第十一話 スイッチボーイ
僕は部長の携帯に心配はないという旨のメールを送り、翔太郎を部活に帰した。
翔太郎は、『休み貰ったからこのままどっか遊びに行こうぜ』とは言ったが、僕は生憎と自宅謹慎の身だからと、断った。そう言ったのは、謹慎中に表に出ることが云々よりも、翔太郎の本当は部活に行きたいという心中を察してのことである。
僕がそう言うと仕方ないなと、部活に戻っていた翔太郎を見送ると僕は部屋に戻り、机に向かう。
『なんとかする』
言ってくれたその言葉を何度も何度も思い出し、その度、頬を綻ばせながらも、僕は数学の問題集と格闘した。
心優しい仲間達が頑張っているのだ。自分に出来ることは何もないけれど、せめて、学校に戻ったときに、授業に遅れないように勉強だけはしておこうと考えるのが当然というものだ。
赤い表紙の分厚い問題集の、苛烈な問い達に対して、僕はシャープペンシルを走らせる。その都度何枚ものルーズリーフが真っ黒く染まり、そして暫く経ち、ペンの芯が無くなったので、筆箱から芯のケースを取り出した。
「あ」
そして、気がつく。芯を買い忘れていたことに。
「マズイな……」
これは困った。僕は今謹慎中で、芯を買いに行くことすら出来ない身である。いや、或いは僕でなければ近くのコンビニにでもちょっと歩いて買いに出るなんてことも出来るだろう。しかし、僕の場合は少し勝手が違う。
僕は、筆圧が極端に強すぎる為、『7H』という硬さの芯を使っているのだが、これを取り扱っている文房具店は鬼松市では極僅かしかないのだ。
一番近い距離でさえ、一人で行くにはバスに乗らなければならないくらいだ。
仕方ない、母さんに買ってきて貰おうか――と、階段を下り、母さんの部屋の前までやって来て、戸に手をかけたところで翔太郎の言葉を思い出し、即座に台所へと向かう。
母さんは現在、二日酔いの真っ只中であった。そんな人を表に出すのは、僕が今表に出るより遥かに危険である。
どうしたものかと考えながらも、僕は乾燥させたペパーミントとハイビスカス、そして刻んだラズベリーをパックの中に入れ、それをティーポットに投入し、お湯を注ぐ。母さんの部屋の前まで戻ると、
「二日酔いに効くから。飲んでね」
と伝えて、部屋の戸を少しだけ開け、それを中に置いた。
「あ、ありがと……」
帰ってきたのは、断末魔染みた母さんの消え入りそうな声だった。相当飲んだのだろう。部屋からは、普段飲んでいる『角瓶』以外に、『スピリタス』の香りまで漂ってきていた。余程、悲しいことがないと、母さんは強い酒を飲まない人だから、僕のことで相当悲しませてしまったことが分かる。
「清助、もう大丈夫なの?」
部屋の中から、母さんが僕に訪ねてきた。ずっと、部屋に閉じこもったままだったから、心配していたのだろう。
「うん、もう大丈夫だよ」
僕がそう答えると、
「そう」
と、母さんは微笑んだ顔が想像出来るほど、柔らかい声色で返した。
「なぁ、清助。なんか私に出来ることない?」
「別になんにも……」
いつも聞かれることに対していつも通りの言葉を返そうと思い、その途中でふと思いついた。
文房具店に行くための良案を。
「母さん、ウィッグ、借りても良い?」
鬼松市の中心市街ともいうべき鬼松駅前の3つ前のバス停で、バスを降りると、僕は勢いよく迫ってくる蒸し暑さに鬱陶しさを感じて、締めていたネクタイを下ろし、第1ボタンを下ろしつつ、道路の向かい側に建つ、文房具店に行くために横断歩道の前に立ち、信号が青に変わるのを待つ。
道を行く人達や、僕と同じように横断歩道の前にいる人達からの視線が痛い。
そして、今、間違いなく、純心高校の、しかも同じクラスの女子達が通り過ぎて、此方に視線を遣った。緊張で、心音が早くなる。しかし、彼女達は此方を見ると、いつものように僕に恐怖するではなく、
――今の人、凄かったね。高そうなスーツとか着て。
――髪クルクルで、貴族みたい。
――香水の匂いしたよ。
――ホストとかかな?
などと、囁きあっていた。
よし、ばれていないと、僕は人知れず、小さくガッツポーズをした。
僕は目的の文房具店に行く為に、母さんにウィッグを借り、母さんの友人の結婚式に合わせて仕立てて貰ったスーツを引っ張り出して、僕は変装をした。
母さんから借りたウィッグは、栗色のウェーブ掛かったロングヘアーで、黒いタイトなスーツは、到底高校生のファッションではない。母さんが客から貰って要らないからと、僕に押し付けてきた香水をこれでもかというくらい振りかけ、化粧まで施したこの姿を、藤平清助と言い切るのは難しいだろう。
――しかし、本来不細工な僕が、ホストと言われるまで変わるとは、化粧の力とは恐ろしいものである。
顎に手を当て、そんなことを考えていると、信号が変わり、人波が対岸へと動き出した。僕もそれに合わせて動き出し、何気なしに、少し視線を上に向けた。天を衝くほど高いビルの中に存在する、3階立てくらいの雑居ビルが目にうつる。相変わらず、大きい。建物としては小さいけれども、そのビル全てが、文房具店だということを考えると、大きいと考えるべきだろう。
……扉に関して言えば、僕の頭がギリギリつっかえてしまう大きさしかないが。
僕はここにいつも来るのと同じように、やや屈んだ姿勢で、自動ドアを通ると、いつもと同じように、店員の元気の良いいらっしゃいませの声を聞き、そしていつも通り、シャープペンシルの芯が置いてあるコーナーを一直線に目指す。
いつもと違うのは、僕を認めても、怖がる店員がいないことだろう。
……怖がられないなら、ずっと変装して学校に通うのもアリかもしれない。
そんな馬鹿なことを考えながら、僕はいつも使っている『7H』のシャー芯を一気に4つほど纏めて買おうと手に納める。
いつもなら、このまま真っ直ぐレジに向かうのだが、今日に限っては、『8H』と『9H』のシャー芯に目が留まった。いや、以前から、どんな書き心地なのか気になってはいたのだ。
買おうか、いや、でも無駄な買い物になってしまいそうだ。如何しよう、いやでも――そう、迷っていると、
「藤平さん?」
声を掛けられた。僕はこれまでにないくらい驚いて、その声の主の顔を見た。そして、さらに驚いた。
所謂、森ガールな服装に身を包み、ベレー帽を被り、赤い縁の眼鏡をかけてはいるが、見間違いようがない。いや、きっと、この子の顔は地獄に落ちたって忘れないだろう。それほど、可憐で美しいのだから。まさしく、彼女は森琅蘭さんだ。
彼女を認識すると、何故か邂逅を喜び、心臓を高鳴らせている自分がいるが、この状況は非常に拙い。もし、仮に目の前の森さんが、――僕なんかのことを誰かに話す可能性など、那由他に1つもありはしない筈だが――他人に、僕が今日ここにいることを話した場合、その話が人伝い人伝いで、純心高校の先生方にばれるのは時間の問題である。非常に拙い。
ここは心苦しいが、誤魔化そうと思い『人違いです』と言い出そうとして――それを喉の奥に押し戻した。
「えっと……」
そんな僕のことを訝しげに森さんは見つめる。
確かに僕の行動は不審かもしれないが、これにはきちんとした理由がある。常日頃、見た目が怖いと言われる僕ではあるが、見た目に違わず声も怖いと過去に何度か言われたことがあるのだ。曰く『悪人そのもの』『脂の乗った低く恐ろしげな声』らしい。畢竟、声色で気が付かれるかもしれないということだ。
どうしようかと、僕は頭を回転させ、そして1つ打開策を見出す。以前、知花に声真似をしてと、無茶な要求をされた際にやった、しかも『結構似ている』とお墨付きを貰った『君に届け』のヒロインの声真似。あれなら、或いは別人として認識されるかもしれない。僕はそれを刹那の合間に思いつき、一抹の希望を持って、実行する。
「ひ、人違いですよー」
――自分で、何をしているのか分からなくなった。というよりも、普段の地声よりも遥かに高音域の声を出した為に喉が破裂するほど痛い。
とどのつまり、この声真似には限界がある為、上手く騙されて欲しい。そんな思いで僕は森さんの反応を待つ。
「どうして誤魔化すんですか? 藤平さんですよね?」
だが、思いは通じない。
「いや、本当に人違うんだって」
「いえ、貴方は藤平さんです」
――何故食い下がらないんだ、森さんは。本当に人違いだったらどうする気なんだこの子は?
僕は少し焦りながらも、言葉を紡ぎ続けようとするが、
「ゲホッ! ゴホッ!」
続けることは出来なかった。当たり前だ。バスボイスの人間がアルトボイスを出し続けられるわけがない。
「ちょ!? 大丈夫ですか?」
苦しむ僕の背中を森さんが擦る。
「だ、大丈夫……。問題ない……」
心配そうに僕の顔を覗く森さんに、僕は潰れかけた喉からのかすかすにしゃがれた声で言葉を返す。すると、森さんは、
「やっぱり、藤平さんじゃないですか」
と言って笑った。あの時と、同じような、風光るような優しいく柔らかい表情で。
「ごめんなさい……」
彼女のその笑顔を見たことで、何故だか良心が痛んで、僕はつい謝ってしまった。
「謝るくらいなら初めから誤魔化さないで下さいよ」
「そ、そうだね」
森さんから返ってきた言葉には少しばかり棘が感じられた。確かに、森さんの言っていることは正しかったが、少しばかり意表を付かれた。以前会った時には終始優しい印象だったからか、そう感じるのかもしれない。
「でも、どうして嘘を吐こうだなんて? もし良かったら、話してくれませんか?」
「え? でも……」
「ち、近くに『タリーズ』ありますから。そこでコーヒーでも飲みながらゆっくり、ね?」
森さんは、多分心から笑って、そう言ったのだろうが、僕は苦笑しか出来なかった。彼女は内向的に見えて押しが強い人だと思う。僕はまだ話すとは言っていないのに、何故だか話しをしないといけない雰囲気にさせられている。というか、多分意図してやっているわけではないとは思うが、話す暇すら与えてくれない。
「あぁ、うん。分かった」
この人をかわすのは口下手な僕では、無理そうだからと、諦めてそう答えた。それに考えれば、森さんはそこまで警戒するような、悪い人ではないと思う。一瞬、棘を感じる部分もあったが、いい人には違いないと思う。
……僕の希望的観測かもしれないが。
「丁度、何か飲みたいと思ってたところだったんだ」
僕がそう答えると、
「じゃ、行きましょうか」
森さんは満面の笑みを浮かべ、僕のスーツの袖を掴んで歩き出した。




