第二章 第九話 魔の道化師、もう一人の魔人
「…………」
遂にこの時がやって来た。しかし意外にも魔人の心の内には冷え切った感情だけが残されていた。
とある区画の高いビルの屋上に腰かけて、魔人は力帝都市の街並みを、ぼんやりと一望していた。
昼下がりの時間。太陽はすっかり登り切って、力帝都市一面を照らしている。しかし不思議と魔人の周りにだけは、その心象を現しているかのように明度が僅かに暗く感じられた。
「…………」
「おやおや。貴方ともあろうものが、まさか感傷に浸っておいでで?」
「チッ。神崎剛毅が出てきて、更には塔がこの地に出現した時点で予想はできていたがよぉ……」
魔人は一切振り返ることもせずに、その声を耳にしただけでウンザリといった表情を浮かべる。対する声の主はというと、不躾な態度の魔人を前にしてもなお敬意をもって語りかける。
――いつの間にか、それまで誰もいなかった筈の背後に、魔人とは違う『もう一人の魔人』が立っている。
「何かお困りなら、ワタクシが動きましょうか?」
「いらねぇよ。引っ込んでろジェスター」
魔人からジェスターという名で呼ばれた男は、乱暴な拒絶の言葉を前にしても引くことなく、ただにこやかに立ち続けていた。
――力帝都市はおろか、この世界において絶対の最強格である魔人、シャビー=トゥルース。そんな彼ですら、身長差という面においてはこの男を見上げるしかなかった。
百九十センチを超える長身に、腰まで伸びているのは烏の濡れ羽のごとき黒い髪。魔導士を思わせるような装飾付きの真白なローブを身に纏っているが、着こなし方としては着崩れている方に思える。
丁寧でありながらどこか芝居がかった口調に加え、耽美な顔立ちに切れ長の瞳は女方のような美しさを彷彿とさせるが、彼もまた魔人と呼ばれる者の一人であり、その危険性は変わることはなかった。
「まさかとは思いますが、あの小娘に対して人間のような親心を偉大してしまったなんてことは――」
その瞬間、空の色が一瞬にして反転。まるで一瞬で場面が切り替わったかのように、暗雲が立ち込めて日差しが消え失せてしまう。
その切り替わりのスイッチとなったのは、ビルの屋上から響き渡る、何かが爆ぜるような重く鳴り響く轟音と、そこから輪のように空に広がっていく漆黒の衝撃波だった。
「――そのような事はないものかと思っておりましたが?」
「誰だって毎日がハッピーで生きてる訳じゃねぇだろ? オレも、テメェも。人間の様にイライラが募る日くらいあるだろうよ」
魔人が振り向きざまに繰り出した頭部に向けてのハイアングルハイキックに対して、もう一人の魔人は両手を交差させてそれを受けきる。一瞬の攻撃の余波であろうか、バチバチと音を立てながら紫電が二人の間とビルの屋上を走り抜けていく。
「これはこれは、わざわざ言葉を紡いで語られるとは。こちらに来てから随分と大人しくなられたようで」
「アァ? もっと出力を上げて蹴り飛ばしてやった方がよかったか?」
「まさか! 魔人拳法六百六十六段、開祖であり師範代でもある貴方の本気の前蹴りを喰らうなんて、自殺行為も甚だしい」
「ケッ、そもそも魔人拳法なんてオレが適当にほら吹き始めたのモンだってのに、既成事実にしようとしてんじゃねぇよ」
「ンフフフフフフ……まあまあ、ワタクシのような若輩者の言うことなど適当に流しておればよいのですよ」
パンパン、と土埃を軽く叩いたところで、ジェスターは改めて目の前の魔人に対して改めて問い直す。
「それで? 如何様にするおつもりで?」
「何がだ」
「澄田詩乃……あのままあの人間ごときに連れていかれるは不愉快と言わざるを得ないのかと思っておりましたが――」
「その結末を決めるかどうかはオレじゃない」
魔人もまたため息のような息の漏らし方をした後に、ビルからはるか下の地面――さらにその先を見透かすかのように遥か遠くを見下ろしていく。
「……まぁ、もって一週間ってところか?」
「おやおや、随分と甘い見積もりのようで。ワタクシとしては、三日でケリがつくかと」
「……それはどういう意味だ」
魔人シャビー=トゥルースは、ここに来て初めて攻撃の為ではなく対話の為にもう一人の魔人――ジェスター=トールマンの方を向きなおす。
「あれか? “サタンの意思”ってヤツか?」
「いえいえ。そもそもサタンの考えなど常に移ろうもの。三秒前と今とでは正反対というのもおかしくはありません故、ワタクシも貴方も誰も当てにしてはなりませぬでしょう?」
ジェスターは手の甲で口元を隠しながらくつくつと含み笑いをして、そして切れ長の目を更に細めながらこう述べていく。
「たかだか世界強度が“3”しかないというのに、その頂点すら取れぬものをいきなり万魔殿送りにするとは、いつも通りの意地悪なものだと思いまして」
世界強度――それはとある基準世界をゼロとして、どれだけそこから位相がズレているのかを示す独特な指数。その言葉自体を知る者は少なく、また定義できる者は更に限られてくる。
「異世界ファンタジーでもあるまいし、唐突に力が目覚めるとでも?」
「目覚めさせるんじゃねぇ。元々眠っているモンを叩き起こさせる」
魔人は知っていた。緋山励二もまた、『大罪』を抱える者だという事を。
「遊びで変身ベルトも作ってやって、身体も既に慣らしてある。あとはヤツがどう向き合うかだ」
「穂村正太郎のように、向き合い過ぎた結果消し去ってしまってはどうするおつもりで?「なぁに、消えやしねぇよ」
ジェスターの企みなど浅いとばかりに、魔人は口角を三日月のように歪めて笑みを浮かべる。
「ヒャハッ! 澄田詩乃という極上の釣り餌がある限り、あの野郎の嫉妬の炎は消えることはねぇよ。つーか、そんなことより――」
魔人がゆらりと身体を震わせると、泥水に浸かってゆくかのように全身が影に浸食されていく。
その笑顔が半分闇に溶け込もうとしたところで、魔人は残った半分の顔を更なる狂喜に歪めていく。
「――久しぶりに会ったんだ。軽く“遊んで”いけよ」
その言葉が空間に響き渡ると同時にまるで何かズレが生じたかのような、同じ世界でありながらどこか違うような違和感をジェスターは覚えた。
「っ……! ……ずらしましたね、“位相”を」
「そうでもしねぇと、力帝都市なんざ軽く七回はぶっ壊れるだろ?」
そうして魔人は高笑いを残し、自らの影に溺れて姿を消していく。それと共にどんどんこの世界が闇に浸食されていくかのような、空すらもさらに澱んだ世界へと変わっていく。
「……困りましたね。どうも」
額から汗を一筋流しつつ、ジェスターはビル群の屋上から下を覗く。そこにはアスファルトの地面の下を泳ぐような、巨大な魚のような影が一匹蠢いている。
「さぁさぁ、再会を祝してウォーミングアップと行こうじゃねぇか! この身体で70%以上を維持して戦えるなんて、久しぶり過ぎるからなァ!!」
どこからその声が聞こえてくるのか。それは地面全体というべきなのか。
「やれやれ、どうもタイミングが悪かったのはワタクシの方でしたか」
次の瞬間大口を開けて地面から飛び出した巨大な影の魚が、ジェスターのいたビルを一飲みで吞み込んでゆくと、また地面へと姿を消していった――




