第九話「火種」
「報告いたします」
執務室を訪れた兵士が、机へ向かう道玄の前で片膝をついた。
「和華率いる食糧調達部隊が、我央、琉輝両名の討伐拠点へ到着したとのことです」
道玄は書類から目を上げることなく答えた。
「分かりました。引き続き、動向を確認してください」
「はっ」
兵士が一礼し、部屋を後にする。
扉が閉じると、室内は再び静寂に包まれた。
道玄は手元の報告書へ目を落とした。
その表紙には、『霊脈の移植実験について』と記されている。
数枚の紙をめくる。
妖怪のみが持つとされてきた霊脈。
それを人間へ移植する試みと、実験を受けた者たちの記録。
成功例は一つとして残されていない。
実験を受けた人間は、移植された霊脈へ適応できず、全員が死亡していた。
しかし、和華は生きている。
妖怪から霊脈を移植され、霊素を操る力まで手に入れている。
道玄は報告書を閉じた。
◇
討伐隊の拠点へ到着した和華は、地面に残る血痕を見つめていた。
血はすでに黒ずみ、乾いている。
周囲には争った形跡はない。
しかし、我央と琉輝の姿はどこにもなかった。
二人は無事なのだろうか。
血を流したのは、どちらなのか。
妖怪の血は霊素に帰る。ならばこの血は2人のどちらか、もしくは両者のものだろう。
考えるほど不安が膨らんでいく。
和華は一度深く息を吸い、同行してきた四人へ向き直った。
「ひとまず、食糧調達の任務はここまでです。皆さん、ありがとうございました」
董哉、零流、響紀、陽斉の顔を順番に見る。
「四人は都市へ戻り、依頼主である衛穿さんへ、食糧調達を完了したことを報告してください」
そう告げると、董哉が眉を上げた。
「和華さんは戻らないのか?」
「私は……」
言葉に詰まる。
我央と琉輝を捜したい。
二人の無事を、自分の目で確かめたい。
その気持ちは、ここへ到着した時から変わっていなかった。
しかし、それは衛穿から命じられた任務ではない。
食料を届けた時点で、和華の役目は終わっている。
何か異変があったのなら、一度都市へ戻って報告し、改めて捜索隊を編成するべきだ。
それが正しい手順なのだろう。
だが、都市まで戻るには何日もかかる。
報告してから再びここへ来たのでは、手遅れになるかもしれない。
「我央さんたちを捜すつもりなんだろ?」
零流の言葉に、和華は顔を上げた。
「そうですけれど……」
「この森の奥は無理だが、手前の霊域なら私たちも耐えられる。捜しに行くなら、人手は多い方がいい。そうだろ?」
「でも、皆さんの任務は食料を届けるところまでです。これ以上、巻き込むわけには……」
和華は迷っていた。
森の中には妖怪がいる。
我央と琉輝が戻っていない以上、二人に何かあった可能性は高い。
そのような場所へ、四人を連れて入ってよいのだろうか。
さらに、この状況を一刻も早く衛穿へ伝えなければならない。
和華が答えを出せずにいると、董哉が背負っていた荷を地面へ下ろした。
「なら、報告は俺が行こう」
「董哉さんが?」
「ああ。二日分の食料だけもらえれば、俺一人でも都市へ戻れる」
董哉は荷物の中身を確認しながら、三人へ指示を出す。
「零流、響紀、陽斉は和華さんと一緒に残れ。和華さんの仲間を捜すんだ」
「どうして私まで……」
響紀が露骨に嫌そうな顔をする。
「そこまで任務に入ってない!」
陽斉もすぐに反論した。
董哉は二人を見比べる。
「なら、響紀と陽斉の二人だけでこの距離を戻って、衛穿殿へ的確に報告できるのか?」
「…………」
二人はそろって黙り込んだ。
ここへ来るまでのに4日、そして現状を報告できる自信が2人にはなかった。
二人だけで何日もかけて都市へ戻るより、和華たちと行動した方が安全なのは明らかだった。
「そういうことだ」
董哉は荷物から必要な食料を取り分けると、残りを和華へ渡した。
「衛穿殿には俺からしっかり報告しておく。だが、あまり奥まで入るな。何か見つけても、無理はしないようにな」
「……ありがとうございます」
命令したわけでもないのに、四人を危険へ巻き込んでしまう。
そのことに気は引けた。
しかし、今の和華にとっては最もありがたい提案だった。
董哉が報告へ戻ってくれれば、衛穿も状況を把握できる。
残る三人がいれば、手分けして我央たちを捜すこともできる。
零流が空を見上げた。
日が傾き始め、木々の間へ差し込む光が赤く染まっている。
「よし。それなら、日が暮れる前に周辺だけでも調べよう。血痕や戦った痕跡が残っているかもしれない」
「ありがとうございます。お願いします!」
董哉は二日分の食料を背負うと、急ぎ足で都市へ向かった。
残った四人は、拠点周辺を捜すことにした。
和華と陽斉。
零流と響紀。
二組に分かれ、一定の時間が経過したら拠点へ戻る。
「では、皆さんお願いします。何か見つけても、無理はしないように気をつけてください!」
「了解だ!」
零流が力強く答える。
「はい……」
「分かりました……」
響紀と陽斉は、不安を隠せない様子で返事をした。
四人は二手に分かれ、薄暗い森へ入っていった。
風が吹くたび、頭上で木々の枝葉が揺れた。
ざわざわと葉の擦れる音だけが響いている。
鳥や虫の鳴き声は聞こえない。
周囲は、不自然なほど静まり返っていた。
和華と陽斉は、拠点から続く僅かな痕跡を探しながら森を進んでいた。
「我央さーん! 琉輝ー!」
和華の声が木々の間へ響く。
しかし、返事はなかった。
「あの……」
少し後ろを歩いていた陽斉が、怯えた様子で周囲を見回す。
「あまり大きな声を出さない方がよいのでは……」
「あっ、すみません」
和華は慌てて声を抑えた。
考えてみれば、ここは妖怪の暮らす森だ。
二人を呼ぶ声を聞きつけて、別の何かが近づいてくる可能性もある。
それから二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
足元の枝を踏む音だけが、やけに大きく聞こえる。
零流は、なぜ自分と陽斉を組ませたのだろう。
陽斉は和華を警戒している。
出発した時から、必要なこと以外はほとんど話していない。
それでも、今は我央たちを捜すことに集中しなければならなかった。
拠点に残されていた血痕は、時間が経っているように見えた。
二人は負傷した後、別の場所へ移動したのだろうか。
妖怪を追って森の奥へ入ったのか。
それとも、何かに追われたのか。
様々な可能性が、次々と脳裏をよぎる。
「あの!」
突然、陽斉が声を上げた。
和華が振り返ると、陽斉は地面へ指を向けていた。
「これ……」
低い植物の葉に、赤黒いものが付着している。
和華はしゃがみ込み、顔を近づけた。
「血……」
まだ完全には乾いていない。
少し先の地面にも、小さな血痕が落ちていた。
その先にも。
点々と残された血は、森の奥へ続いている。
「行ってみましょう」
「はい……」
二人は慎重に血の跡をたどった。
奥へ進むにつれ、大気中の霊素が濃くなっていく。
和華の身体には、ほとんど影響がない。
むしろ霊素を吸い込むほど、身体の奥へ力が満ちていくように感じられた。
しかし、陽斉の呼吸は徐々に荒くなっていた。
額には汗が浮かび、歩く速度も落ちている。
これ以上進めば、陽斉の身体が耐えられない。
そう判断して足を止めようとした時、森の奥から鈍い音が響いた。
何かが地面へ叩きつけられたような、重い音。
続いて、木が折れる音がした。
「今のは……」
和華と陽斉は顔を見合わせた。
戦っている。
そう直感した和華は、音のした方角へ駆け出した。
「和華さん!」
陽斉も慌てて後を追う。
木々の間を抜けた先に、僅かに開けた場所があった。
そこで我央が、一体の妖怪と戦っていた。
妖怪の皮膚は血のように赤く、太い腕が四本生えている。
身体つきは人間に近いが、背丈は我央よりもはるかに大きい。
額からは二本の角が伸び、口元から鋭い牙がのぞいていた。
完全な人型ではない。
しかし、獣の姿とも異なる。
人と異形が混ざり合ったような姿だった。
「我央さん!」
和華が叫ぶ。
妖怪の攻撃を受け止めていた我央が、声の方へ顔を向けた。
「和華か!?」
我央の身体は傷だらけだった。
顔は腫れ、露出した腕には無数の打撲痕が残っている。
服の一部は裂け、脇腹には血がにじんでいた。
いつもの豪快な姿からは想像できないほど、追い詰められている。
「増……援か……?」
妖怪が低い声を発した。
話せる。
その事実に和華が驚いた直後、妖怪の視線がこちらへ向いた。
正確には、和華の後ろにいる陽斉へ。
妖怪が地面を蹴る。
巨体からは想像できない速さで、一直線に迫ってきた。
「え……」
陽斉は立ち尽くしていた。
突然向けられた殺気に身体がすくみ、足が動かなくなっている。
妖怪が右腕を振り上げた。
和華は反射的に霊力を足へ集中させた。
地面を蹴り、陽斉の前へ滑り込む。
次の瞬間、振り下ろされた拳を両腕で受け止めた。
「くっ……!」
骨まで響くような衝撃が、両腕を走る。
腕が痺れ、指先の感覚が消える。
それでも、陽斉へ拳を届かせることは防いだ。
だが、妖怪には腕が四本ある。
和華が一本の腕を受け止めた直後、別の拳が横から迫った。
「――ッ!」
拳が脇腹へめり込む。
息が止まった。
和華の身体は地面から浮き、そのまま数歩分も吹き飛ばされた。
背中から地面へ落ち、勢いのまま転がる。
「かはっ……!」
腹部に激痛が走る。
息を吸おうとしても、肺へ空気が入ってこない。
視界が明滅し、立ち上がることもできなかった。
痛い。
怖い。
こんな攻撃をもう一度受けたら、今度こそ動けなくなる。
それでも、ここで止まるわけにはいかなかった。
和華は震える身体を起こし、意識して深く息を吸った。
大気中の霊素が、呼吸とともに体内へ流れ込む。
燕華から与えられた霊脈を通り、傷ついた身体へ広がっていく。
痛みは消えない。
しかし、呼吸が少しずつ楽になった。
身体にも、再び力が戻り始める。
妖怪は倒れた和華に目も向けず、陽斉へ向かって別の腕を振り上げていた。
また陽斉を狙っている。
和華は腰の銃を抜いた。
痺れの残る両手で構え、妖怪の腕へ照準を合わせる。
「当たって!」
引き金を三度引く。
銃口から放たれた三発の霊弾が、妖怪の振り上げた腕の肘へ相次いで命中した。
衝撃で腕の軌道がずれ、巨大な拳が陽斉のすぐ横を通り過ぎる。
地面が砕け、土が舞い上がった。
「陽斉さん! 逃げて!」
和華の声で、陽斉はようやく我に返った。
何度も足をもつれさせながら、その場から走り出す。
妖怪がゆっくりと和華へ振り向いた。
その時、和華は初めて気づいた。
四本ある腕のうち、一本が何かを抱えている。
赤い指に握られていたのは、血に染まった琉輝だった。
「琉輝!」
顔や身体の至るところから血を流し、意識を失っている。
力なく垂れ下がった腕が、妖怪の動きに合わせて揺れていた。
なぜ我央が、これほど一方的に傷つけられていたのか。
理由が分かった。
琉輝を人質に取られていたのだ。
我央が攻撃すれば、妖怪は琉輝の身体を盾にする。
下手に力を使えば、琉輝まで巻き込んでしまう。
妖怪は、それを理解している。
「おらあっ!」
妖怪の意識が和華へ向いた瞬間、我央が地面を蹴った。
全身の力を込めた拳が、妖怪の腹部へ突き刺さる。
「ぐっ……!」
妖怪の巨体が僅かに折れ曲がった。
妖怪は我央へ振り返り、空いている腕を振り上げる。
しかし、その腕へ和華の霊弾が命中した。
「今です!」
妖怪の動きが止まった隙に、我央が懐へ飛び込む。
琉輝をつかんでいた腕を押さえ、強引に指を開かせた。
腕の間から解放された琉輝の身体を抱きかかえる。
「取ったぞ!」
我央は琉輝を肩へ担ぎ、妖怪から距離を取った。
「撤退するぞ!」
「はい!」
和華は腹部を押さえながら、何とか立ち上がった。
追いかけようとする妖怪へ銃口を向ける。
息を整え、霊力を銃へ集中させた。
再び引き金を引く。
放たれた霊弾は、妖怪の顔面へ命中した。
「があっ!」
妖怪が顔を覆う。
一瞬だけ、視界が遮られた。
その隙に我央が琉輝を地面へ横たえ、再び妖怪へ向かって走った。
「これでも食らえ!」
踏み込みと同時に、渾身の一撃を放つ。
拳が妖怪の胸へ直撃した。
轟音とともに、赤い巨体が後方へ吹き飛ぶ。
妖怪は木の幹へ激突し、そのまま倒れ込んだ。
「今のうちだ!」
我央が琉輝を抱え直す。
和華も陽斉の手を取り、四人はその場から走り去った。
背後から、妖怪の咆哮が響く。
追ってくるのではないか。
何度も振り返りたくなる気持ちを抑え、和華はひたすら拠点を目指した。
拠点へ戻ると、我央はすぐに琉輝を寝かせた。
「和華、そっちを押さえてくれ。陽斉は水と布を!」
「はい!」
「分かりました!」
我央の指示に従い、和華と陽斉は琉輝の手当てを始めた。
琉輝の全身には打撲や裂傷があり、出血も多い。
最も深い傷へ布を当て、強く押さえる。
苦しそうではあるが、呼吸は続いていた。
「琉輝……」
返事はない。
いつも飄々としている琉輝が、目を閉じたまま動かない。
和華の胸に不安が押し寄せる。
「大丈夫だ」
我央が、和華へ言い聞かせるように告げた。
「こいつは、そう簡単には死なねえ」
その言葉とは裏腹に、我央の表情は険しかった。
日が完全に沈み、周囲が暗闇に包まれた頃、零流と響紀も拠点へ戻ってきた。
二人に怪我はなかった。
しかし、横たわる琉輝と、傷だらけの我央を見た瞬間、表情を強張らせた。
「何があったんですか?」
琉輝の処置が一段落したところで、和華は我央へ尋ねた。
「あの妖怪は、討伐対象ではないですよね?」
「ああ。俺たちが追っていた妖怪とは別だ」
我央は壁へ背中を預け、疲れ切ったように息を吐いた。
「目的の妖怪が潜んでいる場所は、事前の調査で特定していた。だが、俺たちが着いた時には、すでに姿がなかった」
「逃げたんですか?」
「分からん。移動したのか、誰かに殺されたのか。それすら確認できなかった」
我央は拳を握る。
「代わりに、あの赤い妖怪がいた。遠くから存在を確認した時点で、近づかないようにしたんだ。目的の妖怪じゃない以上、わざわざ戦う理由はないからな」
「それなのに、襲われたんですか?」
「ああ。俺たちが距離を取ろうとした途端、急に襲いかかってきた」
我央は森の方角へ視線を向けた。
「まるで、俺たちが来るのを待ち伏せしていたみたいにな」
和華は何も答えられなかった。
妖怪の多くは、自分の縄張りへ入られたり、危害を加えられたりしない限り、人間を襲わない。
我央たちは近づくことさえ避けようとした。
それでも、妖怪の方から攻撃してきた。
「この後は、どうしますか?」
「一度はこっちからも攻撃しちまったが、琉輝の状態がよくない。このまま任務を続けるのは無理だ」
我央は迷うことなく答えた。
「撤退する。まずは琉輝を治療所へ運んで、皓月様に報告する」
「分かりました」
その晩は拠点で休み、夜明けを待ってから都市へ戻ることになった。
翌朝、一同は最低限の手当てを済ませると、拠点を片づけて帰路についた。
我央は交代で琉輝を背負いながら、昨日の妖怪について話し始めた。
「あの妖怪、完全な人型じゃなかっただろ?」
「はい。人に近い姿ではありましたけど……」
「人型に近いほど、高い知能を持つ傾向がある。だが、あいつは言葉こそ話したものの、そこまで知能が高い種類には見えなかった」
我央は歩きながら、眠ったままの琉輝へ視線を向ける。
「それなのに、明らかに琉輝を狙っていた」
「私たちが来た時も、陽斉さんを狙っていました」
「ああ。そこも引っかかる」
前方を歩く陽斉の肩が、僅かに揺れた。
「人型でない妖怪は、集団と戦う時、霊力の高い者から狙う傾向がある。強い相手を先に倒した方が生き残りやすいからだ。普通なら、俺たちの中で最初に狙われるのは俺だったはずだ」
「でも、琉輝を狙った……」
「琉輝は直接戦うより、仲間の動きを支える方が得意だ。琉魅も同じだな。あいつらがいると、こっちは普段以上の力で戦える」
和華は、妖怪が琉輝を抱えていた姿を思い出した。
ただ倒そうとしていたのではない。
我央が攻撃できないよう、琉輝を盾として利用していた。
「陽斉さんも、戦闘の支援を担当しています」
零流が口を挟んだ。
陽斉は薬や道具を用いて仲間を補助する役目を担っている。
妖怪は、陽斉がどのような力を持つのか知らないはずだ。
それでも、和華ではなく陽斉へ向かっていった。
「偶然とは思えません」
和華が呟く。
我央は真剣な表情でうなずいた。
「まだ何も断定はできない。だが、あの妖怪は誰かに、戦い方を教えられていたのかもしれない」
「他の妖怪に?」
「指示か、命令か。それとも、何か別の方法かは分からんけどな」
妖怪同士は、人間のような国や大きな集団を作らない。
それぞれが自らの領域で暮らし、他の妖怪へ関心を持たない者も多いと聞いている。
しかし、もし妖怪の中に他の妖怪を従える者がいるとしたら。
人間との戦い方を教え、目的を持って襲わせている者がいるとしたら。
「人間が妖怪を攻撃していることが、もう知られているのでしょうか」
和華の問いに、我央はすぐには答えなかった。
「分からん」
やがて、低い声で答える。
「まあ、全部俺の妄想だけどな!」
突然、我央がいつものような明るい声を上げた。
重くなった空気を吹き飛ばそうとしているのだろう。
しかし、その目は笑っていなかった。
しばらく歩いた後、我央は和華へ顔を向けた。
「それにしても、驚いたぞ」
「何がですか?」
「和華が、あんなに強くなっているとは思わなかった」
我央は豪快に笑う。
「来てくれなかったら、琉輝を取り戻せなかった。陽斉も危なかった。本当に助かった」
「いえ! 私は、無我夢中で……」
実際、何をすればよいのか考える余裕などなかった。
身体が勝手に動いた。
陽斉の前へ飛び込み、銃を撃ち、我央が琉輝を助けるための隙を作った。
訓練で何度も繰り返した動きが、自然と出ただけだった。
「本当に、琉輝を助けられてよかったです」
それが何よりも嬉しかった。
一同は負傷した琉輝を守りながら、都市へ向かって歩き続けた。
都市へ到着したのは、拠点を出てから五日後だった。
琉輝の容体を考え、普段よりも休憩を多く取ったためだ。
幸い、道中で傷が悪化することはなかった。
城門をくぐると、琉輝はすぐに治療所へ運ばれた。
治療師へ引き渡すまで見届け、和華たちは皓月の部屋を目指した。
その途中で、先に都市へ戻っていた董哉と合流する。
「全員、無事だったか」
董哉は和華たちの姿を確認し、安堵したように息を吐いた。
琉輝が重傷を負ったことを聞くと表情を曇らせたが、すでに衛穿へ状況を報告してくれていたという。
零流、董哉、響紀、陽斉の四人とは、落ち着いたら改めて会う約束をして、その場で別れることになった。
和華が皆へ礼を告げていると、陽斉が意を決したように近づいてきた。
「あの、和華さん!」
「はい?」
「昨日……ではなく、森で助けてもらった時は、ありがとうございました」
陽斉は深く頭を下げた。
「本当に、死ぬかと思いました。和華さんが間に入ってくれなかったら、私は……」
「あれは、考えるより先に身体が動いただけです。陽斉さんが無事で、本当によかったです」
「あの……それと」
陽斉は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「めっちゃ、かっこよかったです」
「えっ?」
あまりにも真っすぐな言葉に、和華の頬が熱くなる。
面と向かって褒められるのは、少しこそばゆい。
「ありがとうございます……」
和華が照れながら答えると、陽斉は初めて柔らかな笑みを見せた。
出発した時には警戒され、まともに話すこともできなかった。
そんな陽斉が、少しでも心を開いてくれた。
褒められたことよりも、その変化の方が和華には嬉しかった。
四人と別れ、和華と我央は皓月の部屋へ向かった。
扉の前では、衛穿が待っていた。
二人の姿を確認すると、その険しい表情が僅かに緩む。
「二人とも、大変だったな」
「琉輝は、先ほど治療所へ運びました」
我央が答える。
「ああ。連絡は受けている。皓月様がお待ちだ」
衛穿が扉を開ける。
部屋へ入ると、皓月は机の前に座っていた。
いつもの穏やかな微笑みはない。
真剣な表情で、帰還した二人を見つめている。
「報告をお願いします」
「はい」
我央は、討伐対象の妖怪が姿を消していたことから順に説明した。
代わりに赤い妖怪が待ち構えていたこと。
刺激を避けて離れようとしたにもかかわらず、向こうから襲ってきたこと。
琉輝が執拗に狙われ、盾として利用されたこと。
和華たちが到着し、辛うじて救出できたこと。
さらに、赤い妖怪が誰かの指示を受けていた可能性についても話した。
皓月は口を挟まず、最後まで静かに聞いていた。
「以上です」
報告を終えると、皓月は僅かに目を伏せた。
何かを考えるように短い沈黙を置き、再び二人を見る。
「報告、感謝します。琉輝の治療については、こちらでもできる限りの手配をします」
「ありがとうございます」
「二人とも、今日はゆっくり休んでください」
和華は頭を下げた。
緊張が解けた途端、脇腹に鋭い痛みが走る。
妖怪に殴られた直後は、身体が興奮していたためか、痛みを深く意識していなかった。
しかし都市へ戻る途中から、歩くだけでも腹部へ響くようになっていた。
今は立っているだけでもつらい。
「和華?」
皓月が心配そうに立ち上がる。
「大丈夫です。少し、お腹を殴られただけなので……」
「それを大丈夫とは言いません。すぐに診てもらってください」
「はい……」
有無を言わせぬ口調だった。
和華は我央とともに部屋を出た。
治療所で簡単な処置を受けた後、久しぶりに寮へ戻る。
寮では帆積と琉魅が待っていた。
二人とも、我央たちが戻らないことを心配していたらしい。
琉輝が治療所にいると聞くと、すぐに見舞いへ向かっていった。
和華も同行したかったが、今は身体を休めるよう我央に止められた。
自分の部屋へ向かいながら、森での戦いを思い返す。
和華にとって、初めての実戦だった。
皓月との訓練とは違う。
相手は本気で命を奪おうとしていた。
一歩間違えれば、陽斉も、琉輝も、自分も死んでいた。
妖怪の拳を受けた瞬間を思い出すと、今になって身体が震えた。
怖かった。
それでも、動くことができた。
訓練で身につけた力を使い、誰かを守ることができた。
そのことが、和華は少しだけ嬉しかった。
しかし、その喜びを上回るほど琉輝が心配だった。
いつものように目を覚まし、何でもない顔で戻ってきてほしい。
今は自分が治療所へ行っても、できることはない。
「とりあえず、休もう……」
和華は腹部を押さえながら、自分の部屋へ入った。
その頃、皓月は一人、先ほどの報告について考えていた。
我央の言葉には、引っかかる点がいくつもあった。
調査によって居場所を特定していた討伐対象が、突然姿を消していたこと。
代わりに、我央と琉輝の戦い方にとって相性の悪い妖怪が待ち構えていたこと。
その妖怪が、人型ではないにもかかわらず、琉輝を狙い、盾として利用したこと。
さらに、後から現れた陽斉を優先して攻撃したこと。
偶然ですべて説明できるだろうか。
妖怪が自ら人間を襲った。
その一点だけを見れば、今回の戦いで人間側に非はない。
我央たちは距離を取り、戦闘を避けようとしていた。
それでも攻撃されたのだ。
我央が報告で嘘をつくことも考えられない。
だが、それはあの赤い妖怪だけを見れば、という話だった。
あの妖怪が誰かに操られていたとしたら。
意図的に我央たちを襲うよう仕向けられていたとしたら。
その背後にいるのは、別の妖怪なのか。
それとも――人間なのか。
今回の件へ、五家評議会が関わっている可能性もある。
しかし、目的が分からない。
人間を襲う妖怪を作り出せば、妖怪討伐を正当化できる。
民の恐怖と憎しみを煽り、より大規模な討伐へ導くこともできる。
その一方で、人間による妖怪への攻撃がすでに知られ、妖怪側が動き始めた可能性も捨てきれない。
どちらにしても、この小さな襲撃は、一度きりの出来事では終わらないかもしれない。
憎しみは、次の憎しみを生む。
人間が妖怪を攻撃し、妖怪が人間を襲う。
報復が繰り返されれば、やがて誰にも止められなくなる。
皓月は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
「戦争は、避けたいのですが……」
窓の外では、月が厚い雲に隠れようとしていた。
僅かに残った光も、やがて闇へ飲み込まれていく。
今回の一件に五家が関わっているのか。
妖怪たちの間で、すでに何かが動き始めているのか。
まだ何も分からない。
しかし、確かなことが一つだけあった。
人間と妖怪。
両者の間に落とされた小さな火種は、静かに燃え始めている。
雲に覆われた夜空と同じように、皓月の思考にも深い靄がかかっていた。




