第14話 はじめてのどうきょせいかつその2:走れ走れ!
何故あんな安い挑発に乗ってしまったのだろうか、つい一分程前の自分を全力で殴りたい。
少しずつ冷えてきた頭でそんな事を思いながらも、公園の入り口で鏡華は軽く屈伸をして体を解していた。
その横で鶴来が腕を十字に交差してぐっと伸ばしながら、鏡華に向かって話しかける。
「それじゃあもう一度確認するぞ?ルールは簡単、こっからウチまで早く着いた方が勝ちだ。あ、勿論ウチって言うのは俺んちじゃなくてお前んちだからな?今俺はそっち住んでるんだし」
「そんな事は言われなくても分かるわ阿呆。それよりも、本当にルールはそれだけでいいんだろうな?」
「?そりゃあこれ以上決めるもんも無いしなぁ……あ、もしかしてハンデ――」
「いるか!さっさと始めるぞ!」
怒りの声を上げながら道路に出る鏡華を追いかける様に鶴来も同じく道路に出て、鏡華の左に並ぶ。
拳と掌を合わせてパシンッと打ち鳴らした、いかにもやる気十分な鶴来を横目に鏡華はこの勝負への思考を巡らせていた。
(……悔しいが今の私では奴との身体能力の差が大きすぎる。さてどうするか……大体、本気を出せる元の体なら兎も角こんな仮初の物とも言える体で勝負なんてした所で何にもならないのだから、ムキになる必要も無ければ別に適当に負けてもいいんだがな。ただまぁ、鶴来が調子に乗っているのは腹が立つ。……兎に角、勝てば良いんだ。そう、勝てば――)
その決意と共に、鏡華の目に暗く怪しい光が点る。
そして鏡華はほんの少し、鶴来が不自然に思わない程度の僅かな間で作戦を立てると、威勢良く肩を回している鶴来に一つ問いかけた。
「おい赤金、勝負とそのルールを持ちかけてきたのはお前の方だ。開始の合図ぐらいはこちらでやらせてもらうぞ」
「ああいいぜ、というか元からそのつもりだったし。そっちの方が公平だからな」
鶴来の返答を聞いた直後、鏡華は彼から軽く顔を背けひっそりとほくそ笑む。
後に分かる事だが、実は彼女にとっての『勝負』は、既にここから始まっていたと言っても良かった。
「それでは始めるか。『よーい、ドン』が開始の合図でいいな」
「問題無いぜ、言っとくけど手加減はしないからな。お前もそっちの方がいいだろ?」
「……ああ、そうだな。その言葉を聞けて安心した、なんせ後で『手加減していたから勝てなかった』等という見苦しい言い訳を聞かずにすむからな」
体格差は一目瞭然だと言うのに一体何処からそんな自信が出てくるのか、強気な挑発を投げる鏡華。
しかし鶴来は動じないどころか『それが良い』と言わんばかりに好戦的な笑顔を見せた。
「へへっ、そういうノリは嫌いじゃあないぜ」
「ふん、言ってろ。それでは行くぞ、位置について――」
その鏡華の言葉を合図に、鶴来は腰を低めに落として右足をぐっと前に出した。それは一般的な、よくあるスタート前の体勢である。
一方、鏡華はあまり腰を落とさず右足も軽くしか前に置かない。まるで普通に立っている様にも見える、そんなスタートダッシュには若干の不安が残る体勢を何故かしていた。
鶴来は鏡華の体勢に一瞬違和感を覚えるが、しかしコースの奥をじっと見つめている彼女の目を見て彼女が本気である事を理解すると、思考を止めて勝負開始の合図を聞き逃さない様に集中しはじめる。
「よぉーい――」
鏡華の言葉が一瞬だけ途切れ、空白の時間が僅かに訪れる。
そして。
「ドンッ!」
ついに勝負の火蓋は切って落とされた。
鶴来は合図とほぼ同時に思い切り足を踏み出す。
「え――?」
次の瞬間、彼の視界は適当に放り投げられたボールの様にふわりと浮かび上がった後、すぐに地面へと落ちていった。
(上手くいった!)
鏡華は鶴来の両足が無防備に宙へと浮きあがり、彼の体が前のめりに倒れていくのを目にして、自分の作戦の成功を確信した。
そう。鏡華はスタートと同時に鶴来の右足に自身の左足をぶつけてそのまま掬い上げる、所謂足払いをしかけていた。彼女はスタート前からずっとそれを、それだけを狙いつづけていたのだ。
あのスタートダッシュに不向きな体勢はあまり左足を動かさず、つまりタイムロスを減らし足払いの成功率を上げるため。
自身に合図を取らせるよう仕向けたのはタイミングを図りやすくする為。
そしてそれらの成果として鶴来は今、アスファルトで舗装された地面に顔面からダイブしようとしている。
本当は派手にこけるのを見届けたいところだが、今は少しでも差を離す事が先決。
故に鏡華は宙に浮く鶴来から目を離して前を向きなおすと、全速力で走り出しながら大声で笑い出した。
「ははははは残念だったな赤金ぇ!ルールに『妨害無し』と付け加えなかったのがお前の敗因だ!せいぜいそこで無様に這いつくばっているんだなぁ!」
いつもの真面目な鏡華だったらいざ知らず、今は堪忍袋の緒が切れた鏡華だ。
振り切れた人間はいつだって手段を選ばない。
既に勝利した気分になっている彼女は、スポーツマンシップを溝に捨てるどころかねじ込む様な発言を、鶴来が聞こえていようがいまいが知ったことかという勢いで叫びながら我が家に向かって爆走するのだった。
「お前さぁ……何ていうか……」
「うる……さ……はーっ、はーっ」
喋る気力すら失せ、断続的に息を吐きながらふらふらと足を引きずって歩く鏡華の横では鶴来が苦笑しながら、しかし体力の方にはまだまだ余裕の有りそうな様子で歩いている。
既にもりびと荘は、そんな二人の目と鼻の先にあった。
「ほら頑張れー、もう少しだからなー」
「だ……まれ……はぁ、はぁ……」
もはや勝負を完全に放棄して付き添う鶴来を払いのける事すら出来ない。
あの時――勝負が始まった瞬間、鏡華の作戦そのものは確かに成功していた。
しかし彼女は忘れていたのだ。そもそも今の自分があの近所の公園からもりびと荘まで走りきる程の体力すら無かった事を。
全快からでもあの公園にたどり着くまでには命からがらといった様相だったのに、そこから短時間の休憩しか出来なかった先程の状態でもりびと荘まで走ってたどり着く事など出来るわけが無い。
しかも鏡華はあの時兎に角差を広げようと、ペース配分を考えない全力を出していた。
鏡華のペースが走り始めてから30秒もしないうちに加速度的に落ちてきても、それは仕方の無い話と言うものである。
果たして鏡華の走りが歩みに変わり、鶴来が後ろから追いついてきたのは、勝負開始から2分も経過していない程に短い時が過ぎた頃だった。
ちなみにその鶴来。
満身創痍の鏡華はその事実にすら気づけないが、彼はこけたはずなのに何故か服にも体にも傷一つ見当たらない。
実は鶴来が鏡華の視線を外れた瞬間、彼は近づく地面に向かってしかと両腕をついてそのまま体を丸め、見事な前転を決めてみせていたのだ。
相変わらず身体能力だけは半端無い男である。
「はっ……はっ……」
「よーし良く頑張ったなー……マジで大丈夫か?階段上がれるか?」
もりびと荘に本当に何とかついた鏡華はようやく立ち止まると、膝を両手で押さえ軽く屈み、肩で息を繰り返しだした。
その様子を見かねて鶴来が心配そうに言葉をかけながら手を差し伸べようとするが、どうにかほんの僅かには気力が回復したのかひょろひょろとした動作ではあるが、ぺしりと腕で鶴来の手をはじいてまた先程と同じ体勢で息を整えようとする。
(なんつうか、本当に意地っ張りだなぁ)
一人でここまで歩き、今も尚頑なに自分を頼ろうとしない鏡華に、鶴来はそんな感想と若干の微笑ましさを抱いた。
『別に。お前には関係ないだろう、私はもう帰る』
あの時はいつもの様に自分を嫌っているだけかと思った。
『掴むなうっとおしい!』
でもなんとなく、彼女が落ち込んでいるというか、兎に角いつもとは少し違う気がした。
『なんかよく分かんないけど、家に帰るなら――勝負しようぜ!』
でも自分にはその原因が分からないからとりあえず彼女の、鏡華の気を少しでも紛らわせられるかと思ってそんな事を言ってみたが、結果的には悪くない方向に転がった気がする。
少なくとも、こちらの足を引っ掛けていった時やさっき手を払った時の鏡華は、いつも通りの彼女だった……と思う。
「……ま、やり方はちょっとアレだった気もするけど、でも自分の持てる全力で勝とうっていう考えは良いと思うぞ」
普通ならば怒るところなのかもしれないが、いつもの鏡華に戻ったのが何だか嬉しくてついそんな言葉をかけてしまった。
しかし鏡華からの反応は無く、彼女は未だに疲弊した様子で顔を俯かせている。
それにしても、鏡華の負けず嫌いは筋金入りらしい。
挑発したら乗るんじゃないかとは思っていたが、まさかあそこまでやるとは。
自分も大概負けず嫌いだとは思うが、彼女のはそれ以上かもしれない。
鏡華になんとなく親近感を抱いた鶴来は、息が整い始め漸く回復の兆しを見せてきた彼女に優しげな表情をして言った。
「ま、とりあえず家に着いたのは一応二人同時だし――」
『今回の勝負は無効だな』と、そう続けようとした鶴来だったが彼は一つ、勘違いをしていた。
鏡華の中ではまだ勝負が終わっていなかったという事に、彼は気づいてなかったのだ。
鶴来の言葉を最後まで聞かず、突然走り出した鏡華。
鶴来は何事かと思いながら振り返り彼女を視線で追うが、そうしている間にも鏡華は持てる全体力を振り絞ってもりびと荘の階段を駆け上がり202号室の、竜胆家の前までたどり着くとズボンのポケットから乱暴に鍵を取り出し玄関の扉を開けた。
そしてそれを開け放つと、未だぽかんと突っ立っている鶴来に向かって指を差しながら、早朝だと言うのに他の部屋の住民や近所には一切配慮しない大声で叫んだ。
「あくまでそこは家の手前!だから今家に着いた私の勝ちだ!分かったらこれからでかい口叩くなよバーカ!!」
そう言って鏡華はバンッ!と思い切り扉を閉めた。
もりびと荘の目の前、鏡華曰く家の手前で一人置いていかれた鶴来。
だが彼は悔しがるわけでも無く憤るわけでも無く、ただ少し困った様な表情で頭を掻いてから一息吐くと、ニッと歯を見せる笑みを浮かべた。
「次は絶対、負けないからな」
所変わって、竜胆家の洗面所。
本人曰く鶴来との勝負に勝利して帰宅した鏡華は、掻きに掻いた汗を流すべく服を脱いでいる最中だった。
汗の染みこんだTシャツを脱いで洗濯機に放り、その後脱いだハーフパンツは洗濯機の隣に置いてある洗濯籠へと突っ込む。わざわざ別の所に洗濯物を入れたのはそれぞれ分けて洗う為だ。
ちなみに竜胆家では色のついていないTシャツは基本的にはタオル類等と一緒に洗っており、今洗濯機には昨日消費したそれらの類も入っていた。
上は上から被るタイプで簡素な黒色のスポーツブラ、下も柄無しの黒いパンツという黒一色の地味な下着姿になった鏡華はふと部屋に備え付けられていた、自分の姿が映る姿見を視界に入れてしまったもののすぐに目を逸らした。
女性の姿になって大体3日目だが、自分の裸だというのに別人の裸を見ているみたいで中々慣れる事が出来ない。
その為風呂に入る時等全裸になる時は、今の様につい自分の裸を見ない様にしてしまうのだ。
そんな訳で鏡華は正面、浴室と洗面所を仕切る折戸へと裸を見ない様に視線を固定しつつ何とか下着を脱いで、これも間違いなく汗で汚れてしまったので洗濯籠へと放り込む。
そうして裸になった鏡華は浴室への折戸を開けるが、その時髪留めをまだ解いていない事に気づき、無造作にそれを解いた。
今度こそ浴室へと足を踏み入れた鏡華は、真っ先にシャワーの湯を出すと湯の温度を温めに調節して、少し待った後に手で湯に触れて狙った温度になっている事を確かめる。
ちゃんと温度調節が効いた事を確認し終えた後、シャワーの湯を頭から被りその心地良い温度と落ちてくる湯の感触の中で、ようやく鏡華はほっと一息ついた。
「ふぅ……全く、あの馬鹿のせいで汗だくになってしまったじゃないか」
鶴来との勝負に付き合った鏡華はいつもの時を、つまり男の体で毎朝走っていた時を遥かに超える多量の汗を掻いてしまっていた。とは言えそもそも一人で走って満身創痍になっていた時点で既に結構汗だくだったので、本当は別に鶴来だけのせいというわけでも無いのだが。
「大体アイツも朝走っているなんて聞いていないぞ、全く朝っぱらから無駄に元気な奴め。それに――」
鏡華はシャワーを浴びながら、思い切り自分の事を棚に上げつつ鶴来への愚痴をぶちぶちと零す。
しかししばらくするとふっ、と口元に笑みを浮かべた。
「まぁ結局勝負は俺の勝ちだったがな!ざまぁみろバーカ!」
鏡華の自慢げな大声が一瞬浴室中に反響した後、ざぁぁ……とシャワーから出るぬるま湯の音だけが浴室に響き渡る。
何故だか急に頭が冷えてきた鏡華は、顔を俯き気味にして誰もいないのに言い訳がましく一人呟き始めた。
「……い、いや別にルールに反しているわけじゃないし。まぁ確かに褒められるやり方では無いがでも今の体力差を考えればむしろあっちの方が正攻法と言えなくも無いし……」
その後鏡華はひとしきり呟くと、急にがばりと顔を上げ頭をがーっと掻き毟って叫んだ。
「あーもう!例え多少アレでも勝ちは勝ちだ!大体あの馬鹿との勝負なんかで何をいちいち悩んでるんだ俺は!」
そう叫び終わった後、鏡華はまたも意気消沈して首をがくりと落とした。
朝からテンションの浮き沈みが激しい少年、いや少女である。
「……はぁ、明日から走る度にあいつと会うかもしれないのか。面倒くさいな……」
ため息をついてそう言った時に鏡華はふと気づいた。
はて、自分はもう走るのを止めようとしていなかったか。
しかし今、あの時に感じた鬱屈としたものはもう心の中に感じない。
ただ単に思い切り走ったせいなのか、それともあの馬鹿への苛立ちが代わりに埋め尽くしたのかは自分でも分からない。
だがその事を自覚した瞬間、あれだけああだこうだと悩んでいたのが馬鹿らしく思えてきたのは確かだった。
別に、鍛えることにならなくても健康のためにはなるから走ることに意味が無いわけではないし。
それに、女になったからといって日々の習慣を変えるのは何か嫌だ。
何よりも――。
「ええい!あいつがいるからって走るのを止めたりルートを変えるなんてやってたまるか!」
自分の中にある対抗心がそう叫んでいた。
故に鏡華は決めた。とりあえずこれからも、出来る限りいつも通りの道でいつも通り毎朝走り続けようと。
そしてその直後不意に、鶴来が挑発してきた時の事を思い出し、更にその事に関する『ある仮定』を思いついた。
「……まさかあいつ、俺が悩んでいるのを知って気を紛らわせる為に挑発してきたとか……?」
鶴来は間違い無く馬鹿だが、しかしむやみやたらにあのような挑発は仕掛けないはずだ。だが現にそれをやってきたわけで。
少し考え込んだ後、鏡華はふっと軽く息を吐き出し微笑んだ。
「ま、あいつは馬鹿だしそんな気遣いが出来るとは思わないが……とは言えほんの少しはあいつのおかげで前向きになれた部分もまぁ無きにしも非ずだし、鏡ぐらいはもう少し優しくしてやっても良いかな……」
その後ひとしきり汗を流して心も体もさっぱりした鏡華は、意気揚々と風呂の折戸を開けた。
――用を足し終わった鶴来が、洗面所で手を洗っていたのを知らずに。
「あっ……きょ、鏡華!?」
「は……?」
予想外の出くわし方で呆けた鏡華の視界の先では、鶴来が物音に振り返りその視界の先にあるもの、つまり鏡華を見て顔を赤くしこれ以上見ない様にと目をつぶりだした。
「……っ――!」
鏡華の方も現状に気づくと鶴来の様に、いや鶴来以上に顔を真っ赤に染めた羞恥の表情を浮かべて咄嗟に胸を左手で隠す。
「ち、違うんだ!確かにシャワー浴びてたのは知ってたけど別に覗こうなんて思って無くて!」
目を閉じたまま慌てて弁解する鶴来だが、その右手は何故か鼻を押さえており実に情けない姿になっていた。
そんな彼の耳に、怒りに震えた鏡華の声が届く。
「ノックとか、声をかけるとか……」
「えっ、あっいやそれも思ったんだけどまぁ少しだし大丈夫かなと――」
鏡華が空いた右手で、足元においてあったプラスチック製の風呂桶を掴む。
そんな彼女の耳に、必死に言い訳をする鶴来の声は届かない。
「ぜんっぜん大丈夫じゃなかっただろうがっこの馬鹿ー!!」
鏡華全力の叫びと共にパカーンッ!と、すがすがしい打撃音が竜胆家中に響き渡った。
【今日の戯言コーナー】
オチに困った時はとりあえずラッキースケベ発動させときゃ良いってじっちゃんが。




