第七話「選択」
和華は悩んでいた。
昨日、道玄と交わした会話が、いつまでも頭から離れない。
道玄は皓月を支えたいと言っていた。
五家評議会の一員としてではなく、皓月個人の味方になりたい。そのために、和華にも協力してほしいと。
その言葉を皓月へ伝えるべきか。
それとも、道玄に言われたとおり、自分の胸の内にしまっておくべきか。
どちらを選ぶことが、皓月のためになるのだろう。
和華も今では、皓月直属護衛隊の一員だった。
皓月との訓練という名の実験へ付き合わされることはあるが、普段の仕事は城内の見回りや皓月の部屋の清掃、そして護衛が中心だ。
いずれも、人目につく表向きの仕事だった。
その一方で、直属護衛隊には公にできない裏の仕事もある。
それを担当しているのは、衛穿を除けば我央、帆積、琉輝、琉魅の四人だった。
もちろん、四人も普段は城内の警備や皓月の護衛を行っている。しかし必要があれば、五家評議会にも知られてはならない任務へ向かう。
今回、我央と琉輝へ与えられたのは、以前の討伐で逃した妖怪を追う任務だった。
表向きには、逃亡した妖怪の討伐。
しかし皓月によれば、その妖怪は五家評議会の指示によって、意図的に逃がされた可能性があるという。
何のために逃がしたのか、詳しい理由までは聞かされていない。
ただ、五家評議会が関わっている以上、我央たちの任務は内密に進めなければならなかった。
一方、帆積と琉魅は兵士を連れ、別の妖怪の調査へ向かっている。
そちらは五家評議会も認めている正式な任務だった。
皆が危険な仕事へ向かう中、和華は皓月の部屋で平和に掃除をしていた。
箒で床を掃きながらも、頭の中にあるのは昨日の道玄との会話ばかりだ。
皓月へ話すべきだろうか。
道玄は皓月を心配していた。
少なくとも、そう見えた。
けれど、皓月は五家を警戒している。
自分が道玄と二人きりで会い、協力を持ちかけられたと知れば、皓月を余計に悩ませてしまうかもしれない。
道玄の話を黙っていることも、皓月のため。
すべてを伝えることも、皓月のため。
どちらも同じ人を思っての選択だからこそ、答えが出せなかった。
「うーん……」
無意識に声を漏らしながら箒を動かしていると、その先が机の脚にぶつかった。
机がわずかに揺れ、上に置かれていた筆記具が音を立てる。
「危ない……」
慌てて筆記具を押さえ、元の位置へ戻す。
その時、机の引き出しが目に入った。
そこで和華は、あることを思い出した。
皓月の部屋へ呼ばれた時、机の上にはいつも一冊の古い本が置かれていた。
茶色く変色した表紙。
何度も開かれたのか、背の部分はひどく傷んでいる。
文字や模様はなく、題名さえ書かれていない本だった。
しかし今日は、その本が見当たらない。
よく考えてみれば、自分が掃除当番の日に見かけた記憶もなかった。
以前、琉魅が掃除を担当した日に皓月の部屋へ入ったことがある。その時は確かに、机の上に置かれていた。
自分が掃除する日にだけ、なくなっている。
皓月は、和華が一人で部屋へ入る時だけ、あの本を隠しているのだろうか。
「まさかね……」
偶然かもしれない。
皓月が読むために持ち出しただけかもしれない。
そう思いながらも、和華の視線は引き出しから離れなかった。
ここに入っているのだろうか。
ほんの少しだけなら。
そんな考えが浮かび、和華は引き出しへ手を伸ばした。
しかし、取っ手に触れる寸前で動きを止める。
皓月の部屋の掃除は、床を掃き、寝台を整え、使い終わった食器を洗う。出したままになっている物があれば、元の場所へ戻す。
引き出しの中まで整理するよう命じられたことはない。
開けてはいけないと、はっきり言われたわけではなかった。
だからといって、勝手に開けてよいものでもない。
ましてや、皓月が意図的に本を隠しているのなら、それを探す行為は明らかに間違っている。
分かっている。
それでも、一度芽生えた疑問を抑えることができなかった。
「確認するだけ……」
誰に言い訳するでもなく呟き、和華は一番上の引き出しを開けた。
中には何も入っていなかった。
胸を撫で下ろしたような、残念なような、不思議な感覚が残る。
ここにはない。
やはり自分の考えすぎだったのだ。
そう納得しようとした時、二段目の引き出しへ目が向いた。
少し迷った末、和華はその取っ手にも手をかけた。
ゆっくりと引き出す。
「あっ……」
そこには、あの本が入っていた。
見間違えるはずがない。
題名のない、古びた本。
皓月の机の上で何度も見たものだった。
本当に隠していた。
その事実を知った途端、心臓の鼓動が速くなる。
皓月は、なぜこの本を和華から隠しているのだろう。
見てはいけない。
今すぐ引き出しを閉じるべきだ。
そう思っているのに、手は本へ伸びていた。
「少しだけ……」
本を手に取り、傷んだ表紙を開く。
最初に現れた頁を見た瞬間、和華は目を見開いた。
そこに描かれていたのは、一台の自動車だった。
四つの車輪。
前後に備えつけられた照明。
金属で覆われた車体。
絵の横には、確かに「自動車」と書かれている。
この世界で使われている荷車ではない。
和華が十七年間、何度も乗り、毎日のように見てきた自動車だった。
息をすることも忘れ、次の頁をめくる。
そこには、高層の集合住宅が描かれていた。
説明には「マンション」と記されている。
さらに頁をめくる。
携帯電話。
テレビ。
冷蔵庫。
電車。
信号機。
舗装された道路。
電柱が立ち並ぶ町。
学校の教室。
和華が知っているものが、次々と現れる。
どの頁にも細かな説明が添えられ、用途や仕組みまで書き残されていた。
和華が皓月へ話した内容よりも、はるかに詳しく、鮮明だった。
皓月はすでに知っていた。
自動車も、電車も、電話も。
和華が自分の世界について説明するより前から、この本を読んでいたのだ。
「これって……」
震える指で頁を戻す。
表紙には、やはり何も書かれていない。
しかし、最初の一頁には短い文章が残されていた。
『世界が崩壊する前の地球について、ここに記す』
その下に、名前が書いてあった。
珠緒 達巳。
和華の視線は、その文章の中にある一つの言葉へ吸い寄せられた。
地球。
見知らぬ世界の名前ではない。
和華が生まれ、暮らしてきた世界の名だ。
皓月から聞いた話が、頭の中でつながっていく。
およそ三百年前、世界はもう一つの世界と重なった。
霊素が大気を満たし、人類の大半が命を落とした。
文明は崩壊し、生き残った人々は何もない状態から暮らしを立て直した。
和華はこれまで、自分が別の世界へ迷い込んだのだと考えていた。
あるいは、過去のどこかへ飛ばされたのかもしれないと。
しかし、違った。
この本に記されている世界が地球なら。
自動車も、マンションも、電車も、すべて過去のものとして残されているのなら。
ここは別の世界ではない。
和華がいた時代より、はるか先。
世界が崩壊し、二つの世界が重なってから三百年後の地球。
未来の世界だ。
「そんな……」
胸の奥で鼓動が大きく鳴る。
自分が暮らしていた町も、通っていた学校も、家族のいる家も、すべて三百年以上前のものになっている。
戻る場所が遠く離れているのではない。
もう、どこにも残っていないのかもしれない。
家族も、友達も、自分の知る人々は――。
そこまで考えた瞬間、息が詰まった。
頭の中が真っ白になる。
信じたくない。
何かの間違いかもしれない。
この本に書かれた地球と、和華のいた地球が同じだという証拠はない。
けれど、描かれているものは、どれも和華の知る世界そのものだった。
和華は慌てて本を閉じた。
乱れた呼吸を抑えながら引き出しへ戻し、元と同じ位置になるよう何度も置き直す。
皓月は知っていた。
自分が別の世界から来たのではなく、過去の時代から来た可能性を。
それなのに、なぜ教えてくれなかったのだろう。
どうして、この本を見せなかったのか。
皓月のことだ。
きっと和華のためを思って、あえて言わなかったのだろう。
自分の暮らしていた世界が崩壊したと知れば、和華が傷つくと考えたのかもしれない。
実際、その事実を知った今、自分がどのような感情を抱いているのかさえ分からなかった。
悲しいのか。
怖いのか。
怒っているのか。
それとも、まだ信じられずにいるだけなのか。
胸の中で、すべての感情が混ざり合っている。
皓月は何を考えていたのだろう。
いつから気づいていたのだろう。
尋ねれば、答えてくれるだろうか。
その時、部屋の扉が開いた。
「――っ!」
和華は身体を大きく跳ねさせた。
振り返ると、扉の前に皓月が立っていた。
和華の反応に驚いたのか、赤い瞳を丸くしている。
「どうされました?」
「い、いえ! 何でもありません!」
声が裏返る。
皓月は不思議そうに首を傾げた。
「少し驚いちゃって……」
「そうですか。驚かせてしまい、申し訳ありません」
「いえ! 皓月様のせいではありません! 私が勝手に驚いただけですから!」
必要以上に大きな声で否定してしまう。
皓月はしばらく和華を見つめていたが、やがていつものように穏やかに微笑んだ。
「掃除をしてくれていたのですね。ありがとうございます」
「はい……もうすぐ終わります」
危なかった。
あと少し遅ければ、本を手にしているところを見られていた。
しかし、見られた方がよかったのかもしれない。
そうすれば、なぜこの本を隠していたのか尋ねられた。
皓月も、すべてを話してくれたかもしれない。
けれど和華は、咄嗟に隠してしまった。
今さら、自分から引き出しを開けて本を読みましたとは言えない。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ。何でもないです」
「そうですか?」
皓月の視線が、机へ向けられた。
和華の身体が強張る。
引き出しが少し開いているのではないか。
本の位置が変わっているのではないか。
気づかれたら、どう説明すればよいのだろう。
しかし皓月は何も言わず、机の上に書類を置いた。
「無理をする必要はありませんよ。顔色があまりよくないように見えます」
「大丈夫です。少し考え事をしていただけですから」
それは嘘ではない。
けれど、何を考えていたのかは言えなかった。
皓月に隠し事をされたと知った直後、自分も皓月へ隠し事をしている。
そのことが、胸へ重くのしかかった。
和華は残りの掃除を済ませ、皓月の部屋を後にした。
寮へ戻ろうと廊下を歩く。
しかし、足取りは重かった。
古い本に記されていた地球。
皓月がそれを隠していた理由。
そして、昨日の道玄との会話。
考えれば考えるほど、何を信じればよいのか分からなくなる。
気がつけば、和華の足は寮とは別の方向へ向かっていた。
しばらく歩いた後、自分が道玄の部屋の前にいることに気づく。
「いるかな……」
扉を見つめながら、小さく呟く。
「おりますよ」
「ひゃっ!」
突然、背後から声をかけられ、和華は再び飛び上がった。
勢いよく振り返ると、そこには道玄が立っていた。
道玄は目を細め、愉快そうに笑っている。
「ははは。驚かせてしまって申し訳ない。私に何かご用ですかな?」
「びっくりした……」
胸元を押さえる。
本を見つけた時。
皓月が部屋へ戻ってきた時。
そして今。
今日は驚くことが多すぎる。
それも、すべて心臓に悪い驚きばかりだった。
「少し、よろしいですか?」
「もちろんです。立ち話も何ですから、中へどうぞ」
道玄に促され、和華は部屋へ入った。
前回と同じ長椅子へ腰を下ろす。
道玄も向かい側の同じ場所へ座り、慣れた手つきで茶を用意した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
茶を一口飲む。
温かさが喉を通り、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「それで、お話とは何ですかな?」
今日の道玄は、前に会った時よりも機嫌がよさそうに見えた。
和華が訪ねてきたことを、純粋に喜んでいるようにも感じられる。
「あの、昨日お会いして、お話しした件なのですが……」
「皓月様へ、私と会ったことを報告するか否か。その件ですかな?」
「はい」
「その判断を、私へ相談に来られたと?」
「はい」
道玄は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「すみません。まさか、私へ相談されるとは思いませんでした。和華殿は実に面白い方ですな」
自分でも、普通ではないと思う。
秘密にするよう頼んできた相手へ、その秘密を伝えるべきか相談しているのだ。
「とても迷ってしまって……」
「そうでしたか。私は昨日、皓月様には伝えない方がよいと申しましたが……まあ、お話はお聞きしましょう」
「あの、正直なところ、どちらが皓月様のためになるのか分かりません」
和華は膝の上で両手を握った。
「道玄様も皓月様を支える立場です。もう一度お話を聞けば、何か分かるかもしれないと思って」
「なるほど」
道玄は茶を一口飲み、和華の顔を見つめた。
和華はその視線を受け止めながら、道玄の反応を待った。
何も考えずに訪ねてきたわけではない。
和華なりに狙いがあった。
道玄は昨日、皓月へ報告するかどうかは和華の判断へ任せると言った。
しかし和華が迷っていると知れば、今度こそ報告しないよう強く誘導してくるかもしれない。
もし道玄にやましい目的があるのなら、秘密を守らせようとするはずだ。
そこで焦りや強引さが見えれば、道玄の本心を探ることができる。
無理に報告を止めようとするなら、その場では黙っていると答え、後から皓月へすべて話すつもりだった。
道玄は顎へ手を添え、しばらく考え込んだ。
「そうですな……」
長い間が空く。
和華は道玄の言葉を待った。
「そこまで迷われるのであれば、皓月様へ報告してはいかがでしょう」
「……え?」
思わず聞き返す。
予想していたものとは、正反対の答えだった。
「確かに、皓月様へ余計な迷いを与えてしまう可能性はあります。ですから私は、昨日の時点では伝えない方がよいと考えていました」
道玄は穏やかな口調で続ける。
「しかし、和華殿がそこまで悩んでいるのであれば、話は別です。まだ関係の浅い私の言葉に従うより、信頼されている皓月様へ相談した方がよいでしょう」
「そう……ですか」
あまりにも予想外の答えに、頭の中が真っ白になる。
秘密を守るよう念を押すどころか、皓月へ話すよう勧めてきた。
焦った様子も、困った様子もない。
本当に、どちらを選んでも構わないと思っているように見える。
「では、皓月様へ話します。それでも、よいのですか?」
まだ何か裏があるのではないか。
疑いを捨てきれず、もう一度確かめる。
「もちろんです。それで和華殿の心が軽くなるのであれば、その方がよろしいかと」
道玄は迷うことなく答えた。
「分かりました……」
道玄は、皓月が言うほど悪い人ではないのかもしれない。
そんな感情が、和華の中に芽生え始める。
少なくとも今の言葉からは、皓月を陥れようとしているようには思えなかった。
むしろ、和華が一人で悩み続けることを気遣っているようにさえ見える。
「ところで、和華殿」
道玄が空になった湯飲みへ茶を注ぎ足す。
「せっかくこちらへ来られたのです。今度は、私の話も聞いていただけませんかな?」
「私でよければ……」
「ありがとうございます」
道玄は笑みを浮かべたまま、和華の胸元へ視線を向けた。
「和華殿には、霊脈があると聞きました」
和華の肩がわずかに揺れる。
「霊脈は、本来であれば妖怪だけが持つもの。それを人間である和華殿が、なぜお持ちなのでしょうか?」
「それは……」
答えるべきか迷う。
霊脈については、直属護衛隊の皆も知っている。
道玄がその事実を知っていても、不思議ではなかった。
しかし、自分が三百年以上前から来た人間であることまで話すつもりはない。
「ある妖怪に助けられたんです。その妖怪から、霊脈をもらいました」
「ほう」
道玄の目に、強い興味が浮かぶ。
「人間へ霊脈を与え、命を救う妖怪ですか。妖怪にも、そのような者がいたとは。実に興味深い」
妖怪を完全な敵として見ている人の反応とは、少し違う気がした。
皓月から聞いた五家評議会の考えでは、妖怪は人間の世界から排除すべき存在のはずだ。
しかし道玄は、人間を助けた妖怪の存在を否定しなかった。
「その妖怪は、どのような姿をしていたのですかな?」
「背丈は私とほとんど同じでした。髪は白くて、犬のお面をつけていました。たぶん、女性の妖怪だと思います」
「なるほど……」
道玄は目を伏せ、何かを考え始めた。
先ほどまでの陽気な雰囲気が、ほんの少しだけ薄れる。
「その妖怪の名は?」
「燕華です」
「燕華……」
道玄は確かめるように、その名を繰り返した。
「和華殿とは、その時が初対面だったのですかな?」
「はい。初めて会いました」
「そうですか。他に、何か気づいたことはありませんでしたか?」
「他に、ですか?」
燕華と出会った時のことを思い返す。
暗い森。
息をすることもできず、倒れていた自分。
燕華の白い髪と犬の面。
霊脈を移植され、初めて吸うことのできた空気。
そして――。
「あっ、そういえば」
「何か思い出されましたか?」
「燕華は、私と同じ手鏡を持っていました」
道玄の表情が止まった。
「家にあるはずの手鏡だったんです。私も同じものを持っていたので、どうして燕華が持っていたのか、不思議だったんですけど……」
「……今、何と?」
道玄の声から、穏やかさが消えていた。
「え?」
和華は戸惑いながら、もう一度答える。
「手鏡を持っていました。私が持っているものと、同じ手鏡です」
道玄が目を見開く。
先ほどまで浮かべていた笑みは完全に消えていた。
「手鏡……」
何かを確かめるように、低い声で呟く。
その反応は、単に珍しい話を聞いた者のものではなかった。
和華が尋ねるより先に、道玄が顔を上げた。
「ちなみに、和華殿のご出身は?」
「えっと……」
胸が大きく鳴る。
どこまで話せばよいのだろう。
三百年以上前の地球から来たこと。
今日、皓月の部屋で見つけた本のこと。
口を開きかけた和華を見て、道玄はすぐに片手を上げた。
「いや、聞きすぎましたな。失礼しました」
「いえ……」
和華は内心で胸を撫で下ろした。
追及されていたら、うまく誤魔化せなかったかもしれない。
道玄は黙り込み、何かを考えている。
眉間にはわずかにしわが寄り、視線は和華ではなく、遠くへ向けられていた。
やがて、何かを決めたように立ち上がる。
「申し訳ありません、和華殿。少々、急ぎの用を思い出しましてな」
「あっ、こちらこそ、すみません。お時間をいただき、ありがとうございました」
和華も慌てて立ち上がった。
道玄の様子が気になったが、これ以上ここにいてはいけないような気がした。
一礼し、急いで部屋を出る。
扉を閉める直前、道玄の姿が見えた。
道玄は机へ両手をつき、先ほどまで和華が座っていた場所を見つめている。
その表情から、考えていることを読み取ることはできなかった。
廊下へ出た和華は、ゆっくりと歩き始めた。
道玄は、皓月へ報告するよう勧めた。
秘密にする必要がないからこそ、そう答えたのだろうか。
もし自分にやましい目的があるのなら、皓月へ話されることを嫌がるはずだ。
少なくとも、和華が仕掛けた問いに、道玄は引っかからなかった。
それどころか、皓月を頼るよう勧めてくれた。
その一方で、皓月は古い本を隠していた。
和華のいた世界が、三百年以上前に崩壊した可能性を知りながら、それを教えてくれなかった。
皓月が自分を思って隠したことなのかもしれない。
それでも、隠されていたという事実は消えなかった。
皓月にも、和華へ話していないことがある。
それなら自分も、すべてを今すぐ話す必要はないのではないか。
道玄についてもう少し知ってからでも、遅くはない。
和華は立ち止まり、振り返った。
道玄の部屋の扉は、すでに固く閉ざされている。
皓月へ報告するか。
それとも、黙っておくか。
道玄の部屋を訪れるまでは、まだ迷っていた。
けれど今、和華の中で答えは決まりつつあった。
道玄と会ったことは、皓月へ報告しない。
少なくとも、今は。
それが正しい選択なのかは分からない。
道玄が本当に皓月の味方なのかも分からない。
皓月が本を隠していた理由も分からない。
分からないことばかりだった。
それでも和華は、自分で確かめたいと思った。
皓月から教えられた答えでも、道玄から与えられた答えでもなく、自分の目で見たものから判断したい。
そうして和華は、初めて皓月へ秘密を抱えた。
その選択が、何を引き起こすのかも知らないまま。




