第八話「任務」
その日、和華は衛穿に呼び出された。
部屋を訪ねると、衛穿は机の上に広げた地図へ目を落としたまま、端的に用件を告げた。
「我央たちから、食料の調達依頼があった」
地図には城から遠く離れた場所に、小さな印がつけられている。
「俺が届けに行く。その間、一時的に皓月様の護衛を任せたい」
「我央さんたちに、何かあったんですか?」
「思った以上に手間取っているらしい」
我央たちは、以前、和華と燕華の介入によって取り逃がした妖怪の討伐に向かっていた。
自分が悪かったわけではないと理屈では分かっている。それでも、あのとき逃げた妖怪を追って二人が危険な任務に就いていると思うと、胸の奥に重いものが残った。
「あの……」
和華は迷いながらも口を開いた。
「私が行ってもいいですか?」
衛穿が顔を上げた。
滅多に表情を変えない彼の目が、わずかに見開かれる。
「確かに、お前なら中和を必要としない。だが、危険だぞ」
「分かっています。それでも、行かせてください」
和華は衛穿から目を逸らさなかった。
しばらくの沈黙のあと、衛穿は小さく息を吐いた。
「皓月様は、お前が行きたがるだろうと言っていた。まさか、本当に言い出すとはな」
「皓月様が、そんなことを?」
自分でも口にする直前まで迷っていた。それなのに、皓月には最初から見透かされていたらしい。
「皓月様は、和華の判断に任せると仰った。本当に行くのか?」
衛穿の問いに、和華は一度だけ息を呑んだ。
城の外には、自分の知らない危険がある。我央たちが手間取るほどの妖怪がいる場所へ近づくことになる。
それでも、ここで引き下がりたくなかった。
「……はい。行きます」
「分かった。二時間後、訓練場へ来い」
「分かりました!」
返事をして部屋を出ようとした和華は、扉に手をかけたところで足を止めた。
食料を届けるだけなら、なぜ訓練場へ呼ぶのだろう。
振り返っても、衛穿はすでに地図へ視線を戻していた。
◇
二時間後、和華が訓練場へ到着すると、衛穿は中央で静かに座っていた。
背筋を伸ばし、膝の上へ両手を置いている。目を閉じた姿からは、周囲の音さえ遠ざけているような静けさが感じられた。
「お待たせしました」
和華の声に、衛穿が目を開く。
立ち上がった彼の手に霊素が集まり、長い太刀の形をした霊剣が現れた。
「これから模擬戦を行う」
「模擬戦ですか?」
「皓月様は、お前に判断を任せると仰った。だが、俺はまだ危険だと思っている」
衛穿は霊剣の切っ先を地面へ向けたまま、和華を見据えた。
「お前が任務を遂行できなければ、我央と琉輝の命にも関わる。行きたいのなら、自分に任務を遂行する力があると証明してみろ」
訓練場の空気が張り詰めた。
先ほどまで感じていた静けさが、刃物のような緊張へ変わる。
和華は腰から銃を抜き、反対の手に短い霊剣を作り出した。
「分かりました」
衛穿は動かない。
和華も、相手の呼吸を窺った。
沈黙の中、風が訓練場を抜けていく。
「来い!」
その声と同時に、和華は地面を蹴った。
足へ集中させた霊力が、一気に身体を前へ押し出す。衛穿との距離が瞬く間に消えた。
和華は低い姿勢から霊剣を振り上げる。
衛穿は半歩だけ身を引き、太刀の腹で受け流した。
速さだけでは届かない。
和華は弾かれた勢いを利用して後方へ跳ぶ。着地するより先に銃口を向け、三発の霊弾を放った。
衛穿は長い霊剣を小さく動かし、迫る霊弾を一発ずつ弾いた。
火花のような霊素が空中へ散る。
見た目だけなら、衛穿の戦い方は攻撃型に近い。
長い太刀を持ち、正面から相手を圧倒する。だが、実際の衛穿は防御型だった。
防御型の多くは盾を作り出し、霊力によって強度を高める。しかし衛穿は、太刀で相手の攻撃を受け流す。攻撃を防ぐのではなく、軌道を読み、必要最小限の動きで逸らすのだ。
攻撃型に見える防御型。
だからこそ、動きを知らない相手は判断を誤る。
和華は再び距離を詰めた。
正面から霊剣を突き出す。
衛穿が太刀を合わせ、外側へいなした。
その瞬間を狙い、和華は至近距離から引き金を三度引いた。
狙いは衛穿の関節だった。
一発目と二発目は太刀の柄と霊力に阻まれたが、三発目が左膝へ命中する。
衛穿の姿勢がわずかに崩れた。
今だ。
和華は銃を手放した。
落下するはずの銃が、空中で静止する。その周囲に、薄い霊素の壁が作られていた。
以前、皓月との訓練で身につけた技の応用だった。霊素の壁を盾ではなく、足場として利用する。
和華は宙に浮いた銃を踏み台にして跳んだ。
衛穿の頭上を越え、その死角へ回り込む。
振り返るより速く、霊剣を振り上げた。
入った。
そう確信した瞬間、衛穿の身体が沈んだ。
霊弾を受けた左膝を軸にせず、右足だけで身体を捻る。長い太刀が背後へ回り、和華の霊剣を下から弾き上げた。
次の瞬間、冷たい切っ先が和華の首元で止まっていた。
和華の霊剣は、衛穿の肩へ届く寸前で空を向いている。
負けた。
張り詰めていた力を抜き、和華は霊剣を消した。
「ありがとうございました」
衛穿も太刀を下ろす。
久しぶりの模擬戦だった。
これまで衛穿に勝ったことは一度もない。それでも、今回は届くと思った。あと少しだったからこそ、悔しさが込み上げてくる。
和華は唇を噛み、空中に残した銃を取った。
「食料調達の任務、お前に任せる」
衛穿が静かに言った。
「なんでですか?」
思わず大きな声が出た。
「私、負けたのに」
「ここは霊域ではない」
衛穿は霊弾が命中した左膝を軽く叩いた。
「これから向かう先と同じように霊素濃度が高ければ、俺は今の攻撃に対処しきれなかった。お前は周囲の霊素を利用し、自分の戦い方へ組み込めている」
「でも……」
「それに、これはあくまで模擬戦だ。俺に勝てたら行かせるなどとは、一言も言っていない」
衛穿の口元が、わずかに緩んだ。
「必要だったのは、勝敗ではなく、任務を任せられるかどうかの確認だ」
和華の表情が明るくなる。
認めてもらえた。
守られるだけではなく、自分も誰かの役に立てる。
胸の中から、先ほどの悔しさを押し流すように喜びが広がった。
「ありがとうございます!」
衛穿が訓練場の入口へ目を向けた。
和華もつられて振り返る。
そこには皓月が立っていた。
いつから見ていたのだろう。皓月は何も言わず、和華へ向けて穏やかに微笑んだ。
◇
その夜、和華は部屋で任務の準備を進めていた。
届けるのは、我央と琉輝が二週間過ごせるだけの食料だ。それに加えて、同行する者たちと和華自身の往復分も必要になる。
任務を任されたとはいえ、それだけの荷物を一人で運ぶのは不可能だった。
衛穿が密かに雇った四人が同行し、荷運びを手伝うことになっている。
和華は地図、着替え、武器、食料の順に確認し、袋の口を固く結んだ。
「これでよし!」
明日の早朝に出発する。
任務なのだから、浮かれてはいけない。それでも、和華の胸は高鳴っていた。
こちらの世界へ来てから、城と霊域以外の場所をほとんど見ていない。
最近は、道玄から告げられた話や、自分が過去の時代から来たという事実に頭を悩ませ続けていた。
一度、城の外へ出て、知らない景色を見たかった。
そんな気持ちもあったのかもしれない。
和華は荷物を枕元へ置き、いつもより早く床に就いた。
明日のことを考えてなかなか寝つけなかったが、いつしか意識は静かに沈んでいった。
◇
翌朝は、雲一つない快晴だった。
内密の任務であるため、表門は使えない。和華はまだ人通りの少ない城の裏手へ向かった。
そこには、すでに四人の同行者が待っていた。
女性が二人、男性が二人。全員が和華とほとんど変わらない年齢に見える。
「今回の依頼主か?」
最初に声をかけてきたのは、董哉という青年だった。快活そうな表情をしており、大きな荷物を背負っている。
隣で手を振った、短い髪の女性が零流。
少し離れた場所には、長い髪を後ろで束ねた響綺と、鋭い目つきの陽斉が立っていた。
「環和華です。よろしくお願いします」
和華が頭を下げると、董哉と零流は気軽に応じた。響綺と陽斉は小さく会釈しただけだった。
衛穿から受け取った地図を広げる。
我央と琉輝は、討伐対象がいる霊域の外に拠点を設けているという。和華以外の四人は霊域へ入れないため、今回の目的地はその拠点までだった。
道筋を全員で確かめ、五人は城を出発した。
◇
霊域を避けて進むかぎり、旅は比較的安全だと聞いていた。
この時代では、道中で荷物を奪う者や、弱った旅人を襲う者はほとんどいないらしい。人間同士で奪い合えば、神に裁かれると恐れているそうだ。
城を離れると、視界を遮る建物がなくなった。
一面に草原が広がり、その中央を土の道がまっすぐ伸びている。
現代のような舗装はされていない。車も電柱も看板もない。風に揺れる草と、遠くに連なる山だけがどこまでも続いていた。
初めて見る景色に、和華の心は自然と弾んだ。
「皆さんは、どうやって集められたんですか?」
歩きながら素朴な疑問を口にすると、董哉が振り返った。
「俺たちは、いろんな依頼を受けて報酬をもらってるんだ。荷運びだったり、護衛だったりな。今回は報酬がよくて、ずいぶん人気の依頼だったんだぜ」
「まあ、最初に聞いていた内容は違ったけどね」
零流が肩をすくめる。
「違った?」
「隣の里に住む両親へ、荷物を届けてほしいって依頼だったんだよ。それが蓋を開けてみれば、霊域付近まで食料を運んでくれ、だからね」
「それは……すみません」
おそらく衛穿か皓月が、五家評議会に目的を悟られないよう偽の依頼を出したのだろう。
「依頼という形で集められたんですね。引き受けてくれて、ありがとうございます」
「いいえ。報酬はきっちりもらうから、気にしなくていいよ」
零流が明るく笑った。
董哉も和華の顔を覗き込み、にやりとする。
「それにしても、こんなに報酬のいい依頼の主が、俺たちと大して年の変わらない美人とはな」
「おいおい。依頼主を口説くんじゃないよ」
零流が董哉の肩を小突く。
「褒めただけだろ」
「そういうのを口説いてるって言うんだよ」
「あはは……ありがとうございます」
二人につられて、和華も笑った。
一方、響綺と陽斉は会話へ入ってこなかった。
二人とも黙々と歩き、ときどき和華へ向ける視線には、どこか冷たいものが感じられた。
董哉が和華の隣へ寄り、声を落とす。
「気にするな。あいつらは、自分たちと同じくらいの年の奴が王宮に仕えているのが、気に入らないだけだ」
「そう……ですか」
和華は曖昧に答えた。
せっかく四日も一緒に旅をするのなら、できれば全員と仲良くしたい。そう思ったが、無理に話しかければ、かえって距離を置かれそうだった。
「ここらで一度、休憩にするか」
董哉の提案に、和華は頷いた。
「そうですね。そうしましょう」
荷物を下ろして草の上へ腰を下ろす。
一面の草原は、和華にとって珍しい景色だった。幼い頃、家族と訪れた牧場を思い出す。
あの頃は、自分が三百年後の世界で、見知らぬ者たちと旅をすることになるなど想像もしていなかった。
風が頬を撫でる。
城の中では感じられなかった開放感に、和華は目を細めた。
◇
旅は順調に進んだ。
日中は歩き、日が暮れる前にテントを張った。
董哉と零流はよく話し、和華にもこの時代の暮らしや旅の知識を教えてくれた。響綺と陽斉は必要なこと以外ほとんど口にせず、二人だけで見張りを交代した。
その状態は、二日目も三日目も変わらなかった。
初めは新鮮だった景色も、四日目になると見慣れてくる。
草原と道と遠くの山。
どれだけ進んでも同じような景色が続き、和華は何度も地図を開いて現在地を確かめた。
昼を過ぎた頃、前方に不自然な形が見えた。
草原の中に、明らかな人工物がある。
和華は目を凝らした。
「あった!」
思わず声を上げ、足を速める。
そこには簡易的なテントが張られていた。和華たちが夜営に使ってきたものと、ほとんど同じ形だった。
周囲の地形も、衛穿から聞いた内容と一致している。
我央と琉輝の拠点に間違いなかった。
「我央さん! 琉輝さん!」
呼びかけても、返事はない。
任務に出ているのだろうか。
五人は荷物をテントの横へ下ろした。
和華は入口の布を持ち上げ、中を覗き込む。
「失礼します」
中に人の姿はなかった。
地図や道具が置かれ、二人分の寝具が敷かれている。しばらく使われている形跡はあるが、ひどく散らかっていた。
「任務中かな?」
独り言をこぼしながら、和華は中へ入った。
そのとき、足元に黒ずんだ染みがあることに気づいた。
泥ではない。
赤黒く乾いた血だった。
胸の奥で、心臓が大きく鳴る。
和華はゆっくりと視線を巡らせた。
寝具のそばに、血のついた包帯がいくつも散らばっている。
どれも、わずかに汚れたという程度ではなかった。
大量の血を吸い込み、元の色が分からなくなっている。
先ほどまでの旅の高揚が、一瞬で消えた。
「我央さん……?」
震えた声に、答える者はいない。
静まり返ったテントの中で、和華は自分の鼓動だけを聞いていた。




