見先生はきびきびと言って、夫であり、三宿学園に講師として勤めている里見務先生の足を床上に追い出した。十畳ちょっとのリビングの出来事である。

「いいじゃないか、疲れてるんだから……」

「疲れてるんだったらベッドに行きなさい」

メガネの奥から涙目をきらめかせる夫は、里見先生の厳しいお言葉を頂くと、大きな目を細くさせて言い訳した。

「いや、眠たい訳じゃなくて、ちょっと休みたいって程度なんだよ。これからニュースも見なきゃいけないし……」

「ちょっと休むぐらいは上半身を起こしててもできるでしょ」

「冷たいこと言うなよ。全く、友達が電話に出ないからって僕に当たるのはよしてくれよな」

「だって、だって、大切な話があるのに出ないんだもん。しかもその理由がデートときたら、ねぇ……」

里見先生は太ももに肘をついて頬杖にし、憂鬱に溜息をついてみた。真央の様子が少しおかしかったことをアニエスに報告しようとした。ほんの些細なことでも伝え合うことを、友人として以前に、生徒を保護する義務を持つ者同士として結んだ。それなのに、アニエスときたら――デートじゃなくて、仕事が急に入ったとかならばいいのだか。いけない、私ったら、何がいいのだか。デートにしても仕事にしても、アニエスに電話が通じないことは変わりないのに。ああ、でも何か無性に気に食わなくてならないものが、デートでないとすれば少し収まる気もするのだが。とにかく何かが嫌だ。アニエスが素敵なレストランで、あるいは静かな海辺の公園で、あの千住薫という講師と見つめあったり抱き合ったりしている姿を想像するのは。もし、本当にアニエスがデートに出かけていたとして、真央に何かあった時、自分は彼女を責めずにいられるだろうか。そんな不安まで胸を過ぎってくる。でも、一つだけ確かなことは――それが確かな故に里見先生の心は一層こんがらがってくるのであったが――自分のくすぶった思いが今をときめく女性への単なる嫉妬でないことだ。

「ほんっと、訳わかんないや……」






あとがき

お久しぶりです。篠原です。

更新が遅れに遅れてごめんなさい……実はパソコンが壊れまして、せっかく書きためておいたネタやらプロットやら全部消えました。

ただ今新しいパソコンで再度プロットを書き直し中です。

しかも今年は受験ということもあり、更新が相当遅れることと思われます。私も、実はパソコンが壊れた時点でもう執筆をやめようかと思ったのですが、毎日足を運んでくださる方のいることに励まされ、何が何でもこの小説を完結させようとを決めました。

残り十話もなくなってきており、非常にさみしい気持ちがいたしますが、とにかく走り抜けるつもりでございますので、よろしくおねがいします!


 篠原零

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