第20話 渚の襲撃者
「……もう離しても大丈夫?」
「ああ……多分、大丈夫だと思う」
浜辺より少し離れた海の上、ギリギリ地面に足が着くか着かないかの所で、鏡華は沙由の両手から自身の両手を離した。
「お、おお……」
『海に浮かぶ』という感覚を久しぶりに味わい、思わず感嘆の声を上げた鏡華。
それを見た沙由が心配そうに声をかける。
「大丈夫?ちゃんと浮けてる?」
「……みたいだな、良かった。海も泳ぐのもかなり久しかったからどうなるかと思ったが、とりあえず勘は取り戻せたらしい」
実は彼女、自身の発言通り『泳ぐ』という行為自体相当久しぶりのものだったのだがそれをあろう事か泳ごうとするその瞬間まで忘れており、泳ぎ方まですっかり忘れてしまっていた彼女は軽くパニクって一悶着起こしていた。
その後なんだかんだあって現在、沙由に泳げるまで面倒を見てもらうことになっていたのだ。
しかし一度感覚を思い出してしまえば後は早い。
鏡華は水平に腕を動かして水を掻き分け進みだすと、次第にけのびやバタ足等自分の覚えている一通りの泳ぎ方を試しだし、それを一通り終えた事で泳ぎ方を完全に思い出した事を確認すると、試しで泳いだことにより少し距離の離れた沙由に手を振りながら大声で言った。
「少し向こうの方まで泳いでくるー!」
「えっ、いきなりは危なくない!?もう少し慣らしてからの方が――」
「大丈夫だ!」
泳げた事がそんなに嬉しかったのか、あまり素直に喜びの感情を出す事の無い彼女にしては珍しく明るい笑顔を沙由に向けた後、体の向きを反転させてクロールで泳ぎ始めた鏡華。
「本当に大丈夫かなぁ……足つらないといいんだけど」
久しぶりとは思えない程の速さで泳げている辺り本当に大丈夫なのかも知れないけど、それはそれで心配――。
なんて事を沙由が思った矢先、鏡華の動きが突然ぴたりと止まる。
そして沙由の視界の先で、鏡華の体が見る見るうちに海へと沈んでいった。
「あれ?鏡華ちゃんどしたの?」
「触れないでくれ……」
「つっちゃったんだよ、足。だから慣らした方が良いって言ったのに……」
「うぐっ……」
「大方泳げる様になったからってはしゃいで調子乗ったらやっちまったとかそんな感じだろ。いやぁ可愛いなぁHAHAHA!」
「ポイント高いわね!」
「可愛い言うな!ポイントもいらない!」
「でも大体あってるのがね……」
「うう、情けない……」
沙由に肩を担がれて浜辺に上がった鏡華は地里兄弟に囃し立てられて、がくりと首を落とす。
そうこうしている間にすぐに鶴来もビーチボールを持って鏡華達の元に戻ってきた。
その姿にいち早く気づいた守が鶴来に声をかける。
「おう、遅かったな鶴来」
「お前が変なところに飛ばすからだろ……って鏡華?どうしたんだ?」
「うるさい馬鹿、こっち見るな」
沙由に肩を貸してもらっている鏡華を見て率直に疑問をぶつけた鶴来に向かって、今の自分を見られたくなかった鏡華がいつも通りの罵倒を飛ばした。
しかし沙由はそんな意地っ張りな鏡華に苦笑しながらも、鶴来に状況説明をする。
「無理して泳いだから足つっちゃったの、だから少し休んでもらおうと思って」
「言うなよ沙由ぅ……」
「あー……あ、もしかして久しぶりに泳いだからつい調子に乗ってペースを上げちゃったとか――」
鶴来が言い終わる前に鏡華の手が思い切りボールを弾いた。
「あー!!せっかく取ってきたのにー!」
「ぉぉぉぉ……!」
鶴来が慌ててボールを追いかけ走っていく。
一方の鏡華は、つい踏み込んでしまった右足を押さえて悲痛な声を上げていた。
「ああもう何で動いちゃうの!?ほらもう一度肩に掴まって」
「すまない、だが分かっていてもあいつ相手だと手が出てしまうんだ。これは最早本能みたいなものだからしょうがないと……」
「馬鹿な事言ってないでシートまで歩くよ?……もう、意外と手がかかるんだから」
「言い返す言葉も無い……」
鏡華は意気消沈しながらも、再び沙由に肩を借りて歩き出す。
だがその二人を交互に見比べては妙ににやついている人間が一人。
「……何なのこのみ、さっきから」
「……いやぁ、それにしてもねーって……」
鏡華。沙由。鏡華。沙由。
このみは再び二人を交互に見やって、うんうんと得心の行ったかの様に頷いてから感嘆の意を込めて一言。
「やっぱり差があるわねぇ……」
このみの視線の先にいる二人は、色んな意味で対称的な姿をしていた。
沙由は若干大人しめなプロポーションに似合う、清楚な淡い水色のワンピースタイプ。
対して泳ぐ為にパーカーを脱いだ鏡華は彼女を含めたその場の女性3人の中で最も露出度の高い水着、要するにビキニを着ていた。
自己主張の激しい濃紺色が豊満な胸のラインをありありと象る様は、鏡華本人としては不本意だが実に艶やかと言えよう。
よく見れば、このみの視線は二人というよりもその胸に注がれている。
しかしその視線の意味に気づかない鏡華は『また碌な事を考えてないんだろうな』という事しか分からず、げんなりとしながらこのみにその真意を聞く。
「何が言いたいんだお前は……」
「いやね?だからおっぱ――」
言い終わる前に目にも止まらぬ速さで沙由が懐に飛び込んだかと思うと一体何をしたのか、このみの体が回転して背中から地に落ちた。
一方、沙由に支えてもらっていたはずの鏡華も支えを失い地に倒れ、再び右足を押さえて砂浜で悶えだした。
そして今の今まで騒動の外にいた守はまるで見計らっていたかの様な流れる動きで鏡華の傍に駆けつけると、屈んで優しく声をかける。
「俺が運んであげましょうかお嬢さん」
「……お前、こうなる事分かってただろ……!」
「ふっ、あいつは思った事をそのまま口に出すからこういうチャンスを逃すんだ。だがおかげで横に張り付いていた貧乳が居なくな――」
瞬間、ずしゃあ!と派手な音と砂埃を巻き上げながら守の体が顔面から砂浜に突っ込んだ。
代わりに立っていたのは、乾いた笑顔を貼り付けた沙由。
「急に離してごめんね鏡華ちゃん、それじゃあいこっか」
笑顔がここまで怖いと思ったのは初めてだった。
別に沙由は言うほど小さくないだろうとも思ったが、それを素直に言ったところで悲しがな自分の方が大きいせいか嫌味にしかならない。砂浜に沈むのは勘弁だ。
鏡華は無意識のうちに守る様に大きな胸を抱きながら、振り子の様にこくこくとうなずくしか無いのだった。
「ふぅ……」
ビーチパラソルの下に敷かれたシートに座ると、鏡華は肩の力を抜いて一息ついた。
今鏡華が座っているシートも彼女の白い肌を太陽の光から守っているビーチパラソルも、実は全てこのみの持ち物だ。
「こういう事は気が効いているよな……」
後はあの暴走気味な性格さえもう少し抑えてくれれば言う事は無いのだが。
愉快すぎる友人に思いを馳せながら海の方向を眺める鏡華の視線の先では、浜辺で飛び掛る地里兄妹を沙由が受け流しては投げ飛ばしを繰り返している。
何度も空を舞い地に落ちては水飛沫を上げる地里兄妹も、体重は成人のそれと殆ど変わらないであろう高校生を何度もぶん投げてる沙由も、大概元気だよなぁと暢気な感想を抱いた鏡華は、ふととある疑問を抱いた。
「……そういえば、海で遊んだのなんていつ以来だろう」
近場という事もあり子供の頃にきららに連れられて何度か来た事はあったし、泳ぎを覚えたのもその時だったと思うがしかしいつの間にか行かなくなっていた。
元々自分から海に行きたいと思う事は無かったが、鏡華を連れ出していたきららもそのうち『海行くぐらいなら温泉行きたいわ……』と微妙に哀愁を漂わせながら言う様になっていた。
そんなわけで鏡華にとって海というのは近場に海水浴場があるにも関わらずあまり馴染みのあるものではなく、勿論同年代の人間と海行くのもこれが初めてだった。
「なんか、すっかり馴染んでしまったな」
まだ鶴来の友人達とはたった2週間程の付き合いだったが、その輪の中に収まっている自分というものにかなり違和感が無くなったと思う。
だが自分がもしいつか男に戻ったとして、そしたら彼女たちとの付き合いも無くなるのだろう。
何故なら自分は『竜胆鏡華』という架空の人間の皮を被った『竜胆鏡夜』なのだから。
当然元の自分に戻れば『竜胆鏡華』の存在は消え、友達としての繋がりも当然無くなる。
「友達、か。ついこないだまでは、そういうのに思い入れは無かったはずだったんだがな……」
もし男のままだったら多分無かったであろう繋がり。
そう考えると、今の状況もそんなに悪くないのかもしれない。と思える程度にはその繋がりに愛着もある。
男には戻りたい。
やはり『竜胆鏡夜』こそが自分なんだと、いつだってそう思う。
でも皆との繋がりが無くなるのは――。
「嫌、だな……」
「何が嫌なんだ?」
「うわぁ!つ、鶴来!?いつの間に!」
考えに耽っていた間にいつの間にか真正面に立っていた鶴来に鏡華は驚きを隠せなかった。
鶴来は大げさな鏡華のリアクションに苦笑すると彼女の隣に座り、あるものを差し出してきた。
「はいこれ、好きだろこういうの」
鶴来がその手に持っていたものはおそらく浜辺の売店で買ってきたであろうカキ氷。
赤色のシロップがかかったそれはイチゴ味の様だ。
「……お前にしては気が利くな」
礼にしては少し捻くれた返事を返しながら、鏡華は鶴来の手からカキ氷を受け取る。
鶴来ももう片方の手に持っていたコーラの缶のプルタブを開けて、喉を鳴らし勢いよく飲みだした。
少しの間両者とも無言が続くが、缶から口を離した鶴来が口火を切った。
「ま、何日も一緒に住んでれば俺だって少しはお前の事も分かるさ」
鶴来が言ったそれは、少し前に自分が彼に向かって言ったのと殆ど同じ言葉だ。
「……それもそうか」
自分達は不本意ながらも一緒に住んでいる。
自分が鶴来の事を理解してきているのと同じで、彼も自分の事を理解してきているのも当然と言えば当然だ。
……少し前の自分だったらそんな関係死んでもごめんだとか思いそうなものだが、今は何故だかこれはこれで悪くない居心地なのかもしれない、と。
(そんな事を思ってしまうのは、なんなんだろうな)
自分で自分の思考がいまいち理解出来なくて、鏡華は胸の中に生理の時とはまた違うモヤモヤした不透明なものを感じた。
(……結局私にとって、鶴来ってなんなんだろう)
「……なんかあったのか?」
(馬鹿だし暑苦しいしお節介焼きだし、馬鹿だし。俺の嫌いな種類の人間ではあるけど……)
「おーい」
(悪い奴ではまぁ、無い。むしろ……)
「鏡華ー……」
(いやしかしそれを素直に認めるのはなんだか癪というか、こいつの前だとつい意地を張りたくなるというか……)
「えいっ」
「ひゃあ!な、何するんだ馬鹿!」
「悪い悪い、呼んでも反応無かったからさ」
突然頬に氷の様な冷たさを感じて飛びのいた鏡華の先では、鶴来がコーラの缶を軽く突き出していた。
冷たさの正体はその缶だろう。
「全く……」
座り直した鏡華が口を尖らせて文句を言おうとした矢先、鶴来が妙に真面目な顔で聞いてきた。
「……なぁ、またなんか悩んでるのか?」
「……なんでそんな事を聞く」
「さっきぼーっとしてたのもだけどさ、それよりも……遠くを見てる目だなって、なんとなく思ったから。これも一緒に住んでたから分かった、のかもな」
相変わらず妙なところで察しが良い。
しかし今悩んでいたそれは彼に言えるはずも無く。
そのはずなのに、一体何を言い出そうとしているのか鏡華の口は殆ど無意識にぽつりと呟いていた。
「…………なぁ、鶴来」
「ん?」
「あ……いや、なんでもない」
今、自分は何を聞こうとしていた?
鏡華はいつの間にか自分の中に浮かんでいた一つの疑問に、その疑問を抱く事そのものが間違いだと言わんばかりに内心でかぶりを振った。
(お前は私の事をどう思っているんだ。なんて、どうしてそんな事思ったんだ。別に鶴来にどう思われてようが俺が気にする話じゃないのに)
一人悶々と考える鏡華に、鶴来が再び話しかけてきた。
「そっか……なぁ、そういえば兄ちゃんの方はどうしてるんだ?」
「え?ああ、兄……あ、そういえばそういう設定だったな……」
「?」
「いや、なんでもない。兄、兄な……まぁなんというか、元気だ」
嘘は言っていない。が、丸っきり真実を話している訳でも無い。
鏡華はその事実に何故か一瞬、胸に疼きの様な物を感じた。
「ふーん、それじゃあそのうち帰ってくんのかな」
「……帰ってきて欲しいのか?」
「そりゃ勿論、ライバルが居ないとなんていうの?やっぱ日々の張りが足りないよな!」
「そうか……」
また、胸が疼く。同時に思った。
もし、『竜胆鏡夜』が帰ってくる代わりに『竜胆鏡華』が消える事を知ったら、彼は何て言うだろう。
「……なぁ、鶴来」
「ん?」
「……いや、なんでもない。ほら、そろそろ行ってこい。私も食べたら行くから」
聞いたってどうしようも無いし、聞く意味も無い疑問。そもそもそれを聞こうとした自分の意図すら分からなかった。
だからその疑問を胸にしまい、もう話は終わりだといわんばかりに鏡華は再びカキ氷に手をつけ始めた。
「……そっか。それじゃあ俺は先に行くから、ゆっくり食べてこいよ」
「ん」
鏡華のどこか不明瞭な態度に何か言いたそうに間を空けた鶴来だったが、しかし結局何も問わず皆のところに走り出した。
それを見送ってから鏡華は一人呟く。
「はぁ……なんなんだろうな、本当に」
先程から自分自身に対してどうも煮え切らないものを胸の中に感じる。
「まぁ、考えるのは後でも良いか……とりあえず今はこんな時だし、楽しむ事に専念――ッ!?」
ぞくりと、背筋に走る悪寒。
鏡華が思わず振り向いた先にあったのは、ここ最近見ることすら無かった――。
「え、まさか反転世界への、あっ……!」
現実世界と反転世界。
鏡華の目の前に空いた彼我の世界を繋ぐ『裂け目』から、誰かの腕が伸びてきた。
何故裂け目がこんなところに。と、考える間も与えられぬうちに裂け目から伸びた手は鏡華の腕をむんずと掴んで、彼女の小さな体躯を裂け目の中へと強引に引きずりこんだ。
「こ、このアマ二人がかりでも取り押さえられねぇ!」
「くっ、この大観衆に恥ずかしい姿を晒してやろうと思ったのになんて手ごわい……!」
「むしろ二人はなんでそんなしぶといの……!ってあ、鶴来君お帰りー」
「あ、帰ってきた。でもあんたにゃ興味無いのよ、鏡華ちゃんどこよ鏡華ちゃんは」
「あいつならまだカキ氷食って……ってあれ?」
鶴来が鏡華のいるはずの方を向くが、視線の先で立っているビーチパラソルの陰に鏡華の姿は無い。
何処に言ったのだろうと首を傾げる鶴来のポケットから、唐突にスマホの着信音が鳴った。
防水仕様という事もあり海パンに入れておいたそれを取り出して画面を見ると、表示されていたのは『仕事場』の文字。
鶴来は慌ててみんなから距離を取り、電話に出る。
電話の相手は『仕事場』――つまり、RWG巻波支部だった。
「はいもしもし、鶴来ですけど……なんかあったんすか?」
『今鶴来さん巻波市の海岸いますよね、もしかして遊びに行ってたりしてます?沙由さんも一緒に』
「はい、そうっすけど……」
電話から聞き覚えのある女性の声がした。
巻波支部には所属するブレイカーの戦闘任務等を支部の基地からサポートする『オペレーター』と呼ばれる役職がある。
鶴来の記憶によれば電話越しの彼女もその一員だったはずだ。
そのオペレーターの彼女は申し訳無さそうなニュアンスを感じさせる声音で話を続ける。
『ちょっと悪いんですけど、二人でそっちの反転世界に行って少し調べ物してくれません?その分の給料は残業代として支払われる予定なので』
「調べ物?」
『そうそう、ほらあったじゃないですか。この前私が話した例の『妙な反応』の件。あれが丁度今そこの海岸周辺で観測されたのですが、丁度よく鶴来君たちがいるものですから』
「『妙な反応』……」
電話越しに聞くその単語に鶴来は覚えがあった。
それはつい数日前の事。
『妙な……反応、ですか?』
RWG巻波支部地下1階に存在し、反転世界の監視やブレイカー達のサポートを行う『オペレーションルーム』。
そこで鶴来はオペレーターである女性職員の一人から妙な話を聞いていた。
『そうなんですよ。波長そのものはディザイアのそれと似てはいるんですが全く同じとは言い難く……。しかもその反応はたまに巻波市の何処かに唐突に現れたあと、しばらくしたらこれまた唐突に消えちゃうんですよ。正に反転世界から突然存在が消えた様な感じで、言ってみればブレイカーが現実世界に戻る時と同じ様なもんですかね』
オペレーションルームでは巻波市のほぼ全域の反転世界を監視しており、ディザイアの出現等は『波長』としてそれを探知出来る。
だが今回探知出来たその波長は、ディザイアの物に類似はしているものの波長そのものも、その挙動も何処かディザイアのそれとは違うものだった。
『ディザイアの様な反応だけど、ブレイカーの様な動きをする……って事っすか?また何ていうか……』
『まぁ、そういう感じですかね。今のところ原因が分かっていませんし計測機器の誤作動という線も拭いきれませんが、しかし何かあるかもしれないのでとりあえずはそういう事があったという事だけでも、頭にとどめて置いてください』
当時は大して気にも留めなかった出来事が、今は何故だか頭を離れない。
まだ年若くも少なくとも自分よりかは年配のはずなのにご丁寧に敬語で話す物腰の低い職員の、腑に落ちてなさそうな表情までも思い出す鶴来。
「妙な反応……失踪事件……?」
彼は関係の無い様に見える二つの点と点に、直感的な繋がりを感じた。
まさか、とは思うが同時にもしかして、という嫌な予感も頭を過ぎる。
『鶴来さん?どうかしまし――』
急がなければいけない。何と無くそう思った。
鶴来はまだ通話中にも関わらず、携帯を耳から離してポケットに突っ込みながら急いで走り出した。
向かう先は勿論、先程まで鏡華が休んでいたはずのビーチパラソルの陰。
「あ、ちょっと鶴来!?」
驚くこのみの声を置き去りにして、鶴来は砂浜の上を駆けていく。
しかしパラソルの下に駆けつけた鶴来が見た物は、砂浜に転がっている中身の零れたカキ氷だけだった。
「っ……!」
今度はただの直感とは違う、点と点が結ばれて一本の線になった。そんな確信。
事の真偽は行けば分かる、そう言わんばかりに鶴来は一直線に物陰へと走り出した。
「あいつ、急に走りだしてどうしたんだ?」
「思春期にはよくあることよ、ねえ沙由……ってあれ?沙由もいないし」
「何それ怖い。てか鏡華も戻ってこないな」
「まだあっちに居るんじゃないの?……ってあれ、居ないっぽい?」
「何それ怖い。どいつもこいつも思春期だなぁ!」
「いたっ……」
引きずり込まれた後、一瞬叩きつけられたような痛みが体中に響き鏡華は呻いた。
「ようおじょーおさん、気分はどうだい?」
「お前は……誰だ……!」
鏡華が目を開けて起き上がり、声のほうへと振り向くと、そこに立っていたのはニタニタと下卑た笑みを浮かべている高校生くらいの少年だった。
やせ気味の体躯と碌に手入れのされていなさそうなぼさぼさの茶髪だけ見れば無気力そうな印象を与えるが、しかし瞳だけが妙に爛々とした活気を帯びておりそれが今の彼の表情と相まって、何処と無くちぐはぐで不気味な印象を与える。
「俺が誰かだなんてどうだっていいだろう?なぁ、竜胆鏡華さんよぉ」
「なっ……なんでこいつ私の名前を……がっ!」
全くもって見知らぬその少年が自身の名前を呼んだ事に驚くのもつかの間。
鏡華は首根っこを捕まれて再び床へと叩きつけられた上に、その体を少年に跨れる形で押さえつけられた。
「このっ、離せ!」
鏡華は少年の拘束から逃れようと声を上げながらもがくが、少年に左手一本で右肩を押さえつけられて体を地面に縫いとめられてしまう。
「生憎だがそうはいかない、アンタに恨みは無いがちょっと頼まれててな」
「頼まれて……?誰にだ……!」
「教えるわきゃねーだろ。それよりもお前、実物で見てもやっぱ結構可愛いじゃねぇか。こりゃ俺にとっても得だったかもなぁ……」
「っ……こいつ……!」
全身を舐めまわす少年の視線に、嫌な悪寒が背筋を駆け抜ける。
しかしその不快感の中でも、鏡華は少年の表情から見て取れる大きな油断を見逃さなかった。
(不恰好なやり方だが……)
肩が押さえられても腕は動く。
肩を押さえつける左腕に自身の右手を絡ませる。
「ん?何を――」
腕力で負ける事は無いと確信しているのか、大して警戒もせずに間の抜けた声を上げる少年。
その様子を見た鏡華は少年の警戒心が強まる前に、一気に爪を立てて彼の腕に力一杯喰い込ませた。
「いってぇ!」
血が滲むほどに深く刺さった爪に少年が叫びを上げる。
それと同時に鏡華への拘束が緩んだ。
(今だ!)
鏡華はその隙を見逃さず、力任せに少年の拘束を振りほどくと急いで彼から距離を取ってから向き合った。
「てめぇ……人が優しくしてやれば付け上がりやがってこのクソアマが!」
「人をいきなり拉致して馬乗りするどこが優しいんだ!大体お前は一体――」
鏡華はそれ以上言葉を発することが出来なかった。その代わりに浮かび上がったのは驚愕の表情だ。
その理由は至極単純。
少年の右手首の辺りから、彼の右手を覆い隠すかの様に『何か』が生えてきたからだ。
「なんだ……セイバー?いや、違う……」
ごきごきと、間接を鳴らしたときの音を大音量にした様な不気味な音を空間に響かせながら、『何か』は体積を膨れ上がらせる。
ポリゴン調の角ばったデザインはセイバーのものに似てるが、無機質な灰色の表面がまるで心臓の鼓動の如く脈打つ姿に、鏡華はあるものを連想した。
(そうだ。あれはどちらかと言うと――)
鏡華が思う間に少年の手を覆い隠した『何か』は少年の手をなぞる様な、しかし五指が妙に長く細い不気味な形になったところで漸く膨張を止めた。
「ちょーっと、お仕置きしてやるよ!」
少年が腕を振りかざすと彼の『何か』が、新たな五指が横一列に揃って鏡華に向かって真っ直ぐ伸びてきた。
しかし鏡華はそれを右に転がって回避する。
(伊達に毎日走ってるわけじゃない!筋トレとかも少しずつやってきたしな!)
体力の無いこの体だろうと出来る事はやっていたつもりだが、どうやらその努力は無駄にならなかったらしい。
「ちっ、ちょこまかと!」
少年は舌打ちしながらも、今度は指を揃えて伸ばしたまま右になぎ払う。
しかし鏡華は自身に向かってきたそれにあえて自分から向かっていき、小さい体躯を生かして指の下に潜って回避。
(これなら……!)
その後も無造作に振り回される五指を何とか躱しながら、鏡華は考える。
相手は得体のしれない力を使うが、しかし本人の戦闘技術そのものは素人のそれだと言う事は今こうやって相対して理解した。
挙動は見切りやすく速度もそこまで無いので回避そのものは難しくない、ならば問題は非力な自分がいかにして彼を取り押さえるか。
と、鏡華が相手の力を見切った事で余裕を持ち、僅かに思考がそれたとほぼ同時にそれは起こった。
少年の五指が不意に中ほどで折れ曲がると鏡華に向かって更に伸びてきたのだ。
「なっ……危なっ!」
いきなり新たな挙動を見せた『何か』を鏡華は間一髪のところで跳躍して回避したが、そのせいでバランスが崩れてこけてしまった。
そのチャンスを見逃すまいと『何か』は再び、そして幾度と無く折れ曲がりジグザグの軌道を描きながら鏡華を追尾する。
「おらぁ!俺様に逆らった罰だ!」
「まずい……!」
鏡華が立ち上がるよりも先に、『何か』は鏡華に追いつくだろう。
伸びたそれに絡み取られるのか、それともその鋭い先端に貫かれるのか。
嫌なビジョンが鏡華の頭を掠めるが、しかし彼女の予想は思いもよらぬ形で外れることとなる。
突如二人の間に割り込む影。
モノクロの砂埃を巻き上げながらその影は『何か』を弾いて、鏡華を守る様に彼女の眼前に立ちはだかった。
突然の闖入者に少年は声を荒げて怒りを示す。
「なっ……誰だ俺の邪魔をしたのは!」
「誰だか知らないけど助かっ――え?」
鏡華は闖入者の後姿を見て思わず困惑してしまった。
ツーサイドアップにした黒髪も、しなやかで女性特有の丸みを帯びた肢体も、ワンピースタイプの水着だって、既視感どころでは無い見覚えがある。
しかも物凄い最近。
「まさか……」
鏡華の呟きと同時、闖入者が振り返る。
その姿は鏡華の予想した通りだったが、しかし彼女がここにいるという事実そのものが鏡華にとっては『まさか』の出来事であり、故に鏡華は絶句という反応しか出来なかった。
「ふぅ、なんとか間に合ったみたいだね。鏡華ちゃん」
目を見開いて驚愕の表情を浮かべる鏡華の視線の先では鶴来の、今では鏡華の友人でもある戸崎沙由が、クリアグリーンの色をした槍型のセイバーを携えて安堵の笑みを鏡華に向けながら立っていたのだった。
【今日の戯言コーナー】
今回は上手く切れるタイミングが無かったのでいつもよりも分量多めでお送りしてござい。
それはそれとして海編、もうちょい続きます。




