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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第四章 革命
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第三十二話 ひとりの季節・前編

「駄目だよ、絶対駄目だから!」

「何度も言わせるんじゃありません。子供は素直に大人の言うことに従いなさい」

「英語で言われちゃ分からないってば!」

「分からなくって結構よ。私も行きますからね」

と、アニエスは、今度は日本語できっぱりと言い放つ。その貫禄たるや、来日当時のか細い面影はまるで見当たらず。

「ああ、もう、日本語が上手くなってから余計姉さんと喋りにくくなったよ!駄目だからね、とにかく、姉さんは付いて来ちゃ駄目!だ、大体、姉さんには恋人が……!」

「可愛い従弟より恋人の方を大事にできるものですか。何を言っても私を説得できなくてよ、残念ね」

恋人のことを言及された際、アニエスは仄かに頬を赤らめたが、すぐに元の調子の戻ると、それだけ言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。真央が慌てて追いかけようとするが、すぐにばたんと扉が閉められる。この攻防をかれこれ二時間、それも三日間連続一日三回のメニューで眺めていたクリスたちは、ようやくのことでほっと溜息をついた。ノアがちょうどいいタイミングで茶を運んでくる。クリスもその給仕を手伝った。

「全く、女ってやつには敵わないよな……」

 クリスとノアの寮の居間には、いつも通りのメンバーが集っている。真央の渡米を前に、このメンバーでの会合の頻度はかつてないほど高まっていた。もちろん、部活や委員会で忙しかったり、宿題で忙しかったり、ということがあるから、必ずしもパーフェクトな出席ではないし、来夏の都合がつくときは出来るだけ恋人同士で時間を過ごせるように計らうようなこともしていたので、回数としてはそんなに多くはなかったが、それでも真央の思い出作りに励もうとする皆の気持ちは同じだった。ただ、残念なのは、アニエスが遊びに来る際には、例のバトルが勃発してしまうことだ。一戦終えて、真央は深々と溜息をついている。

「そろそろ折れたか?」

「まさか。何が何でも姉さんには日本に残ってもらわないと。僕だって、いつまでも子供じゃないんだし。そろそろ従弟離れしてくれてるかと思ったのに」

「心配なんだろ。ライの奴が付いていけないから尚更さ」

落合の言葉に、真央は急に顔を曇らせた。本日来夏は委員会の仕事のために欠席で、真央はこうした折に遠慮がちに、最近来夏と上手く会話が続かないことなどを愚痴ったが、この二、三日でますます二人の関係は悪化しているらしく、とうとう顔を合わせるのも気まずいという段階まで到達していた。

「そんで、いつまでそんなんでいるつもりさ?」

明音がクッキーを頬張りながら聞く。

「……僕だって好きでこんな状態でいる訳じゃないよ。でも、駄目なんだ。どうしても目が合わせられなくて、会話も一言喋って相槌打ってはい終わりって感じになっちゃうし……」

「おいおい、それじゃあカップルとして破滅寸前じゃねぇかよ」

落合は呆れたように溜息をついた。

「あと五日しかないんだよ、秋元君」

「あっ、荷物まとめなきゃいけないんだ」

「おーい」

「パスポートもしまいこんだままだった。いつの間にかなくなってたらどうしよう。お母さんに絶対怒られるなぁ」

「秋元君、パスポートなくすのはお母さんに怒られるだけでいいかもしれないけど、関本と最後までそんな調子だったら絶対後悔するよ」

「……最後じゃありませんよ、別に」

真央が少し拗ねた調子で呟くと、思わず一同も黙り込む。別に真央が話した訳でもなく、来夏が真央を待っていると約束したことは、いつの間にか皆の中に知れ渡っていた。知れ渡っていたというよりは、それで当然だと皆が思い込んでいただけかもしれない。真央は病気についてはまるで心配していなくて、「いつになるか分からない」と言いつつも、必ず近いうちに学園に帰ってこられるものと信じており、そのために一層来夏との関係がもたらす感情において素直になっていた。来夏とはまた合える、必ず。でも、その時、自分たちの関係がどうなっているか分からない――真央の不安はやはりそんなところにあるのであった。

「でも、そろそろ直球でいかないと駄目なんじゃない?」

暢気そうに言うのは菜月だ。

「直球って……でも、無理に僕に向き合ってもらうのは嫌なんです。先輩の覚悟が決まった時に……」

「無理無理。あいつこういうことに関しては強情だからさ。見送りのことだって散々俺たちが言ったけど、ちっとも聞きやしねぇもん」

「あと五日かぁ……何か方法はないかなぁ」

「難しいですね。人の心っていうものは」

真央はふと海を見遣る。バルコニーの奥に堂々と広がる海の表面には、冬の日差しに照らされて、波目模様が美しく浮かび上がっている。この一瞬だけは、絶対に変わらないもの。

「でも、いいのかもしれません。もしかすると……こんな風でも……」


 与えられた仕事を黙々とこなしながら、来夏の心は常に真央を水面に映した泉の中で揺れていた。不思議なことだ。その日を前にすれば変に分別ぶった態度も振り切れて、束の間となった真央との残りの時間をゆっくり惜しむことができると思ったのに。別れの日が近づけば近づくほど、自分はますます重い鎧ばかり背負い込んでいる。どうすれば脱ぎ捨てられるのだろう。どうすればあんな気まずい沈黙を作らないでもいられるのか。

 傍にいると約束した。何があっても。それさえ守れない自分は、結局真央には相応しくなかったのだ。今でさえ微かに悔やむ声が胸の中にある。もし、真央に会わずにいられたならば――こんな苦しみを知らずに済んだ。こんなに弱くて、臆病な自分を知らなくても済んだ。真央と出会った日を思い出す。あの日とあの日の真央の笑顔を永遠に、自分の記憶から消し去ってしまいたい。今すぐにでも。

「おい、学級委員長、手が止まってるぞ」

 聞き慣れた、そして同時に聞きなれない声に、来夏ははっとして顔を上げた。一人きりだったはずの教室の前方の扉から、いつの間にか慎が入り込み、腕を組んで来夏の執務を見守っていたのだ。来夏は慌てて立ち上がろうとしたが、慎はまあ落ち着けと彼を制し、自分の方から歩み寄って「第二学年の近況報告」なるものを取り上げ、机に腰を預けて読み始めた。まさか返してくれとも言えない来夏は、慎のブレザーの胸ポケット辺りを眺めながら、静かに慎の評価が下るのを待っていた。

「……フン、なるほどな」

「あの……」

「他に付け足すことは?」

「いえ、後は上手く表にまとめて、意見を書いて終わりというところです」

「そうか」

来夏に近況報告を返し、机をおりた慎の姿は、相変わらずの高慢さとそれに伴う華麗な才能を纏っていた。この人だけにはいつも敵わないと思う。人を呆れさせるほどの圧倒的なカリスマ性を持ち、それを自由自在に操って、いつも舞台の中央で主役を演じている。この人も何かに怯えたりするのだろうか。神の寵児のようなこの人が?教室の出口で、慎は一度立ち止まり、振り返って不敵な笑みと共に言い放った。

「上出来だ、関本」

「ありがとうございます」

いつ自分の名前なんて覚えたのだろうと訝りながら、来夏は頭を下げた。学級委員長であるから、顔を合わす機会が少ない訳ではないけれども。今の来夏には、高く鳴り響く慎の靴音すら、特別に許された者だけが奏でる音のように思えた。学園を我が物顔で歩くあの人と、優しい愛の前にすら屈する自分の身を、来夏は比べてみて溜息をついた。このままでは、真央が帰ってきたときに、迎えられる自分があるかどうかも怪しくて。


***

「へぇ、ずいぶん綺麗なところに住んでるのね」

「住んでるっていうよりは、住んでた、かな」

 アニエスが部屋を空けるというので、片付けを手伝いに来た里見先生は、小さな洒落たアパートの、小奇麗に品よく調えられた部屋を見回した。数少ない家具から飾られた陶器の人形たちまで、何もかもに親友の洗練された感性が垣間見られた。全く、世の中には狭いアパートにもこんな暮らしをしている人があるというのに、うちときたら……もちろん、一人暮らしというのはいくらか有利に働いたのかもしれないが。手伝いに来たとはいえ、もちろん部屋の中もそんな様子だし、そんなに長いことは、精精三ヶ月とちょっとしか住んでいなかった部屋なので、すぐにするべきことがなくなってしまって、二人は町に出て喫茶店に入り、共に過ごした数ヶ月のことを思い出し、語らった。アニエスは仕事の事情でどうしてもすぐには帰れず、それに長らく家族に顔を見せていないから、一度フランスに帰ってからアメリカへ、などという細々とした事情が重なって、本来なら三日後に来るはずの惜別を一週間後に伸ばしていた。されど後一週間。それだけ経ったら――アニエスははるか遠くに行ってしまう。そうしたら、きっとアニエスはもう自分の手なんか届かない人になってしまう。里見先生はコーヒーに映る自分の表情を見遣った。何を考えているのだろう、私は。アニエスは親友で、いつまで経ってもそうだと確認しあったばかりなのに。メールでも手紙でも電話でも、何だってできる。悲しいことには変わりないけれども、この三十年近い人生で何度も繰り返してきた別れの、たった一つに過ぎないのに。

「サオリ、泣いてるの?」

里見先生は慌てて頬に触れた。しかし、皮膚は湿っていない。俯いていたので、向かいに座るアニエスにはそう見えただけだろう。乾ききった先生の惚けた顔を見て、アニエスは安堵したように笑う。「その笑顔が辛いのよ」なんて、芝居がかりすぎてとても言えた台詞じゃなかった。先生も笑う。

「よかった。でも、サオリは強いものね。すぐに泣く私とはまるで正反対」

「そんなことないわよ。実はね、秋元君が倒れた時、泣きそうになってたの。どうすればいいのか分からなくって、途方に暮れちゃってね……」

「それは貴方が優しい証拠よ。私は弱いから泣くの。貴方は優しいから泣くのね、サオリ」

「優しくなんかないわよ、私なんてちっとも……それに強くなんかもない。落ち着いた生活に詰め込まれて、すっかり安心しきって暮らしてるわ」

「あら、結婚生活が不満なの?」

「いいえ、そういう訳じゃないんだけど……」

アニエスが意味ありげに微笑みながら、先生の手に自分の手を重ねた。その手の冷たさを謳歌できないのは結婚指輪に締め付けられた左手の薬指だけ。でも、こんなものはすぐに投げ捨てられるのだ。

「アニエス、あのね」

「何?」

「……やっぱりいいや」

指輪だけじゃない。自分を躊躇されるのは。きっとそれ以前に戸惑う心があるから。不自然に疼くこの感情に。


***

 その翌日に経つという火曜日を選んで、真央は一人、学園内を歩いた。本来ならば皆と過ぎ行く一日を惜しむべきなのだけれども、今日だけはどうしても気分が向かない。橋爪先生が特別に数学の時間を潰して催してくれたお別れパーティで流した涙が、今も後を引いているのか。誰に何と咎められようとも、今だけは一人で過ごしたかった。 まずは見慣れた校舎を振り仰ぐ。きっとあちらへ行ったら一番に恋しくなるだろう。初めて来たのは学校見学の時だった。あの時は期待に胸を膨らませていて、何もかもが美しく見えたが、とりわけこの小柄な校舎は好ましく映ったものだ。それから中庭。どの季節にも優劣つけがたい趣を持っていた。これから暖かくなり行くにつれて素晴らしい変化が起こるのだろう。見られないのは非常に残念だ。一年中豊かな芝生、広大な林檎林、小鳥たちの巣。晴れた日は必ず噴水の前でお弁当を広げた。そんな日が、また来るだろうか。

 真央は校舎を廻って校庭を臨んだ。部活動は一切しない、僕は三宿学園で声楽の勉強に励むといったのはいつの日か。ルームメイトの明音に半ば強引誘われるまま、いつの間にかサッカー部のマネージャーになっていた。忙しくも楽しい日々であったと真央は振り返る。皆、いい人ばかりだった。優しくて、頼りになって。病気で静養に行く際にも、決して迷惑そうな顔をしないで、揃って心配してくれた。室井先輩はいつも鳥類と問題を起こしていたっけ。そんなことを思い出すと笑いが口にのぼる。部長の大河内の配慮も忘れられない。明音もレギュラー目指して頑張っていた。きっと近いうちに夢が叶う日が来るだろう。そして、この部活のおかげで、僕は来夏先輩に会えた――そんな感慨に目を閉じても空しい気持ちしか沸きあがってこない。今日の校庭には珍しく人がいない。

 そんな気持ちを引き摺ったままで校門をくぐる。特に思い入れのない初等部や中等部の校舎まで、真央は瞼の裏にしっかりと焼き付けた。夕日を背後に、チャイム代わりに本物の鐘の音を聞かせてくれた塔を見上げ、そして夕闇の中に高等部の寮の灯りを遠くに眺める。瞬きをする毎に、必ず帰ってくるとの思いが一層強くなった。真央は初めて、自分がどんなにこの学園を、そしてこの学園の人々を愛しているかを知った。クリス、ノア、菜月、落合、明音、いつも一緒にいた友人たち。担任の橋爪先生は気弱だけれども芯のある、優しい先生であった。里見先生は常に毅然としていて、随分従姉とは違うところもあったけれど、常に自分の保護者であってくれたし、アニエスのことも細かく気遣ってくれた。校長は面白くて変な人だった。副校長先生はいつも忙しそうだったな。一人一人の顔を思い出す度に、真央は心からの感謝の念に打たれ、たまらなくなった。自分はこんなにも大勢の人に支えられていたのだ。でも、やっぱり、誰より……  来夏先輩だ。真央は零れる涙を拭こうともせず、夜空に浮ぶ星たちの光が滲むままにしていた。先輩が僕に一番の力をくれた。先輩のおかげで自分はここまで来られた。やはり、そうだ、このままでいてはいけない。きちんと礼を言って、それから去らなければ。迎えになんて来てくれなくていい。ただ、この気持ちだけ伝えなければ、この学園を離れることはできない。

 紫色の追い風に煽られて、真央は走りに走った。多くの先輩の露骨な視線を気にも留めず、夢中で階段を駆け上って来夏の部屋の戸を叩いた。怪訝な顔で出たのは落合だった。何も喋れないでいる真央を見るなり、落合はすぐに引っ込んで来夏を部屋の外に押し出した。私服姿の来夏は、何が何だかわからないと様子のまま、感情の読めない不思議な表情で真央を見た。

「秋元」

「先輩……」

涙でぐしゃぐしゃになった不恰好な笑顔を真央が浮かべた。廊下の電灯は少し明るすぎると真央は思った。

「最後にどうしても言わなきゃと思って……僕、ちゃんとお礼を言えてなかったから。先輩が励ましてくれたから、僕はここまで来られたのに……見送りなんて来てくださらなくていいんです。僕、ちゃんと戻ってきます。先輩がこの学園にいる間に、絶対絶対戻ってきます。だから、待っててくださいね。本当に、本当にありがとうございました……!」

真央は一瞬来夏の袖をきつく握っただけだった。抱きついて泣き喚きたいのを堪え、真央はすぐに落ち着きを取り戻し、野を駆けるように軽やかな足取りでその場を後にした。来夏は何か言いたげに少し手を伸ばしたが、そんな真央を引き止められずに立ち尽くしていた。これ以上、気持ちの良い別れがあるはずない。そんな諦めがやって来て。 突如襟首を掴まれ、部屋の中に引き戻された。落合と菜月が、こんなことは非常に珍しいのだが、同じ怖い顔をして来夏に詰め寄っていた。菜月に至っては落合を起こすためのみに用いてきた百科事典まで胸に抱えている。来夏は二人を落ち着かせることが先決だと判断した。

「おい、何だよ?」

「何で追いかけない?」

こんな時だけは、落合の方が背の高いのが強調される。それに、さすがに剣道部であるだけあって、凄むと迫力があるものだ。菜月は剣道部でも、また別の所で迫力を出していたが。

「別に必要ない」

「誰がそんなこと決めたのさ?」

「俺が判断したんだ。文句を言うな」

「最後までその調子で本当にいいのか?」

「おい、酒本、いい加減にそいつを下ろせ!」

「本当にそれでいいのかよ?」

「更に持ち上げるな!」

「悪いが、今日だけは俺と酒本は同盟だぜ。どうする?」

堪忍してくれと来夏は首を振った。真央にも自分にも文句はない。これで満足してもらう他にないのだ。何とか落合と菜月の間を潜り抜け、安全地帯に避難した来夏は、肩をすくめ、飲みかけのコーヒーを啜った。自分たちはこれでいいのだ。誰にも口を出されたくない。

「見送り行けよ」

「行くわけねぇだろ、バカ」

朝早くに発つと言っているのだ。学校をさぼって行けるものかと、密かに来夏は胸で付け足す。

「行かなかったら部屋から閉め出してやるからね」

「勝手にしろ」

「ふん、ほんとにそうしてやるもん」

立派な意気込みで菜月は言った。もしかしたら本気かもしれないと、嫌な予感が胸を過ぎったが、来夏はまるで気にしていないふりをして、静かにコーヒーを一口啜った。その夜の寝つきが悪かったのは、そう遅くも無い時間に飲んだこの一口のせいだったのか。





 朝焼けに小鳥が鳴いている。


 朝のラッシュで混んでいてもいいはずなのに、埠頭の駅は忘れ去られたように閑散としている。三宿港の駅から乗れば、こんな寂しさは知らないでもよかったのだが。誰も見送りに来ないことやら、電車の中の時間を出来るだけ切り詰めるために、朝一番のバスで学園のある崖を下り、繁華街を抜け、三宿町の寂れた界隈の駅から乗車することに決めたのだ。電車が出発するまであと十分弱というところか。濃い赤紫とクリーム色の車体をした電車は、何の広告もない灰色の壁を左手に佇んでいる。客席の人も疎らである。こんな電車で発つのかと思うと無性に虚しくなって、真央は車体に背を向けて反対側のホームから懐かしき町の景色を眺めた。小さく見えるあの崖の上に学園がある。たった三十分前までは自分はあの場所にいたのに。今はまるで全く切り離されてしまったようだ。ああ、あの崖にいる友人たちが羨ましい。戻れるものなら戻りたい。否、戻ろうと思えば今すぐにでも戻れるのだ。少しの時間とお金さえ惜しまなければ。両親の叱責とアニエスの絶望を惜しまなければ。周囲の人々の白い目さえ恐れなければ。休学届けを取り消しさえすれば、声を失うまでの日々をあの輝かしい自然の中で、愛しい人と共に……

 たった一歩だけ、真央の足は動いた。だが、そんな我侭が自分以外の誰も救わないことを、真央は知っていた。理性にしっかりと言い聞かせて、真央は学園と町に背を向けた。もう後戻りはできないのだ。自分はこうして、遥か遠くに旅発つ。

「真央!」

 最初の声は、空耳だと思った。それは極めて自然な判断であった。とっくに離別を遂げた人の声だったのだから。もう一度聞こえた時には、自分の未練がましさと浅ましさに苛立った。人に救われることばかり望んでいるから、こんな幻聴を聞くのだと。三度目で真央はようやく信じた。背後からのきつい抱擁が優しい声に伴った。

「真央!」

「先輩……どうして?」

荒い息遣いを耳元に聞いていた。回された腕に触れながら、喜びが、まだそれとははっきり分からない形で湧き上がっていくのに、真央は気付いた。

「昨夜は寝つきが悪かったから……その上に寝覚めが悪かったらたまらないと思って……」

「……先輩」

「間に合ってよかった……」

来夏の腕がくるりと自分の身を返す。見上げた来夏の顔は悲哀を押し殺した微笑みを湛えていた。その胸に押し付けられて、真央の睫の先に真珠のような涙が一粒二粒貼り付いて零れ落ちる。嬉しかった。こんなにも来夏が自分を想っていてくれた事実が。来夏に今こうして抱き締められている現実が。

 自分は大丈夫だ、真央は確信した。病気は治るし、この学園にもすぐに戻ってこられる。そうはもう確定した未来なのだ。こんなにも優しい先輩が待っていてくれるのだから。ホームは静かで、二人の存在を認めているのは、屋根の下で羽を休める鳩たちだけだった。真央は来夏の肩越しに見る空に、小鳥たちが楽しげに飛び交っているのを見た。彼らは戯れながら学園の方へと飛んでいく。いつしか林檎林で巣を作っていた小鳥たちかもしれない。

「真央」

「はい」

「そろそろ……席に座った方がいいんじゃないか?」

「はい」

そして最後の触れ合いが終わる。お互いが素直に数歩下がって終わる抱擁は、まるで大人のするように。重たいトランクが軋むような音をたてた。

「では、先輩、お世話になりました」

真央が丁寧に頭を下げる。

「絶対に戻ってきますからね、先輩」

「ああ。待ってる」

真央は電車に乗り込み、出入り口からもう一度来夏を振り返った。見つめあう二人は、笑っていた。トランクを転がし、狭い通路で自分の席を探しながら、真央は窓越しに来夏の影がついてくるのを横目に知っていた。ぽろぽろと頬を伝っている涙にもきっと気付かれているのだろう。うれし涙なら見られても構わなかったけれど、今更になって惜別の涙を見られるのは、少し悔しかった。

 ようやく真央が席を見つけ出した。敢えて窓際に座ろうとせず、来夏が窓の外から視線を投げかけてもずっと正面を見つめたまま、涙を落としていた。それが、間もなく出発という時になって、ふいに身をこちら側にずらし、口の動きだけで何事か呟いた。来夏はすぐにその言葉を察した。そして、そっと身を乗り出した。

 ガラス越しのくちづけは温かくも優しくもなく、痛いだけだった。出発を告げる音楽が、間もなく二人を引き裂いた。来夏は車体を離れ、がくりとその場に崩れ落ちた。真央の最後の表情は見えなかった。真央の顔さえも流れていく車体の色と一緒に。堪えていた涙がついに溢れ出した。必ず会えると誓い合っても、別れというものはこんなにも辛いのだ。涙を受けた唇は、まだガラスに熱を奪われたままだった。すがすがしいほど晴れ渡った空に、ひとりの季節がやって来た。




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