第三話「王宮」
和華が目を覚ますと、辺りは薄暗かった。
見覚えのない天井が、ぼんやりと視界に映っている。
「……ここ、どこ……?」
声を出そうとして、思いとどまった。
全身が痛い。
激しい運動をした翌日のように、身体中の筋肉が軋んでいた。指先をわずかに動かしただけでも、腕の奥に鈍い痛みが走る。
私は、何をしていたんだっけ。
今日は、始業式だった。
家を出て、学校へ向かって――。
そこで記憶が途切れ、代わりに現実とは思えない光景が次々と浮かんでくる。
見知らぬ山。
人ではないものが暮らす森。
犬の面をつけた燕華。
神と呼ばれていた白銀の少女、皓月。
武器を持った兵士たち。
そして、自分の意思とは関係なく動き、戦っていた身体。
別の世界へ来てしまった。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
あれは夢だったのかもしれない。
それにしては、妙に生々しい夢だった。
和華は考えながら、痛む首を傾けた。
部屋の片側から、わずかに光が差し込んでいる。
そちらへ目を向けた瞬間、身体が強張った。
鉄格子。
部屋の入口を塞いでいるのは、どう見ても頑丈な鉄格子だった。
「……牢屋?」
無意識に漏れそうになった声を、慌てて呑み込む。
森での皓月の言葉が蘇った。
和華が放ったという霊波。
それによって命を落とした兵士たち。
本当に、私が殺してしまったのだろうか。
ただ大声を出しただけだった。
誰かを傷つけようとしたわけではない。
それでも、結果として人が死んだのなら――。
和華は身体を起こそうとした。
しかし、腕に力を入れたところで、何かがおかしいことに気づく。
両手が動かない。
足も、ほとんど動かせなかった。
手首と足首が、それぞれ縄で縛られている。
やっぱり。
私は、罪人として捕まったんだ。
胸の奥から、恐怖が込み上げてくる。
「誰か――」
呼びかけようとして、再び口を閉ざした。
霊波というものが、声によって起こるのだとしたら。
不用意に声を出せば、また誰かを傷つけてしまうかもしれない。
今は、下手に喋らない方がいい。
だが、このまま何もせずにいるわけにもいかなかった。
和華は身体を横へ倒し、ベッドの端まで少しずつ転がった。せめて、鉄格子の向こうに誰かいないか確かめようとしたのだ。
もう少し。
あと少しだけ――。
身体が、ベッドの端を越えた。
「――っ!」
そのまま床へ落ちる。
鈍い音が部屋に響き、全身へ強烈な痛みが走った。
(いったぁ――!)
叫び声を必死に堪え、床の上で丸くなる。
痛い。
ただでさえ全身が筋肉痛なのに、どうしてこんなことをしたのだろう。
牢屋に入れられているということは、自分が何か悪いことをしたと思われているか、そう判断されるだけの証拠があるということだ。
少なくとも、元の世界ではそうだった。
この世界も、建物や服装こそ違うが、基本的な考え方まで大きく異なるようには見えなかった。
ならば、自分は罪人ということになる。
この状況から逃れるには――脱獄。
和華は鉄格子を見上げた。
手足を縛られ、全身が筋肉痛で、ベッドから落ちただけで動けなくなっている。
無理だ。
どう考えても無理だった。
(こんなことなら、大人しく寝ていればよかった……)
床へ頬をつけたまま、深く後悔する。
(ベッドに戻りたい……)
その時だった。
遠くから、複数の足音が聞こえてきた。
一定の間隔で鳴る硬い靴音が、ゆっくりと近づいてくる。
どうしよう。
起きていると分かれば、すぐに尋問されるかもしれない。
まだ、寝たふりをしていた方がいいのだろうか。
和華は慌てて目を閉じた。
床へ落ちた状態で寝たふりをすることに、どれほど意味があるのかは分からない。それでも、今できることはそれくらいだった。
やがて、足音が鉄格子の前で止まった。
「まだ、気を失っているようですね」
聞き覚えのある男の声だった。
衛穿だ。
「気を失っているふりをしているだけですよ」
続いて、少女の声が聞こえる。
「もう起きていることは、分かっていますよー」
皓月だった。
完全に見抜かれている。
和華は観念し、恐る恐る片目を開いた。
「……私、喋っても大丈夫ですか?」
声を出したのは、皓月の言葉にどこか優しさを感じたからだった。
すると、皓月の顔がぱっと明るくなった。
「やりました! 当たりましたよ、衛穿!」
「……お見事でございます」
衛穿は淡々と答えた。
和華は目を瞬いた。
バレていたわけではなかったらしい。
騙された。
「…………」
「あっ、すみません!」
和華が黙り込むと、皓月が慌てて両手を振った。
「喋っていただいて大丈夫です。ただし、念のため、大きな声だけは出さないでくださいね」
そう言って、にっこりと笑う。
森で兵士たちを指揮していた時とは、まるで別人のようだった。
皓月は床に転がっている和華を見て、すぐに衛穿へ顔を向ける。
「衛穿、縄を解いてちょうだい」
「承知しました」
衛穿が鍵を使って鉄格子を開ける。
牢へ入ると、和華の手首と足首を縛っていた縄を手際よく解いた。
「あの……ありがとうございます」
自由になった手首をさすりながら、和華は二人を見上げる。
聞きたいことはいくつもあった。
だが、まず確かめなければならないことがある。
「私は……罰を受けるんですか?」
皓月は少し驚いたように目を見開いた。
それから、和華を安心させるように柔らかく微笑む。
「その心配はありません」
「でも、私のせいで兵士の人たちが……」
「そのことも含めて、後ほどお話ししましょう」
皓月は鉄格子へ視線を向けた。
「あなたを新手の妖怪だと疑っている者が、まだ城内におります。そのため、目を覚ますまで、このような場所へ入れざるを得ませんでした」
そう言って、深く頭を下げる。
「本当に申し訳ございません」
形式だけの謝罪ではなかった。
その表情から、本当に悪いと思っていることが伝わってくる。
「いえ……大丈夫です」
和華は慌てて答えた。
目の前にいるのは、本当にあの皓月なのだろうか。
森で見た皓月は、兵士たちへ迷いなく命令を下し、自分へ剣を向けてきた。その姿は冷たく、近寄りがたいものに思えた。
だが、今の皓月は同じ年頃の少女にしか見えない。
「立てますか?」
「身体中が筋肉痛みたいに痛くて……。ゆっくりでもいいですか?」
「もちろんです。では、ゆっくり行きましょう」
皓月と衛穿に支えられながら、和華は立ち上がった。
全身が悲鳴を上げている。
燕華に身体を操られていた時、普段は使わない筋肉まで無理やり動かされていたのだろう。
三人は牢を出て、薄暗い廊下を進んだ。
階段を上り、重い扉を開ける。
外へ出た和華は、建物を振り返った。
牢屋が入っていた建物自体が、さらに高い鉄格子で囲まれている。逃亡を防ぐための二重構造なのだろう。
外側の門を抜けると、景色が一変した。
「わあ……」
和華は思わず声を漏らした。
森の近くで見た里とはまるで違う。
道路には石畳が敷かれ、その両側には木造と石造りの建物が並んでいる。屋根や柱にはどこか和風の趣があるが、窓や壁の造りは西洋の街並みに近い。
和洋折衷。
その言葉が、もっとも近いように思えた。
道には多くの人が行き交っていた。
荷車を引く者。
店先へ野菜を並べる者。
鎧を身につけた兵士。
見慣れない服装であるにもかかわらず、人々の営みそのものは元の世界と大きく変わらない。
和華が夢中になって街を眺めていると、皓月が小さく微笑んだ。
「では、行きましょうか」
皓月が進む先へ目を向ける。
街の奥には、巨大な城がそびえていた。
白い石壁に、いくつもの尖塔。
和華が想像する西洋の城に近い。
牢の外では、皓月の護衛と思われる兵士たちが待っていた。和華は彼らに囲まれながら、皓月たちとともに城へ向かった。
「皓月様、お帰りなさいませ」
「今日もお美しいですね、皓月様」
道を歩く人々が、次々と皓月へ声をかける。
その表情にあるのは、恐怖ではない。
尊敬と親しみだった。
森の近くにあった里では、皓月を前にした人々は怯えるように頭を下げていた。しかし、この街の住民たちは、敬意を払いながらも嬉しそうに皓月へ手を振っている。
皓月も、小さく手を振って応えていた。
同じ国の中でも、皓月に対する印象は違うらしい。
一行は大きな門をくぐり、城の中へ入った。
「お腹が空いているでしょう?」
広い玄関広間へ入ったところで、皓月が和華へ振り返った。
「まずは食事になさってください。お話は、その後にしましょう」
先ほどまでとは、少し雰囲気が違っていた。
背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる姿は、物語に登場する姫君のようだ。
牢にいた時は、年相応の少女に見えた。
しかし、兵士や城の者たちの前に立つと、皓月は人々を率いる者へと変わる。
(私と同じくらいの年なのに、すごいなあ……)
和華は素直に感心していた。
皓月と衛穿に別れを告げ、案内役の兵士についていく。
連れてこられたのは、大きな長机が置かれた部屋だった。
席へ着くと、すぐに料理が運ばれてきた。
それを見た途端、和華の腹が小さく鳴る。
今まで緊張していて気づかなかったが、ひどく空腹だった。
皿の上には、鶏の唐揚げによく似た料理が盛られている。他にも、温かいスープや、トマトにそっくりな赤い野菜の入ったサラダが並んでいた。
少し前までダイエットを決意していたことなど、完全に頭から消えた。
「いただきます」
和華は夢中になって食べた。
味も、元の世界の料理とほとんど変わらない。
城で出される食事にしては、驚くほど家庭的だった。
豪華な食器に載ってはいるものの、高級そうな見慣れない料理ではなく、どれも親しみのある味がする。
和華にとっては、その方がありがたかった。
「お腹いっぱい……」
すべて食べ終え、満足して背もたれへ身体を預ける。
「ご満足いただけたようで、何よりです」
部屋の隅に立っていた兵士が、穏やかに声をかけてきた。
「すごくおいしかったです!」
「料理人へ申し伝えておきます」
兵士はわずかに笑った。
「皓月様がお話ししたいとのことです。別室へご案内してもよろしいでしょうか」
「分かりました」
返事をしたものの、急に不安が戻ってきた。
何から話せばいいのだろう。
元の世界へ戻る方法を聞く前に、自分の身に起こったことを説明しなければならない。
別の世界から来たと言って、信じてもらえるだろうか。
里の人々の反応を思い出す。
下手をすれば、頭がおかしいと思われるかもしれない。
兵士について廊下を歩き、別の部屋へ向かう。
「皓月様、お連れいたしました」
扉の先では、皓月が白い茶器を手にしていた。
窓から差し込む光を受け、長い銀髪が輝いている。
静かに茶を飲む姿は、絵画の一部のようだった。
(本当に、様になるなあ……)
純白の乙女。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
部屋の端には、衛穿も控えていた。
和華は兵士に促され、皓月の向かい側へ腰を下ろす。
兵士が一礼して部屋を出ていった。
短い沈黙が流れる。
和華は何を言えばいいのか分からず、膝の上で両手を握った。
すると突然、皓月が茶器を置いた。
「えっ?」
机の上へ身を乗り出し、和華との距離を一気に縮める。
皓月の両手が、和華の頬を包み込んだ。
「お料理はお口に合いましたか? 兵士に意地悪をされませんでした? 本当に牢へ入れてしまってごめんなさいね! 立場上、ああするしかなかったのです! 許してちょうだい! それで、あなたはどうして霊脈を持っているのですか? あの妖怪とはどのような関係で――それと!」
「皓月様」
衛穿の咳払いが響いた。
「悪い癖が出ております」
和華は目を丸くしたまま、完全に圧倒されていた。
皓月の動きが止まる。
「……ごめんなさい」
皓月は和華の頬から手を離し、静かに座り直した。
平静を装ってはいるが、頬が赤い。
その姿が少し可愛いと思った。
先ほどまで兵士たちの前で見せていた大人びた姿とは、とても同じ人物には見えない。
「では、改めまして」
皓月は姿勢を正した。
「私は皓月と申します。あちらにいるのは、衛穿です。あなたのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「環和華です」
「たまきのどかさん」
「はい。苗字が環で、名前が和華です」
「みょうじ……ですか」
皓月は、その言葉を確かめるように呟いた。
わずかに考え込んだ後、なぜか口元を緩める。
「では、和華。何か聞きたいことはありますか?」
いきなり名前で呼ばれたことに、少しだけ戸惑う。
それでも、和華はこれまでの出来事を順番に話した。
自分は別の世界から来たこと。
見知らぬ山で目を覚ましたこと。
森へ入り、苦しさで動けなくなったこと。
そこで燕華に助けられたこと。
皓月を隠れて追っていたこと。
そして、森で起こった戦い。
皓月は途中で遮ることなく、最後まで静かに聞いてくれた。
「別の世界ですか」
すべてを聞き終えた皓月が、ゆっくりと繰り返す。
「……信じてくれるのですか?」
「私には霊素の流れが見えます」
皓月は赤い瞳を細めた。
「人が嘘をつく時、霊素にはわずかな乱れが生じます。完全に見抜けるわけではありませんが、少なくとも、あなたの今のお話に大きな虚偽はないと分かります」
にこりと笑う。
「霊素って、便利なんですね」
「そのような使い方をできる者は、あまり多くありませんけれどね」
今度は皓月が、この世界について説明してくれた。
かつて、人間は妖怪を神として崇めていたこと。
しかし、それが偽りの神であったことが判明したこと。
妖怪に代わり、今は皓月が神として人々の前に立っていること。
そして、この世界に存在する霊素という力について。
「では、私の身体の中には、燕華さんの霊脈が入っているということですか?」
「おそらくは」
皓月は答えながらも、どこか納得できない様子だった。
「しかし、本来ならば不可能です。肉体の構造が違う時点で、霊脈を移すことなどできません。妖怪同士で、双子のように瓜二つの肉体を持っているというのなら、まだ可能性を考えられますが……」
人間は、生まれつき霊脈を持っていない。
妖怪は大気中の霊素を霊脈から直接取り込み、自らの力として使う。
一方、人間は食事などを通じて、少しずつ霊素を取り入れる。
霊脈を持つ妖怪は、周囲の霊素が濃くても薄くても、その場に適応できる。
人間は体内から反発する霊素を放つことで、大気中の霊素が身体へ侵入するのを防いでいる。
森で和華が苦しんだのは、元の世界の人間である和華が、その反発する霊素すら持っていなかったからだろう。
霊素が体内へ侵入し、身体を蝕んでいた。
燕華は和華へ自らの霊脈を移植することで、命を救ったのだ。
「燕華さんがいなかったら、私は……」
死んでいた。
その言葉を、和華は口にできなかった。
なぜ燕華は、そこまでして自分を助けてくれたのだろう。
疑問は残る。
だが、今は答えを知る方法がなかった。
皓月は霊素の話だけでなく、この国が抱える問題についても教えてくれた。
人口が増え続け、食糧の生産が追いつかなくなりつつあること。
この都市以外では、道路や水路などの整備が十分に進んでいないこと。
そして、人間が妖怪を一方的に敵とみなし、領土を広げるために討伐していること。
話を聞けば聞くほど、皓月が自分と同じ年頃だとは思えなかった。
国の現状を知り、そこで暮らす人々のことを考え、これから何をすべきか悩んでいる。
やはり、皓月は王なのだ。
一方で、驚くほど元の世界と変わらないものも多かった。
使われている文字。
一日を区切る時間の概念。
食事や生活の習慣。
街の造りには違いがあるものの、まったく理解できない世界というわけではない。
そして最後に、皓月は和華を元の世界へ戻す方法を探すと約束してくれた。
「ありがとうございます」
和華が頭を下げると、皓月は柔らかく微笑んだ。
「まだ、方法があると決まったわけではありません。それでも、できる限りのことはいたします」
その言葉だけでも、和華にとっては大きな救いだった。
しかし、話はそこで終わらなかった。
「ところで――」
皓月が再び身を乗り出す。
「和華のいた世界は、この国よりも文明が発達しているように思えます。あなたの世界について、詳しく教えていただけませんか?」
「霊素はありませんが、おそらく文明はこちらより発達していると思います」
そう答えた瞬間、皓月の赤い瞳が輝いた。
「人口に対して、どのように農業を行っているのですか? 土地の問題は、どのように解決しているのでしょう。戦争はありますか? 国同士の争いは、どのような武器を使って――」
質問が止まらない。
どうやら皓月は、興味を持ったことに対しては、とことん知りたくなる性格らしい。
和華は自分の知っている範囲で答えた。
機械を使った農業。
高い建物。
電気や自動車。
遠く離れた人と話せる電話。
そして、銃や爆弾といった武器。
「まんしょん、ですか」
皓月は、和華の説明を聞きながら考え込んだ。
「大勢の人々が暮らせる、城のような建物がいくつもあるのですね。それに銃……。遠距離から攻撃でき、扱う者の身体能力に左右されにくい武器ですか」
「誰でも、というのは少し違うと思いますけど……訓練すれば、多くの人が使えると思います」
「なるほど。それならば兵士を育成する期間も短縮できる可能性が……」
皓月の目が、さらに輝く。
「では、次に――」
「皓月様」
衛穿が静かに声をかけた。
「和華殿もお疲れでしょう。そろそろ、お休みいただいた方がよろしいかと」
和華は内心で安堵した。
正直なところ、これ以上詳しく聞かれても答えられる自信がない。
和華は勉強が得意な方ではなかった。
皓月が求めているような専門的な知識など、ほとんど持っていない。
「……申し訳ございません」
皓月は名残惜しそうに身体を起こした。
「では最後に、和華の今後についてお伝えします」
先ほどまでの少女らしい表情が消える。
再び、人々を率いる者の顔へ戻っていた。
「和華。この世界では、苗字というものはほとんど認知されておりません。今後、誰かに名前を尋ねられた時は、和華とのみ名乗った方がよいでしょう」
「分かりました」
「また、この世界の人々は、別の世界が存在することすら知りません。あなたが異なる世界から来たという事実は、むやみに口にしない方がよいと思います」
皓月は真剣な目で和華を見つめる。
「それを口にすれば、あなたの言葉そのものを信じてもらえなくなる可能性があります。混乱を招くこともあるでしょう」
和華は、里の人達からの不審な目を思い出した。
確かに、知らない者へ本当のことを話しても、簡単には信じてもらえないだろう。
「それから、あなたの保護についてです」
皓月は続ける。
「私は燕華より、あなたを託されました。その責任は、私が持ちます」
森で消える前、燕華は皓月を見つめていた。
あの時、言葉を交わしてはいなかった。
それでも皓月には、燕華の意思が伝わっていたらしい。
「そのため、和華には私の直属護衛隊へ入隊していただきます」
「……はい?」
予想もしなかった言葉に、和華は固まった。
「私が、ですか?」
「はい」
「剣を持って、妖怪と戦うんですか!?」
「いいえ」
皓月は穏やかに否定した。
「私の直属護衛隊は、あくまで私を守るための部隊です。妖怪と対峙する機会は、討伐部隊ほど多くありません」
「でも、私、戦ったことなんて……」
「元の世界へ戻る方法は探します」
皓月の声が、少しだけ低くなる。
「しかし、戻れなかった場合についても、同時に考えなければなりません」
和華は言葉を失った。
元の世界へ戻れる保証は、どこにもない。
戻る方法が見つかると、心のどこかで決めつけていた。
だが、この世界で生きていかなければならない可能性もある。
「この世界は、安全な場所ではありません」
皓月は続ける。
「あなたは霊脈を持っています。その力を狙う者が現れる可能性もあります。何より、今回のように霊素を知らずに扱えば、再び誰かを傷つけてしまうかもしれません」
森で倒れていた兵士たちが、脳裏に浮かぶ。
知らなかった。
悪意もなかった。
それでも、人が死んだ。
あのようなことを、二度と繰り返したくない。
「自分を守るためにも、周りの者を傷つけないためにも、力の使い方は学ぶべきです」
「……はい」
皓月の言う通りだった。
「分かりました。皓月様の言う通りだと思います」
「ふふっ」
皓月が楽しそうに笑った。
「では、まずは訓練ですね」
なぜか、とても嬉しそうだった。
「今日はもう日が暮れます。明日の九時に迎えに行きますので、詳しいことはその時にお話ししましょう。泊まる場所については、衛穿から聞いてください」
「分かりました」
和華が立ち上がると、衛穿も部屋の端から歩み寄った。
皓月へ一礼し、和華を連れて部屋を出る。
二人は並んで、城内の長い廊下を歩いた。
しばらくの間、会話はなかった。
窓の外では、太陽が街の向こうへ沈みかけている。赤い光が渡り廊下へ差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。
「正直に言えば」
衛穿が突然、口を開いた。
「私は、まだ貴殿を疑っている」
和華は少しだけ俯いた。
「そう、ですよね」
当然のことだと思った。
別の世界から来たと語り、妖怪の霊脈を持ち、森では兵士を死なせた。
自分が衛穿の立場でも、簡単には信じられないだろう。
「むしろ、皓月様が信じてくれたことに、私も驚いています」
「皓月様は、嘘を見抜ける」
「それでも、です」
再び沈黙が流れた。
やがて、二人は城の本館から少し離れた建物の前で立ち止まった。
「ここだ」
衛穿が扉へ手をかける。
「これから仲間となる者たちは、個性的な者ばかりだ。まあ、頑張れ」
「個性的……?」
嫌な予感がした。
衛穿が扉を開ける。
その先には、広い居間のような空間があった。
長椅子や机が置かれ、中央の階段は途中から左右へ分かれている。
部屋の中には、男女合わせて四人がいた。
長椅子へ寝転がっていた者。
窓辺で外を眺めていた者。
机を挟んで何かの遊びをしていた二人。
衛穿が入ってくると、四人が一斉にこちらへ顔を向けた。
「ちょうど全員いるな」
衛穿は和華を示す。
「紹介する。和華だ。近日中に護衛隊へ配属される。仲良くしてやってくれ」
衛穿は堅苦しく見えるが、本当は優しいのかもしれない。
言葉の端々から、和華を気遣っていることが感じられた。
最初に立ち上がったのは、筋肉質で体格のよい男だった。
短い茶髪に、日に焼けた肌。
見るからに明るく、元気そうな人物だ。年齢は二十代後半ほどだろう。
「俺は我央だ!」
男は大きな声で名乗った。
「体術なら誰にも負けねえ。よろしくな、和華!」
「よ、よろしくお願いします」
我央が差し出した手を握る。
軽く握られただけなのに、手が潰れそうなほど力強かった。
「我央。加減しろ」
窓辺に立っていた女が、冷たい声で注意する。
長い黒髪。
すらりとした長身に、全身を包む黒い衣服。
鋭い目つきも相まって、少し近寄りがたい雰囲気がある。
「帆積だ」
女はそれだけを告げた。
年齢は我央と同じくらいに見える。
「衛穿隊長が不在の時は、私が隊を預かる。分からないことがあれば聞け」
「はい。よろしくお願いします」
怖そうに見えたが、話し方からは面倒見のよさが感じられた。
残る二人は、机を挟んで向かい合っていた。
一目で双子だと分かるほど、顔がよく似ている。
二人とも茶色い髪に、大きく丸い瞳。
和華より少し年下だろう。高校一年生ほどに見え、顔にはまだ幼さが残っている。
「僕は琉輝」
男の子が先に名乗った。
「私は琉魅」
続いて、女の子が名乗る。
「俺が琉輝」
「私が琉魅」
「分かる?」
二人が同時に首を傾けた。
「えっと……たぶん」
和華は曖昧に笑った。
正直、自信はなかった。
「絶対分かってないね」
「分かってない顔してる」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
我央、帆積、琉輝、琉魅。
この四人と衛穿が、皓月の直属護衛隊なのだという。
衛穿は隊長と皓月の付き人を兼任しているため、普段の任務は残る四人が中心となって行う。
表向きの任務は、皓月の護衛。
だが、その裏では情報収集をはじめ、さまざまな仕事を担っているらしい。
和華は当面、皓月の近くで表向きの護衛を担当することになる。
衛穿が付き人として不在の時は、帆積が代理隊長を務める。
「今日から、ここで寝泊まりしてもらう」
衛穿が中央の階段を指した。
「階段の左側が女子用だ。空いている部屋を一つ用意してある。今日はさまざまなことがあっただろう。ゆっくり休め」
「はい。衛穿さん、今日はありがとうございました」
和華は頭を下げる。
「おやすみなさい」
「まだ正式に配属が決まっていないから、今はいいが…」
衛穿が眉を寄せた。
「配属後は隊長と呼べ」
「あっ、すみません。隊長」
口にした瞬間、急に恥ずかしくなった。
小さい頃、幼稚園のお遊戯会で兵士の役を演じた時の記憶が蘇る。
舞台の上で、作り物の剣を掲げながら「隊長!」と叫んだ。
あの時と同じことを、今は本物の城で口にしている。
まるで、自分まで物語の登場人物になってしまったようだった。
衛穿は短く頷き、建物を出ていった。
扉が閉まる。
その途端、残された四人の視線が一斉に和華へ集まった。
「それで?」
我央が楽しそうに口元を緩める。
「和華は、どれくらい強いんだ?」
「えっ」
「霊脈を持つ人間なんて初めて見たぜ」
琉輝が身を乗り出した。
「何型ー?」
琉魅も興味深そうに和華を見つめる。
「燕華という妖怪と一つになって、皓月様や衛穿隊長と戦ったと聞いた。私の代わりに代理隊長をやらないか?」
帆積は代理隊長が嫌なのだろうか。
帆積は、鋭い目で和華を観察していた。
感情が読めない。
「えっと……」
和華は一歩後ずさる。
個性的な者ばかり。
衛穿の言葉の意味を、早くも理解し始めていた。
「私、戦い方どころか、霊素の使い方も分からないんですけど…あ、血液型はA型かな…」
四人の動きが止まる。
短い沈黙の後、我央が豪快に笑った。
「ははは! そいつは明日の訓練が楽しみだな!」
琉輝と琉魅もより騒ぎ始める。
「ねえ、エーってなにー!エーってなに!」
「楽しみじゃないです!」
思わず大きな声が出そうになり、和華は慌てて両手で口を塞いだ。
牢で目を覚ました時には、自分が罪人になるのだと思っていた。
今はなぜか、神と呼ばれる少女の護衛隊へ配属されようとしている。
何がどうして、こんなことになったのだろう。
元の世界へ帰れるのか。
燕華は、どこへ行ったのか。
自分の中にあるという霊脈は、これから何を引き起こすのか。
分からないことばかりだった。
それでも、この世界で初めて、自分の居場所になりそうな場所を見つけた気がした。
和華の新しい生活が、始まろうとしていた。




