第13話 はじめてのどうきょせいかつその1:目覚めの朝
ピピピピ……。
デジタル式の時計から、淡白な電子音によるアラームが鳴り響く。
時計の表示は『AM5:00』。夏である為に既に日は昇っているが、しかしまだ多くの人が夢にまどろむ時間帯である。
「ん、んん……うー」
薄手のTシャツに同じく薄手の半ズボンという色気の欠片も無い寝巻きを纏い、夏用の薄い掛け布団を被って綺麗な寝相で仰向けに寝ていた黒髪の少女は、いかにも眠そうな唸りを上げながら回転。うつ伏せに体勢を変えようとするも、その小柄な体格にしては豊満とも言える胸が邪魔をして若干斜めに傾いた所で止まってしまう。
「むぇ」
胸が自らの体に押しつぶされた瞬間、妙な声が少女の口から漏れた。
「……うー……」
しかし少女はそれ以上胸を気にする様子は見せず、すぐに先程と同じ様な眠たげな唸りを上げながら、右手を伸ばして何も無い床をペシペシと叩き始めた。
未だピピピピ……とアラームが鳴り続ける中、少女の手が右往左往しつつペシペシペシペシと床を叩き続ける。
その様子を見るに少女はどうやらアラームの原因である時計を探しているらしい。
そうして少女の手がさ迷い続ける事30秒程。
ついに彼女の手が時計の、その上部に出っ張っているスイッチを捉えた。
カチャッ、カタンッ。
スイッチの押される音と共にアラームが止まり、更に力加減がされていない平手を受けたせいで時計が傾き倒れた。
しかしアラームを止めた直後、しばらく少女の動きが止まった。
まさかの二度寝かと思われかねない硬直ぶりだったが、どうやら睡魔の誘惑には打ち勝ったらしく、しばらくすると緩慢な動作ではあるが何とか上半身を持ち上げてその場に胡坐をかいて座り込んだ。
「うーん……!」
そのまま両手を組み合わせてぐいっと上に持ち上げて体全体を伸ばし、ほぐす。
「はぁっ」
そして両手を解いて伸びきった体を開放すれば、思わず漏れた短い息と共に全身が軽く弛緩した。
「……ああ、そうか」
ようやく意識が鮮明になった少女は、周りの景色がいつもの寝起きに見るそれと違うことに気づく。
白1色の壁紙はいつもと変わらないが、見栄えを意識していると思わしき家具の配置や配色は明らかに、その手の感性に乏しい自分では実現し得ないものであり、そんな自らの乏しい感性が反映されてしまっているシンプルで無機質な自分の部屋とは一線を画す代物である事が一目で分かった。
他にもアロマ等の小洒落た、なおかつ可愛らしい小物が置かれているところなんかも、その手の物をほぼ一切置いていない自分の部屋と大きく違う。
少女は部屋を見渡して――いや、見渡さずとも一目で分かった。
……いや、これも正確には違う。正しく言うならば『思い出した』だ。
「そういえば、今日からきららさんの部屋で寝ていたんだ……」
少女の――竜胆鏡夜もとい竜胆鏡華の言う通り、彼女が寝ていたのは義母である竜胆きららの部屋だった。
そしてそれが何を意味するのかと言うと――。
「というか……そうだ、『あいつ』も今うちに居るんだった……」
『あいつ』とは、勿論赤金鶴来の事である。
そう、今日は赤金鶴来と同居を開始してから、初めての朝なのだ。
きららの部屋で寝ていた事のついでににその事実も思い出してしまい、鏡華の首ががくりと項垂れた。
現実逃避の為に二度寝を決行しようかと一瞬思った鏡華だったが、しかし彼女は意を決したかの様に再び顔を上げる。
「まぁ良いと言ってしまったものは仕方の無い事だし、とりあえず起きよう!そう、言ったものは……」
その時、鏡華の脳裏に昨日の出来事が、そしてその時に彼女が口にしたある一つのワードが蘇った。
『――今回だけは、お前の夢に協力してやる!分かったら感謝しろ、赤金鶴来!』
「~~~~!」
脳内で思わずそのこっ恥ずかしい台詞を再生してしまった鏡華は、上げたはずの顔を今度は布団に埋める事となったのだった。
ひとしきり悶えた後、気を取り直して立ち上がった鏡華は己を奮い立たせるかの様に勢い良くカーテンを開き日の光を浴びると、寝巻きから着替える為に部屋に備え付けられているクローゼットを開いて一瞥。
本来の部屋の主であるきららの衣類と、この前Gオンで購入した鏡華の衣類が収納されているそれを見て、しかし鏡華はまたもやがくりと項垂れた。
「そういえばこの体に合うジャージは無いのか……この前買っておけば良かった……」
ため息を吐きながら悲しそうに呟く鏡華。
彼女は以前から――男だった頃から健康と鍛錬の為に、毎朝起きてすぐに近所を軽くランニングするという習慣をつけていた。
そしてその際はいつも運動に適した服装であるジャージに着替えており、それ故に今日も同じ様に着替えようとしたのだが、考えてみれば今の体に男の時の服が大きすぎるという事は、その服を無理矢理着てきららとGオンに行った際に証明済みだ。
ならば自分がかつて愛用していたジャージのサイズが合わないのも当然の話、着用せずとも予想できる事である。
男の時の体格も同年代の男子に比べると小さめだったが、それに輪をかけて今の体は小さい。
Gオンの件の様に無理矢理なら着れない事も無いのだろうが、運動性の高さを求めて着るはずの服を無理矢理着て運動性を落とすのは、正しく本末転倒と言うものだろう。
「仕方ない……」
鏡華が少しの思案を経て手に取ったのは、彼女が今着ている寝巻きに似た薄い生地の白いTシャツと、通気性の良さげな膝下丈のハーフパンツだった。
「……まぁ、これならまだマシだろう。早朝とは言え夏だから寒くは無いしな」
鏡華はそう言って手に持った服を一旦床に放り、今着ているTシャツの裾に手をかけた。
着替え終えた後、鏡華はすぐキッチンに向かうと口の粘り気をとる為のうがいを済ませてから水道水を一杯注ぎ、一気に飲み干した。
そしてすぐさま、もう用は終わったとばかりに玄関へと歩き出す。
リビングを出る前にその隣にある鏡夜の、現在は鶴来が使っている部屋。その今は閉じている扉をチラリと横目で窺うが、その奥から物音は聞こえず動く者の気配も感じられない。どうやら鶴来はまだ寝ているようだ。
「……まぁ、だからなんだというわけでも無いんだがな」
本当に何でも無い様にそう言って、鏡夜はリビングの扉を閉めた。
まだ日が昇ってからそこまで経っていない為に若干の薄暗さは残るものの、視界に問題は無い程度には明るく照らされた閑静な住宅地の片隅で、鏡華はこれ以上無いぐらいに息を切らし、生まれたての小鹿の様に足腰を震わせながらも何とか両の足で立っていた。
あくまでも電信柱にしがみ付いて、ではあるが。
「はぁっ、はぁっ……!な、なんだってこんなっ……けほっ、こほっ」
無理に喋ろうとして思わず咳き込んでしまった鏡華。
咳き込む動作に合わせ、自分で結んだ為にきららが結んでくれた時よりも若干不恰好なポニーテールが軽く飛び跳ねた。
足腰だけで無く肩まで震わせて頬も真っ赤に紅潮させている辺りは、まるで怒りや羞恥を感じている様に見えなくも無いが、しかし電柱柱を支えにする彼女のポーズともはや声を出すのも辛いレベルの呼吸に目を向ければ、それが満身創痍によるものである事が一目で分かるだろう。
しかしそれでも決して膝を屈さなかったのは、鏡華のプライドが彼女自身を支えたからかもしれない。
ちなみに今鏡華のいる位置は、普通の成人男性がもりびと荘から軽く走って3分もかからない場所である。
もう近所と言っても差し支えの無いレベルの近さなのだが、しかし鏡華はもりびと荘からそこまで走ってきただけでこんなにも疲弊してしまったのだ。
げに恐ろしきは今の肉体の貧弱っぷりである。
「はー、はー……ふぅ。……とりあえず、あそこまでは歩くか」
何はともあれ、鏡華は電信柱を支えに立ったまましばらく呼吸を整えると、未だ疲れの抜け切らぬ足を引きずってふらふらと何処かへと歩き出した。
鏡華がしばらく歩き続けて向かった先は、もりびと荘の近所にある何の変哲も無い小さな公園だった。
そこの水飲み場で、砂漠のオアシスを見つけた旅人の如き勢いで喉を鳴らして水を飲んだ鏡華は、同じく公園内に設置された小さなベンチに腰を下ろして一息ついた。
「ふぅ……まさかあそこまで体力が落ちているとは……まるで別人だな、これは……」
鏡華は悲しそうに肩を落としてそう呟いた。
いつものペースで走ったつもりだったのだが、それはあくまでも自分が男だった時のそれ。
基本的に体力、体格で男よりも劣る女という存在になってしまった上に、肉付きの良く無い体質なりに頑張って鍛えていたはずの筋肉も何故かすっきり消えうせてしまった今、そんなペースで走ったら疲れるのも当然と言えば当然かと今更ながら、自分の白く細くなってしまった細腕を眺めながら鏡華は思った。
「はー……しかしこういうのも、地味に堪えるものがあるな……」
そよぐ風に涼みながら、空を仰いでため息を吐く。
肉体が変わってしまった事での苦労や傷心は今までも幾度と無くあったが、それでもそうそう慣れるものでは無い。
(本当に、堪える……)
不意に空にかざしてみた掌は、実に小さく頼りない。
鍛錬と苦労を自分の魂と共に重ねたはずの肉体は今、自分の知らない、鍛錬と苦労の跡が一切見えない物に変わってしまった。
それに。
「ふっ……!……やはり無理、か」
魂と肉体と、そしてもう一つ、共に今まで戦ってきた相棒であるはずの対ディザイア用特殊武装『セイバー』も、未だ魂の中にその存在を感じる事が出来るものの、呼びかけに応じる事は未だ無い。
別にセイバーそのものに意思があるわけでは無いが、しかし魂に宿り所有者によって能力や姿形を変えるその武装に愛着を持つブレイカーは少なくない。
鏡華の様に長い間セイバーを扱っていた人間ならそれは尚更であり、事実彼女も自身のセイバーにそういった感情を抱いていた。
そんなセイバーは自分を見放したかの様に一切応えず、肉体はまるで別人の様になってしまった。
鏡華は急に虚しさを感じて、ベンチにぽてっと倒れこむ。
「はぁ……一体何やっているんだろうな、俺は」
ベンチの上で仰向けに寝転がり、再び空を見上げながら鏡華は自嘲した。
習慣だからと深く考えず走ってはみたが、こんな有様だ。
それに女になって体力が無くなったなら、男に戻ったら元に戻るかもしれない。
だったら男に戻ってから再開すれば良いじゃないか、別にこんな身体で辛い思いをしてまで続ける必要は無いだろう。
自分の心の底から、そんな考えがふつふつと湧き上がってくる。
何処か悪魔の囁きにも似たそれに鏡華が身を委ね、もう帰ろうかと思って起き上がろうとしたその時、空を見上げていた彼女の視界に一つの影がぬっと飛び出してきた。
「よっ、大丈夫か?」
「うわぁっ!なっ、なんだっ!……ってお前か、驚かせるな全く……って何故ここに!?」
「いや、そりゃこっちの台詞なんだけど……」
驚き飛び起きた鏡華の目の前で、そう言って頬を指でかきながら困ったような顔をしているのは赤みがかった茶髪が特徴の少年。
そう、鏡華の同居人である赤金鶴来だ。
その服装は、色やデザインこそ違えど大よそは鏡華と同じ薄手のTシャツに膝下丈のハーフパンツというシンプルな物だった。
どうやら先程鏡華の視界に飛び込んできた影は鶴来の頭だったらしい。
しかし鶴来はまだ寝ていたはずなのに本当に何故ここにいるのだろうか。
そんな鏡華の困惑を他所に鶴来は一人、合点がいったのを表す様に左手で握りこぶしを作り右掌を叩くというジェスチャーをして言った。
「あ、そうか。もしかして、お前も走りに来たのか?」
『お前も』という言葉で、鶴来が自分と同じ様に朝から近所を走っていたのだという事を鏡華はやっと理解した。
すっかり寝ていたものだと勘違いしていたが、どうやら自分より先に外に出ていたらしい。
言われてみれば、玄関で鶴来の靴は無かったような。
その事実を思い出して合点がいった鏡華は、自分の迂闊さに俯いて大きくため息を吐き、そしてちらりと鶴来を見やる。
「?」
その悩みの無いであろう、お気楽そうな面を見ていたら、鏡華に妙な怒りが込み上げて来た。
(こっちは散々頭抱えているのにそんな暢気な面引っさげて……!)
もはや八つ当たりとしか思えない怒りの感情と先程から感じていた虚しさが混ざり合って、言い様の無い黒い感情が鏡華の腹の中に溜まっていく。
鏡華は『お前の面なんてもう見ていられない』と言わんばかりに乱暴に立ち上がって鶴来からそっぽを向くと、一言吐き捨てる様に言った。
「別に。お前には関係ないだろう、私はもう帰る」
一方的に言うだけ言ってさっさと帰ろうと歩き出す鏡華。
しかしそんな彼女の肩を掴む手があった。鶴来の手だ。
「おいちょっと待てって鏡華」
「掴むなうっとおしい!」
振り返りながら腕を大きく振るい鶴来の手を払った鏡華は、再び踵を切って帰ろうとする。
鶴来はそれでも再び、いや今度は直接触れずに声だけで呼びかけてきた。
「なんかよく分かんないけど、家に帰るなら――勝負しようぜ!」
「いきなり何言っているんだお前は!」
唐突に勝負を持ちかけてきた鶴来に対して、鏡華は反射的に振り返りツッコミまで入れてしまった。
だが直後、つい振り返ってしまった自分にはっと気づいた鏡華はもう一度踵を返して三度帰ろうと歩き出すが、彼女の耳に尚も鶴来の声が聞こえてくる。
「――まぁしょうがないよな、お前と俺じゃ絶対に俺が勝つし。さすがに大人げなかったかなー?」
そのいかにもわざとらしい声色は、どう聞いても挑発目的のものでしかなかった。
もし普段の鏡華だったらそんな安い文句、右から左に流していただろう。いや、もしかしたら負けず嫌いの彼女の事。案外安いからこそ安く買ってしまうかもしれない。
とは言え今重要なのはそんな仮定の話では無く、鏡華が有体にかつ分かりやすく言えば『イラついている』と言う事実そのものだ。
そう、鏡華は先程からイラついていた。
そして、今の鶴来の言葉を聞いた瞬間、彼女の堪忍袋の緒がぶつりと。
それはもう実際に千切れる音が聞こえてきそうな勢いで、堪忍袋の緒が切れた。
「上等だ!今すぐにでもそんな愉快な口、金輪際叩けなくしてやる!」
【今日の戯言コーナー】
挑発に乗りやすい系TS少女、竜胆鏡華(16)。




