第五話「五家」
朝日が窓から差し込み、和華はゆっくりと目を覚ました。
寝台から起き上がり、壁に掛けてある白い服へ目を向ける。
三か月の訓練期間を終えた日に支給された、直属護衛隊の戦闘服。
白を基調とした丈の長い上着には、護衛隊の紋章が刻まれている。袖を通すと、昨日までとは違う自分になったような気がした。
姿見の前で襟元を整え、腰の帯へ拳銃と霊素短刀を取りつける。
まだ少し着られているような感覚はある。
それでも、悪い気はしなかった。
部屋を出ると、食堂にはすでに我央、帆積、琉輝、琉魅が集まっていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう!」
我央が食事を頬張りながら、大きな声で応える。
「おはよー」
「おはよー」
琉輝と琉魅は、今日も同じ調子で声を揃えた。
帆積は眠そうな顔で片手を上げる。
「おはよう。護衛隊服も似合っているな。ついでに、今日から代理隊長も――」
「やりません」
最後まで聞かずに断ると、帆積は残念そうに息を吐いた。
そのやり取りを見て、我央が豪快に笑う。
いつもと変わらない朝だった。
皆と食事を済ませた和華は、皓月に呼ばれていることを思い出し、席を立った。
「皓月様のところへ行ってきます」
「おう。気をつけてな」
「城の中なのに、何に気をつけるんですか?」
和華が尋ねても、我央は意味深に笑うだけだった。
また新しい訓練でも試されるのではないか。
わずかな不安を抱えながら、和華は寮を後にした。
城内を進み、皓月の部屋の前で立ち止まる。
扉を軽く叩くと、中から皓月の声が返ってきた。
「どうぞ」
和華は扉を開け、部屋の中へ入った。
「失礼します」
窓際に置かれた椅子に、皓月が腰かけていた。
いつものような柔らかな笑みはなく、その表情は真剣だった。
衛穿は今日も部屋の端に立ち、口を閉ざしたまま周囲へ目を配っている。
「おはようございます、和華。では、こちらへ」
皓月に促され、和華は向かいの椅子へ腰を下ろした。
机の上に茶が用意されていることから、訓練のために呼ばれたわけではないらしい。
ひとまず安心する。
「今日は、少しお話があって来てもらいました」
「はい」
皓月はすぐには本題へ入らなかった。
一度窓の外へ目を向け、言葉を選ぶように間を置く。
「まず、あなたが元いた世界へ戻る方法についてですが……申し訳ありません。今も手がかりをつかめていません」
和華は膝の上で、わずかに手を握った。
期待していなかったと言えば嘘になる。
皓月に呼ばれたと聞いた時、帰る方法が見つかったのではないかと、心のどこかで考えていた。
「はい……」
寂しさを隠すように、小さく返事をする。
「調査は今後も続けます。ですが、戻る方法が見つかるまで、和華はこの国で暮らさなければなりません」
皓月の赤い瞳が、まっすぐ和華へ向けられる。
「そのため、私の直属護衛隊として覚えておいてほしいことがいくつかあります。聞いてください」
「分かりました」
皓月は小さく息を吸うと、静かに話し始めた。
「この世界は、およそ三百年前、もう一つの世界と重なり合いました」
一つの世界には人間が暮らし、もう一つの世界には妖怪が暮らしていた。
本来ならば交わるはずのなかった二つの世界が、何らかの理由によって一つになった。
地形が重なり、妖怪が現れ、それまで人間の世界には存在しなかった霊素が大気中を満たした。
「当時の人間には、霊素へ耐える力がありませんでした。大気中の霊素が身体へ入り込み、それだけで多くの者が命を落としたそうです」
世界同士の融合によって起きた災害。
妖怪との争い以前に、人間は呼吸し、生きることさえ難しくなった。
「人類のほとんどが亡くなり、それまで築かれていた文明も途絶えました。生き残った人々は、何もない状態から暮らしを立て直さなければならなかったのです」
電気も、自動車も、電話も失われた。
和華にとって当たり前だったものが、この世界では失われた技術になっている。
その理由を知り、和華は何も言えなくなった。
「その混乱の中で生存者をまとめ、人々を導いた五人がいました。その五人の家系が、現在この国を治めている五家です」
「五家評議会……」
「はい。三百年前の五家は、それぞれの役割を分担し、互いの力を抑えることで、一つの家だけが暴走しない仕組みを作りました」
現在も、その形だけは残されている。
しかし、長い年月の中で、五家は国を守る者から国を支配する者へ変わってしまった。
皓月はそこまで言うと、一度話を止めた。
「世界が重なった直後、人間は妖怪について、ほとんど何も知りませんでした。強大な力を持ち、人の姿をしていない者もいる。人間にとって、妖怪は恐怖そのものだったのでしょう」
しかし、すべての妖怪が人間を襲ったわけではなかった。
妖怪の多くは自らの縄張りに入り込まれたり、危害を加えられたりしない限り、人間へ関心を示さなかったという。
そこで当時の人間は、妖怪を神として崇めた。
妖怪を刺激してはならない。
神の住む場所へ入ってはならない。
神へ近づいてはならない。
幼い子供でも理解できるよう、その教えを物語や詩として残した。
信仰という形を使い、妖怪との接触を避けたのだ。
「霊素濃度の高い場所には、多くの妖怪が暮らしています。反対に、霊素の薄い場所へ妖怪が現れることはほとんどありません。人間は霊素の薄い土地を選び、そこで暮らしてきました」
「だから、あの森の中には妖怪がいたんですね」
和華は、自分がこの世界で初めて目を覚ました森を思い浮かべた。
鳥居の先に広がっていた霊域。
人間たちが足を踏み入れるまで、燕華たちは自分たちの場所で暮らしていただけだった。
「はい。長い間、人間と妖怪は互いの領域へ立ち入らないことで、大きな争いを避けてきました」
それならば、なぜ今になって討伐を始めたのか。
和華が抱いた疑問を察したように、皓月の表情が曇る。
「三百年の間に、人間も変化しました。少しずつ霊素へ適応し、今では霊素を扱える者も増えています。その結果、人間の数は再び増え始めました」
人が増えれば、より多くの食料が必要になる。
畑を作る土地も、家を建てる土地も必要になる。
しかし、人間が安全に暮らせる霊素濃度の低い土地には限りがあった。
現在、この国は深刻な食料不足と土地不足へ近づきつつあるという。
「五家評議会は、いずれ国が立ち行かなくなると考えました。人間が生き残るためには、妖怪の住む土地を奪い、人間の領域を広げなければならないと」
「それで、妖怪を討伐しているんですか?」
「そうです」
皓月は静かに答えた。
「ですが、それまで神として崇めていた妖怪を、何の理由もなく攻撃することはできません。人々も納得しないでしょう。その時、私が生まれました」
皓月は自らの胸元へ手を添えた。
「私は、生まれながらに霊素へ適応していました。強い霊圧の中でも身体を害されず、霊素を自在に扱うことができた。五家評議会は、そんな私を人間側の新たな神として祀り上げたのです」
人々が信仰する神を、妖怪から皓月へ置き換える。
皓月こそが真の神であり、妖怪は人間を惑わす偽りの神である。
そう教えることで、妖怪に対する信仰を敵意へ変えた。
「妖怪たちは、そのことに気づいているんですか?」
「おそらく、まだ気づいていません」
人間が妖怪を狙い、計画的に領域を奪おうとしている。
その事実は、まだ妖怪全体には広まっていない。
妖怪は人間と違い、集団で国を築いているわけではない。それぞれが自らの領域で暮らし、他の妖怪と関わらない者も多い。
だからこそ、人間側の動きを知る者は限られていた。
そして五家評議会は、人間に襲われた妖怪を逃がさないよう命じている。
他の妖怪へ知られないために。
和華は、森で目にした光景を思い出した。
武器を手にして霊域へ進む人々。
狐の頭を持つ幼い妖怪へ、刃を振り下ろそうとした兵士。
あれは、単に妖怪を恐れていたからではなかった。
国が、人間の領域を広げるために行っていたことだった。
皓月は伏せていた目を上げる。
「五家評議会は、人口増加による食料不足を解決するため、妖怪の住む土地を奪おうとしています。しかし、それだけではありません」
その声には、今までとは異なる硬さがあった。
「五家評議会は、平民を積極的に妖怪討伐へ参加させています。兵士として十分な訓練を受けていない者まで、討伐隊へ加えているのです」
和華の脳裏に、森の前で倒れていた人々の姿が浮かんだ。
傷を負い、血を流し、それでも森へ入るよう命じられていた者たち。
「まさか……」
「討伐によって領土を得ることができれば、食料を生産する土地が増える。そして、討伐に参加した平民が命を落とせば、食料を必要とする人間の数が減る」
どちらに転んでも、食料不足は軽減される。
それが五家評議会の考えだった。
あまりにも冷たい。
人の命を、増えすぎた数としてしか見ていない。
「これが今の時代……いえ、この国の現状です」
皓月が言葉を結ぶ。
部屋の中に沈黙が落ちた。
和華はすぐに答えることができなかった。
五家評議会の行いは、到底受け入れられない。
しかし、この国が食料と土地の不足に直面していることも事実だった。
何もしなければ、いずれ多くの者が飢える。
だからといって、何もしていない妖怪の命と土地を奪ってよい理由にはならない。
「妖怪は、何も悪いことをしていないのに……」
和華の口から、自然と言葉がこぼれた。
「そうです」
皓月は迷うことなく同意した。
「本来であれば、互いの領域へ干渉しないことが最善だと、私は考えています。本当は、それ以上の関係を築きたい。人間と妖怪が共に生きられる道があるのなら、それを探したいのですが……」
「できないんですか?」
「今の五家評議会は、人間だけの世界を目指しています」
皓月は膝の上で両手を重ねた。
「人間が安全に暮らせる国を作る。その考え自体を、私は完全に間違いだと言い切れません。実際に妖怪を恐れながら暮らしている者もいます。妖怪によって命を落とした者がいることも事実です」
すべての妖怪が、人間へ危害を加えないわけではない。
妖怪にも、人間にも、それぞれ異なる考えを持つ者がいる。
「五家評議会の目指すものが正しいのか、そうでないのか。私は、今も結論を出せずにいます」
皓月の声には、王としてではなく、一人の少女としての迷いがにじんでいた。
「それに、五家評議会にとって、私は一つの駒にすぎません」
神と崇められ、国の頂点に立っているように見えても、実際に国を動かしているのは五家評議会だ。
皓月は民の信仰を集め、妖怪を排斥するために利用されている。
和華は以前から、皓月と五家評議会の関係が良くないことを感じていた。
しかし、ここまで深刻なものだとは思っていなかった。
「それを、どうして私に伝えたんですか?」
皓月は答えず、しばらく和華を見つめた。
やがて、その表情が少しだけ柔らかくなる。
「あなたには、この国の現状を知ってほしかったのです。直属護衛隊として任務へ就けば、いずれ知らなければならないことですから」
そこで皓月は言葉を止め、困ったように笑った。
「ですが……少し話しすぎてしまいましたね。和華が、私と同じくらいの年齢の女の子だからでしょうか」
その言葉を聞き、和華は改めて皓月の姿を見た。
神と呼ばれ、国を背負い、常に大勢の命について考えている。
そのため忘れそうになるが、皓月は和華とほとんど年齢が変わらない。
和華の世界にいれば、同じ高校へ通っていても不思議ではない少女なのだ。
放課後に友達と話し、悩みがあれば誰かに相談する。
本来なら、そんな毎日を送っていたはずだった。
そう思うと、今まで遠い存在に見えていた皓月へ、不思議な親近感が湧いた。
同時に、誰にも言えない思いを自分へ話してくれたことが嬉しかった。
「和華のことは、部下というよりも、友達のように思えてしまいます。私も、まだまだ子供ですね」
皓月がくすりと笑う。
「それなら、私も同じです」
和華もつられるように笑った。
張り詰めていた部屋の空気が、わずかに和らぐ。
和華は少し考えてから、自分の思ったことを正直に口にした。
「今のお話だけでは、五家評議会が完全な悪だとは思えません」
皓月が静かに続きを待つ。
「国の人たちが生きていくために、土地や食料が必要なのは分かります。何もしなければ、困る人がたくさん出てくることも。でも、何もしていない妖怪を悪者にしたり、平民の人たちをわざと危険な場所へ送ったりするやり方は、好きではありません」
「ええ。私も同じです」
皓月はうなずいた。
「この国の民は、幼い頃から妖怪が悪だと教えられています。五家評議会の言葉を疑う者はほとんどいません。洗脳されているような状態、と言ってもよいでしょう」
人間にとって、妖怪は倒すべき敵。
その考えが、この国では常識になっている。
「ですが、和華にはその常識がありません。妖怪とこの国の民、その両方を同じ立場から見ようとしている。その視点は、今のこの国にとって、とても貴重なものです」
「私は、ただ思ったことを、そのまま口にしているだけです」
「それが難しいのですよ」
皓月は穏やかに微笑んだ。
部屋の端に立つ衛穿へ目を向けても、相変わらず無言だった。
けれど、いつもより少しだけ表情が柔らかく見える。
「ずいぶん長い話になってしまいましたね」
皓月は窓の外を見て、時刻を確かめた。
「今日はゆっくり休んでください。三か月の訓練を終えたばかりですから」
「ありがとうございます」
「ただ、近いうちに和華へ、ある任務を任せたいと考えています」
和華は思わず身を乗り出した。
「任務ですか? ちなみに、どんな任務ですか?」
「それは、聞いてからのお楽しみということで」
「教えてくれないんですか?」
「楽しみは後へ取っておいた方がよいでしょう?」
皓月は楽しそうに笑っている。
その笑顔を見た瞬間、和華は訓練初日のことを思い出した。
皓月が「楽しみ」と言う時は、ろくなことにならない気がする。
「危険な任務ではないですよね?」
「どうでしょう」
「皓月様?」
追及しようとしても、皓月は微笑むだけだった。
和華は不安を残しながら、椅子から立ち上がる。
「では、失礼します」
皓月と衛穿へ一礼し、部屋を後にした。
寮へ戻ると、中から慌ただしい物音が聞こえてきた。
扉を開けると、我央と琉輝が武器や荷物の準備をしている。
我央は大きな武器を背負い、琉輝は腰の道具を一つずつ確認していた。
「お出かけですか?」
和華が尋ねると、我央が振り返った。
「ああ。任務でな」
「どんな任務ですか?」
「この前の討伐で逃した妖怪が見つかったらしい。そいつの討伐だ」
和華の胸が、どくりと鳴った。
「二人で行くんですか?」
「ああ」
「危なくないんですか?」
我央は背負った武器の位置を直しながら答える。
「相手の妖怪について分かっている情報に合わせて、向かう人員を決める。対象が一体なら、できるだけ少人数の方がいいんだ」
「どうしてですか?」
「強力な妖怪と出くわした時、人数が多いほど被害も大きくなる。それに、少人数の方が動きやすいし、逃げる時も楽だからな」
討伐へ向かうのに、逃げることまで考えている。
それほどまでに、妖怪との戦いは危険なのだ。
「そう……ですか……」
我央なら大丈夫だと思いたい。
琉輝も、直属護衛隊に選ばれるほどの力を持っている。
それでも、必ず無事に戻ってこられる保証はない。
「どうか、気をつけてください」
「おう! ありがとな」
我央はいつもの明るい笑顔を浮かべた。
「行ってくるー」
琉輝も普段と変わらない様子で手を振る。
しかし、和華の頭からは、先ほど聞いた言葉が離れなかった。
この前の討伐で逃した妖怪。
おそらく、和華が皓月たちと戦った時、森にいた妖怪のことだ。
あの時、和華が霊波を発生させ、周囲を混乱させた。
その隙に逃げた妖怪がいたとしても不思議ではない。
自分が原因なのかもしれない。
もし、その妖怪が人間から襲われたことを他の妖怪へ伝えれば、人間が妖怪の領域を奪おうとしていることが知られてしまう。
人間側の動きが妖怪全体へ広まれば、報復が始まるかもしれない。
やがて、人間と妖怪の戦争へ発展する可能性もある。
皓月から話を聞いた今なら、人間から攻撃した妖怪を逃してはならないという理由も理解できた。
理解はできる。
それでも、納得はできなかった。
何も知らずに暮らしていたところを人間に襲われ、逃げたという理由で命まで奪われる。
あまりにも理不尽だった。
何か別の方法があるのではないか。
戦わずに済む方法。
人間の計画を他の妖怪へ伝えないと、約束してもらう方法。
簡単ではないと分かっていても、初めから殺すことだけを選ぶのは間違っている気がした。
「あの、私も行って――」
「駄目だ!」
我央の大きな声が、和華の言葉を遮った。
驚いて顔を上げる。
我央が真剣な表情で、和華を見つめていた。
いつも豪快に笑い、多少のことは冗談で済ませる我央が、このような顔をするのを和華は初めて見た。
その迫力に押され、続けようとしていた言葉が喉の奥へ引っ込む。
「はい……」
我央は和華が黙ったことを確認すると、少しだけ声を和らげた。
「まあ、あれだ。俺たち直属護衛隊は人数が少ない。表には出せない任務を任されて、こうして動くこともあるが……俺たちの最優先は、皓月様の護衛だ」
我央は自分の胸元にある護衛隊の紋章を指した。
「和華も正式に隊へ入ったんだ。それを忘れないようにな」
「分かりました」
護衛隊である以上、自分の感情だけで動くことはできない。
皓月を守るという役目がある。
頭では理解できても、胸の奥に残ったものは消えなかった。
「それじゃ、行ってくる」
「留守番よろしくー」
我央と琉輝は扉を開け、寮を出ていった。
閉じられた扉を、和華はしばらく見つめていた。
その夜、和華はなかなか眠ることができなかった。
寝台へ入り、何度も寝返りを打つ。
目を閉じるたび、森で見た妖怪たちの姿が浮かんだ。
あの妖怪は、すでに見つかってしまったのだろうか。
我央と琉輝は、戦っているのだろうか。
無事に戻ってきてほしい。
けれど、妖怪にも死んでほしくない。
その二つの願いは、同時にはかなわないのかもしれない。
皓月は、人間と妖怪が共に生きる道を探したいと言っていた。
しかし今この瞬間にも、人間は妖怪を討ち、妖怪の土地を奪おうとしている。
自分に何ができるのだろう。
何かを変えられるほど、自分は強くない。
この国についても、妖怪についても、まだ知らないことばかりだ。
それでも、何も知らなかったことにはできなかった。
和華は暗い天井を見つめたまま、我央たちの帰りを待ち続けた。
窓の外が明るくなるまで、その夜はどこまでも長く感じられた。




