第四話「訓練」
「おーい。起きろー。隊長がお呼びだぞー」
遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。
和華は布団の中で小さく唸り、重い瞼をゆっくりと開いた。
目の前には、ベッドを覗き込む帆積の顔があった。
「……おはようございます」
掠れた声で挨拶をする。
昔から、和華は朝が弱かった。
目は開いているものの、頭はまだ眠ったままだ。ここがどこなのかも分からず、ぼんやりと帆積を見つめる。
「おう。おはよう。衛穿隊長が下で待っているぞ」
「隊長が……?」
その言葉を聞いた途端、眠っていた頭が急速に動き始めた。
昨日、皓月から明日の九時に迎えに行くと言われていたことを思い出す。
「ぅえ!? すぐ準備します!」
和華は勢いよく上半身を起こした。
全身に残る痛みで顔をしかめながらも、慌ててベッドから飛び降りる。顔を洗い、髪を整え、急いで制服へ着替えた。
階段を駆け下りると、居間には護衛隊の面々が集まっていた。
「お待たせしました!」
息を切らしながら声を上げる。
衛穿は壁際に立ち、腕を組んで待っていた。
「ついて来い」
それだけ告げると、衛穿は扉へ向かって歩き出した。
「いってきます!」
和華は皆へ頭を下げ、衛穿の後を追った。
扉を閉める直前、何気なく帆積へ目を向ける。
帆積は先ほどから、下着に近い格好のまま平然と長椅子へ座っていた。
あまりにも堂々としていたため、本人にとっては普通のことなのかもしれない。
気にはなる。
非常に気にはなるのだが、出会って一日しか経っていない相手へ指摘できるほど、和華は勇敢ではなかった。
衛穿に連れられ、城の渡り廊下を進む。
朝の光が差し込む廊下を抜けた先には、大きな建物があった。
中へ入ると、和華はその広さに目を見開いた。
高い天井。
遮るもののない広い床。
壁際には木剣や槍、見たことのない形の武器が整然と並べられている。
元の世界にある屋内運動場によく似ていた。
「おはようございます、和華」
訓練場の中央に、皓月が立っていた。
「おはようございます」
和華も頭を下げる。
皓月は、森で初めて見た時とよく似た服を着ていた。
全体は白を基調としており、裾や袖には細かな装飾が施されている。動きやすそうな造りでありながら、どこか姫君のドレスを思わせる華やかさがあった。
皓月が身につけると、訓練着にさえ気品が感じられる。
「まずは、着替えてきていただきましょう。衛穿、案内をお願いします」
「承知しました」
再び衛穿に連れられ、訓練場の奥にある更衣室へ向かう。
「着替えたら、先ほどの訓練場へ来い」
「はい!」
衛穿が立ち去り、和華は更衣室へ入った。
着替えはどこにあるのだろう。
そう思いながら室内を見回すと、長椅子の上に一式の服が用意されていた。
皓月と同じく、白を基調とした服だった。
ただし、皓月の服にあるような華やかな装飾はなく、造りは簡素だ。身体を動かしやすいように腕や脚の部分が絞られ、腰には小さな道具を取りつけられる帯もある。
和華が想像する戦闘服に近い。
「本当に兵士になるんだ……」
少しだけ不安を感じながら、制服を脱いで訓練着へ袖を通した。
着替えを終え、訓練場へ戻る。
そこで和華は、思いもよらない光景を目にした。
「どうしたんですか!?」
先ほどまで何事もなかった衛穿が、なぜか全身を土埃で汚していた。
服の一部は破れ、髪も乱れている。
わずかな時間しか経っていないはずなのに、激しい戦いを終えた直後のような姿だった。
「どうもしない」
衛穿は何事もなかったかのように答えた。
「皓月様を待たせるな」
「は、はい!」
和華は急いで皓月のもとへ走った。
振り返ると、衛穿が険しい表情で服についた土を払っている。
いったい、何があったのだろう。
もしかすると、皓月は笑顔で無茶な命令をするパワハラ上司なのかもしれない。
そんな疑いを抱きながら、和華は皓月の前で立ち止まった。
「お待たせしました」
「はい! では、お勉強を始めましょうか!」
皓月は満面の笑みを浮かべていた。
その日、和華は初めて霊素について詳しく学んだ。
霊素とは、この世界の大気中に存在する力である。
人間も妖怪も、体内に霊素があり、それを霊力へ変えることでさまざまな現象を引き起こす。
しかし、明確な違いがあった。妖怪は大気中から霊素を取り込む事ができるが、人間は食事などによって取り込んでいる。よって霊力が回復する時間に大きな差があった。
霊力は、
武器を強化する。
身体能力を高める。
傷を治す。
等が可能だが、扱う者の性質や技量によって、できることは大きく異なるらしい。
一通りの説明を受けた後、和華は実際に霊素を扱う訓練を始めた。
「まずは、身体の中にある霊素を感じ取ってください」
「感じ取ると言われても……」
「目には見えなくても、確かにそこにあります。手の先へ意識を集中させてみましょう」
和華は言われた通り、右手を前へ伸ばした。
目を閉じ、意識を腕へ集中させる。
初めは何も分からなかった。
しかし、以前、燕華に身体を動かされた時の感覚を思い出すと、腕の奥にかすかな流れがあることに気づいた。
血の流れとは違う。
温かくも冷たくもない何かが、身体の中心から腕へ向かって移動している。
「そのまま、外へ押し出してみてください」
皓月の声に従い、和華は掌へ意識を集めた。
次の瞬間、掌の前で空気がわずかに揺れた。
「できました……?」
「ええ。初めてとは思えないほど滑らかです」
皓月の赤い瞳が輝く。
「もっと出力を上げてみましょう」
「もっとですか?」
「はい。遠慮はいりません」
和華は再び腕の中へ意識を向けた。
身体の奥から霊素を引き出し、掌へ流していく。
「良いではないですか! さあ、もっと出力を上げて!」
「くっ……!」
押し出した霊素が風となり、和華の髪と服を激しく揺らす。
皓月は、なぜかとても楽しそうだった。
霊素を扱う感覚は、腕に力を入れることとは大きく異なる。
腕そのものを動かしているのではなく、腕の中にある別の通路へ力を流しているような感覚だった。
血が血管を流れるように、霊素が霊脈を通っている。
燕華に身体を動かされた経験があったからだろう。
難しいと感じながらも、和華は思っていた以上に早く、その感覚をつかむことができた。
それから、和華の生活は単調なものとなった。
朝起きて、訓練をする。
訓練が終わると、皓月へ元の世界の話をする。
宿へ戻り、眠る。
翌朝になれば、再び訓練場へ向かう。
皓月は元の世界の話を聞くたびに、新しい知識を紙へ書き留めた。
農業機械。
電気。
自動車。
水道。
電話。
和華が詳しい仕組みを説明できなくても、皓月はわずかな情報から、この世界に応用できる方法を考えていた。
一方、和華は訓練を重ねるたびに、少しずつ霊素を扱えるようになっていった。
数日が経つ頃には、一般の訓練された兵士と同程度の霊素を扱えるまでに成長していた。
霊脈を持つことが、大きく影響しているらしい。
しかし、そこからが問題だった。
「次は、型を決めなければなりません」
皓月からそう告げられた時、和華は以前、琉輝と琉魅から何型なのかと尋ねられたことを思い出した。
霊力を使った戦闘には、大きく分けて三つの型が存在する。
正面から強い力をぶつけ、相手の守りを破ることを得意とする攻撃型。
霊力を身体や武器へまとわせ、相手の攻撃を受け流す防御型。
特殊な武器や技術を組み合わせ、相手の予想を崩す変則型。
それぞれには相性がある。
攻撃型は変則型に強く、防御型に弱い。
防御型は攻撃型に強く、変則型に弱い。
変則型は防御型に強く、攻撃型に弱い。
ただし、それは同程度の実力を持つ者同士が戦った場合の話であり、絶対的なものではないという。
そして和華には、他の人間にはない特徴があった。
人間は大気中の霊素が体内へ入り込まないよう、自らの霊素で身体を守っている。周囲に漂う霊素の圧力――霊圧が強ければ、その分だけ身体へかかる負担も大きくなる。
しかし、妖怪の霊脈を持つ和華は霊圧の影響を受けにくい。
それだけでなく、霊脈を通じて大気中の霊素を直接取り込むことができる。
霊脈とは、霊素を取り込んで力へ変える消化器官のようなものなのだろう。
和華が体内に蓄えられる霊素の量は、それほど多くない。
だが、周囲から新たな霊素を取り込み続けられるため、霊素が存在する場所であれば、理論上はほとんど制限なく力を使える。
それこそが、和華の特出した能力だった。
その特徴を最大限に活かすため、皓月は和華へ変則型を勧めた。
「これで、ある程度の霊素は扱えるようになりました。覚えが早くて助かりました」
皓月が満足そうに微笑む。
「では、次はこちらを」
そう言って差し出された物を見て、和華は目を疑った。
「これって……」
黒く短い筒。
握るための柄。
引き金。
細かな部分に違いはあるものの、それが何を模した物なのかはすぐに分かった。
皓月から渡されたのは、紛れもなく拳銃だった。
恐る恐る受け取ってみる。
見た目に反して軽く、片手でも問題なく持つことができた。
「この世界では、霊素によってほとんどのことができてしまいます」
皓月は拳銃を指しながら説明を始めた。
「霊素は便利です。しかし万能であるがゆえに、霊素を使わない技術については、和華のいた世界よりも発展が遅れていることが分かりました」
皓月が拳銃の先端へ触れる。
「これは、あなたから聞いた銃を参考に作らせた試作品です。弾丸は入っていません。代わりに霊素を流し込むことで、少量の霊素を弾丸のように撃ち出すことができます」
「もう作ったんですか?」
和華がこの世界の銃について話したのは、ほんの数日前だった。
「構造を再現する必要はありませんでしたから。霊素を前方へ放つための形と、照準を定める仕組みだけを参考にしました」
皓月は何でもないことのように答えた。
「一発の威力は低く、命中しても致命傷にはなりません。しかし、相手の動きを妨害するには十分です。体内に蓄えられる霊素が少なくても、周囲から霊素を取り込み続けられる和華には、適した武器になると思うのですが……いかがですか?」
銃弾を発射するわけではないため、撃った時の反動もほとんどないという。
それならば、自分にも扱えるかもしれない。
和華は拳銃を両手で持ち、その重さを確かめた。
「ありがとうございます。使ってみます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
皓月は柔らかく微笑んだ。
「あなたが親身になって元の世界の話をしてくださったおかげです。そして、和華。もう一つ、お伝えすることがあります」
「何ですか?」
「あなたの、直属護衛隊への正式な入隊が決まりました」
和華は驚き、拳銃から顔を上げた。
「これで、私も正式に護衛隊の一員ということですか?」
「はい。あなたを私のそばへ置く理由も明確になりました。これまで以上に、あなたを守りやすくなります」
皓月が和華を護衛に選んだのは、戦力として期待しているからだけではない。
別の世界から来たという秘密。
妖怪から移植された霊脈。
和華の存在を狙う者が現れた時、皓月の直属護衛という立場そのものが、彼女を守る盾になる。
「ありがとうございます」
和華は深く頭を下げた。
「さあ、これで明日から、本当の訓練ができますよ!」
「はい! よろしくお願いします!」
顔を上げた和華は、皓月がこれまで以上に楽しそうな表情を浮かべていることに気づいた。
その笑顔に、なぜか一瞬だけ不安を覚えた。
訓練を終え、和華は宿へ戻った。
いや、もう宿ではない。
ここは今日から、自分の寮だ。
扉を開けた途端、護衛隊の面々が和華を迎えた。
「入隊おめでとさん!」
我央が大きな手を叩く。
「おめでとー!」
琉輝と琉魅が、声を揃えて笑った。
机の上には料理や飲み物が並べられている。和華の正式な入隊を祝うために、皆で準備してくれたらしい。
「ありがとうございます!」
胸の奥が温かくなる。
この世界へ来てから、不安なことばかりだった。
人々から信じてもらえず、森で兵士と戦い、気づけば牢へ入れられていた。
それでも今は、自分を迎え入れてくれる者たちがいる。
「これで正式に、代理隊長を任せられるな」
帆積が真顔で言った。
「いやですよー」
和華は笑いながら断った。
出会ってから数日しか経っていないにもかかわらず、帆積が代理隊長の役目を誰かへ押しつけようとするのは、いつものことだと分かり始めていた。
最近では、もう真面目に受け取らず聞き流している。
皆と食事をしながら、和華は何度も笑った。
友達ができたという感覚とは、少し違う。
同じ場所で暮らし、同じ役目を持つ仲間ができた。
それが嬉しくて、楽しかった。
「そういえば、明日から本当の訓練が始まるみたいです!」
和華が何気なく報告すると、その場が静まり返った。
「…………」
我央の笑顔が引きつる。
琉輝と琉魅はそっと目を逸らし、帆積は小さく息を吐いた。
「……おう! そうか。頑張れよ!」
我央が無理に明るい声を出す。
「?」
和華は首を傾げた。
皆の反応が、どこかおかしい。
理由を尋ねようとしたが、すぐに話題を変えられてしまった。
そうして皆に祝われながら、その日は穏やかに終わった。
翌日。
和華は、皆が奇妙な反応をした理由を理解した。
本当の訓練とは、皓月との一騎打ちだった。
そして皓月は、加減というものを知らなかった。
「足が止まっていますよ!」
皓月が床を蹴る。
白い姿が一瞬で和華の視界から消えた。
「えっ――」
横から衝撃を受け、和華の身体が吹き飛ばされる。
床を何度も転がり、壁の手前でようやく止まった。
「いったぁ……」
息をするだけで脇腹が痛い。
以前、衛穿が訓練場でぼろぼろになっていた理由も、ようやく分かった。
あれも皓月の訓練に付き合わされた結果だったのだろう。
前日の夜、明日から本当の訓練が始まると伝えた時、皆の表情が強張っていたのも納得できる。
「大丈夫ですか?」
皓月が和華のそばへ駆け寄ってきた。
心配してくれるのかと思い、和華は差し出された手を取った。
皓月から温かな霊素が流れ込む。
脇腹の痛みが急速に引き、擦りむいた腕の傷まで消えていった。
「治った……」
「では、続けましょう!」
「もう少し休ませてください!」
皓月の訓練でもっとも恐ろしいのは、傷を負ってもすぐに治されることだった。
妖怪の霊脈を持つ和華は、皓月から霊素を流し込まれることで、驚くほど治癒能力が上がる。皓月が和華の霊力に合わせた霊素を流すことで、傷が一瞬で治ってしまう。
衛穿や他の隊員には、霊脈がないため同じことはできないらしい。
回復させることができる。
つまり、多少無茶をさせても問題はない。
皓月は、壊れない玩具を手に入れた怪物のようになっていた。
「正面だけを銃で狙っても、相手の体勢を崩すことはできませんよ! 手や足、関節を狙いなさい!」
「そんなこと言われても!」
和華は床を蹴り、皓月へ向けて拳銃を構えた。
引き金を引く。
小さな光の弾丸が、皓月の右脚へ飛んでいく。
しかし、皓月が腕を振るだけで霊弾は弾き飛ばされた。
直後、何倍もの威力を持つ霊力が返ってくる。
「うわっ!」
和華は咄嗟に横へ跳び、床を転がった。
皓月から距離を取りながら、腰に差していた武器へ手を伸ばす。
それは銃とともに渡された、刀の柄だけのような道具だった。
柄へ霊素を流す。
次の瞬間、先端から霊素の刃が伸びた。
元の世界で見た映画に登場する光の剣によく似ている。
どのような仕組みなのか、和華にはまったく分からない。
だが、普通の剣よりも軽く、必要な時だけ刃を出せるため、銃と同時に扱いやすかった。
銃で相手の体勢を崩し、間合いへ入ったところを短刀で斬る。
それが、皓月の考えた和華の戦闘方法だった。
皓月が得意とするのは攻撃型である。
攻撃型は、和華の変則型に対して有利な型だ。
しかし、訓練中の皓月は攻撃型ではなく、あえて和華が有利となる防御型で相手をしてくれていた。
型の相性だけで考えれば、和華の方が有利なはずだった。
それでも、勝てない。
それどころか、一度も攻撃を当てることができなかった。
撃った霊弾は、すべて弾かれる。
短刀が届く距離へ踏み込む前に、投げ飛ばされる。
わずかな隙を見つけたと思えば、それさえ皓月の誘いだった。
そして倒れるたびに傷を治され、再び立たされる。
容赦がなかった。
それから数日。
いや、数週間にわたり、同じような訓練が続いた。
皓月も国を率いる立場にあるため、毎日訓練場へ来られるわけではない。
皓月が不在の時は、衛穿が和華の相手を務めた。
その間、皓月の付き人は帆積が担当していたらしい。
最近、帆積のため息が増えた理由は、それだろう。
衛穿が得意とする型は防御型だった。
相性では和華の方が有利である。
初めはまったく攻撃を当てられなかったが、訓練を重ねるうちに、銃で動きを誘導し、短刀を届かせられるようになっていった。
数回に一度は、衛穿の服へ刃を掠めることもできる。
それでも、勝つことはできなかった。
「動きが単純だ」
衛穿が和華の短刀を受け流す。
「銃を撃った後、必ず右から踏み込んでいる」
「でも、左からだと剣を振りにくくて!」
「ならば、左から踏み込む方法を覚えろ。自分が動きやすい方法は、相手にとっても読みやすい」
「はい!」
注意された部分を意識しながら、再び銃を構える。
少しずつではあるが、自分が強くなっていることを和華自身も感じていた。
気がつけば、和華がこの世界へ来てから三か月が経過していた。
皓月には、いまだ一度も攻撃を当てられていない。
それでも、一般の兵士に設けられている三か月の訓練期間を、和華も無事に終えることができた。
今後は決められた訓練ではなく、自主的に身体と霊力を鍛えていくことになる。
ただし、皓月に呼び出され、新しい霊素の使い方を試されることがあるらしい。
それは衛穿から聞いた。
「実験……」
その言葉を思い出すだけで恐ろしい。
霊脈を持つ和華は、皓月の霊素によって傷を回復できる。
壊れても、すぐに直せる。
そのため、今後は衛穿たちではなく、和華が実験へ呼ばれる可能性が高いという。
この話になると、護衛隊の皆は決まって哀れむような目で和華を見る。
訓練期間の終了に合わせて、正式な護衛隊の戦闘服も支給された。
白を基調とした、丈の長いコートのような服だった。
肩や胸元には護衛隊の紋章が入り、腰の帯には銃と短刀を取りつける場所がある。
今後は任務中、この服を羽織ることになるという。
和華は自室にある姿見の前で、何度も自分の姿を確認した。
少し嬉しい。
いや、かなり嬉しかった。
三か月前までは、普通の高校生だった。
それが今は、異なる世界の城に立ち、神と呼ばれる少女の護衛になっている。
まだ元の世界へ帰る方法は見つかっていない。
燕華がどこにいるのかも分からない。
自分の中にある霊脈についても、知らないことばかりだ。
それでも和華は、この世界で生きるための力と、自分を迎えてくれる仲間を手に入れた。
何はともあれ、これで地獄の訓練期間は終了した。
少なくとも、この時の和華はそう思っていた。
◇
その夜。
皓月は自室の机に向かい、五家評議会から届けられた書状へ目を通していた。
机の上には、同じ印が押された書状が何通も積み重なっている。
そのどれにも、和華の直属護衛隊への入隊に対する疑念が記されていた。
皓月は最後の一通を読み終えると、静かに机へ置いた。
「なんとか、ここまで来られました」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
和華を直属護衛隊へ入隊させるまでの道のりは、決して容易なものではなかった。
五家評議会では、今も和華を妖怪だと疑う声が絶えない。
人間でありながら妖怪の霊脈を持ち、大気中の霊素を取り込むことができる。
その特異な体質を考えれば、疑念を抱かれること自体は仕方のないことだった。
しかし、彼らが和華を警戒する理由は、未知の存在だからというだけではない。
自分たちの理解できない力を持つ者が、皓月のそばにいる。
それ自体が、五家評議会にとっては脅威となる。
皓月は評議会の反対を一つずつ退け、半ば強引に和華を直属護衛隊へ入隊させた。
王の護衛となった以上、五家評議会も表立って和華へ手を出すことは難しくなる。
だが、それで完全に安全になったわけではない。
五家評議会が、和華の命を狙う可能性も十分に考えられた。
だからこそ、皓月は和華へ厳しい訓練を課した。
自分が常にそばにいられるとは限らない。
いざという時、和華自身が生き残るための力を身につけていなければならなかった。
皓月は椅子の背へ身体を預け、机の上に置かれた黒い拳銃の設計図へ目を向けた。
和華から聞いた話をもとに作らせた、霊素を弾丸として放つ武器。
試作品は、想像していた以上の成果を見せている。
(和華から得た情報は、極力、五家評議会には伝えたくありませんね)
和華が、この世界よりも発展した別の世界から来たことを、五家評議会は知らない。
皓月も、その事実を知らせるつもりはなかった。
情報は武器になる。
和華から聞いた知識の価値を五家評議会が知れば、彼女を利用しようとする者が必ず現れる。
あるいは、自分たちの地位を脅かす存在として、今以上に排除しようとするかもしれない。
どちらにしても、和華の身が危険にさらされることに変わりはなかった。
和華から得た技術は、まず直属護衛隊で実用化する。
その成果を外部へ漏らさず、直属護衛隊だけで独占する。
それが皓月の考えだった。
王である皓月が、自らの意思で動かせる部隊は直属護衛隊しかない。
国内に存在するほぼすべての部隊は、五家の一つであり、軍事を担う剛家の剛毅を中心に指揮権を握っている。
五家評議会が皓月へ反旗を翻した時、直属護衛隊だけで国の軍勢を相手にしなければならない可能性さえあった。
それが国民のためなら首を差し出しても良い。
しかし、今の五家評議会は私利私欲に溺れ腐敗している。
今の皓月の戦力では、到底太刀打ちできない。
和華の命を守るためにも、自らの手で動かせる戦力を底上げする必要がある。
銃だけではない。
和華が話してくれた道具、仕組み、考え方。
それらを霊素と組み合わせれば、これまでにない武器や戦術を生み出せるかもしれない。
「はぁ……」
皓月は小さくため息をついた。
考えなければならないことが、あまりにも多い。
視線を設計図から外すと、机の隅に置かれた古い書物が目に入った。
表紙は黒ずみ、角は崩れかけている。
城内の禁書庫から、密かに持ち出したものだった。
この世界は、かつて二つの世界が重なり、一つとなったことで生まれた。
二つの世界が融合する以前、人間たちは今よりもはるかに高度な文明を築いていたという。
空を飛ぶ巨大な乗り物。
遠く離れた者同士が会話するための道具。
霊素を使わず、街を昼のように照らす光。
人の手を借りずに動く機械。
皓月は禁書庫で、その文明について記された書物を読んだことがあった。
当時は、書かれている内容の多くを理解できなかった。
空想か、誇張された伝承だと思っていたものもある。
しかし、和華から元の世界について聞くうちに、その考えは変わった。
皓月は古びた書物を開く。
傷んだ紙の上には、四つの車輪を持つ箱のような乗り物が描かれていた。
その形は、和華が話していた自動車という乗り物によく似ている。
別の頁には、薄い板を手に持つ人々の姿が描かれていた。
遠くにいる者と声を交わし、文字や絵を送り合うことができる道具。
それもまた、和華から聞いた電話というものと一致していた。
電気。
鉄道。
水道。
建築物。
和華は詳しい仕組みまで説明できなかったが、その世界で当たり前に使われていた物の特徴は、書物に残された記録と驚くほどよく似ている。
皓月は何度も頁をめくり、和華から聞き取った内容を書き留めた紙と見比べた。
単なる偶然では片づけられない。
「一致している……」
皓月の呟きが、静かな部屋に落ちる。
和華は、自分が別の世界から来たと思っている。
皓月も、初めはそう考えていた。
二つの世界が融合したのなら、今もどこかに別の世界が存在していたとしても不思議ではない。
だが、もしそうではなかったとしたら。
和華が話す世界が、融合以前に存在した人間の文明と同じものだとしたら。
和華が遥か過去からこの世界へ現れた理由。
妖怪の霊脈を受け入れることができた理由。
それらは本当に、偶然なのだろうか。
皓月は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
窓の外には、夜の城下町が広がっている。
霊素の光が点々と灯り、その向こうには暗い森が横たわっていた。
空には、大きな満月が浮かんでいる。
青白い月明かりが窓から差し込み、皓月の白銀の髪を照らした。
「和華がいた元の世界は、別の世界ではなく……過去だとしたら……」
その言葉に答える者はいない。
皓月は満月を見上げたまま、しばらく動かなかった。




