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並界戦記-環-  作者: ootori
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第二話「霊脈」

皓月は森の前で足を止めた。


鬱蒼と生い茂る木々が、日の光を拒むように枝葉を重ねている。森の奥から吹いてくる風には、冷たい霊素がわずかに混じっていた。


皓月は静かに目を閉じ、その濃度を確かめる。


周辺の山々と比べれば、この森の霊素濃度は低い。


訓練を受けていない民であっても、中和を続けながら進めば耐えられる程度だろう。


人間が初めて妖怪を討ち倒してから、二年。


五家評議会は度々討伐隊を送り込み、妖怪の住む土地を奪うことで、人の領域を広げてきた。


土地が増え、暮らしが安定すれば、人口も増える。


それ自体は当然のことだった。


しかし、五家にとって増えすぎた民は、国を豊かにするための力であると同時に、食糧を奪い合う厄介な存在でもある。


今回の討伐には、正規の兵だけでなく、各地から徴集された民も多く参加していた。


そして、負傷者の大半を占めているのも、その者たちだ。


戦うための十分な訓練も施されないまま、数を補うためだけに戦場へ送られた者たち。


五家評議会は、妖怪の討伐に民を巻き込んでいる。


国土の拡大と同時に、人口の調整も行っているのだろう。


皓月はそう考えていた。


ならば、五家の思惑どおりに彼らを死なせるわけにはいかない。


皓月は背後を振り返った。


負傷した兵たちが、仲間の肩を借りながら立っている。担架に乗せられた者の中には、今すぐにでも治療を施さなければ命が危うい者もいた。


国へ戻るには、この森を抜けるのが最短だ。


迂回すれば、帰路は半日以上延びる。


重傷者の多くは、国へたどり着く前に力尽きるだろう。


しかし、森は妖怪の領域でもある。


こちらから危害を加えなければ、妖怪が襲ってくることはほとんどない。妖怪は人間に強い関心を持たず、積極的に争いを求める者も少ないからだ。


ただし、それは縄張りを侵さなければの話だった。


もし縄張りを持つ妖怪と遭遇すれば、戦闘は避けられない。


その場合、自分が残って妖怪を引き受け、部隊だけを先へ進ませればいい。


一対一ならば、守るべき兵を気にせず戦える。正直、その方が皓月にとっても戦いやすかった。


だが、民の上に立つ者が、部隊を置いて一人で戦うという判断をしてよいのだろうか。


何より、護衛の衛穿えいせんが許さない。


「いかがされましたか?」


すぐそばから声をかけられ、皓月は我に返った。


衛穿が、皓月の横顔を見つめている。


感情を表に出すことの少ない男だが、その目には皓月の身を案じる色が浮かんでいた。


「この森を抜ければ、帰路を大幅に短縮できます」


皓月は森へ視線を戻した。


「中和を続けながら進めば、民から徴集された者たちでも耐えられるでしょう。衛穿は、どう思いますか?」


衛穿も森を見据えた。


「負傷者の中には、霊素濃度に耐えられない者もいるでしょう」


「そうですね」


「ですが、その者たちは森を迂回したところで、国までは持たないかと」


冷たい判断だった。


しかし、それが事実であることを皓月も理解している。


森を避ければ、全員が安全に帰れるわけではない。


むしろ、助かるはずの者まで失う可能性が高い。


「……そうですね」


皓月は再び考え込んだ。


全員を救う道はない。


ならば、より多くを救える道を選ぶしかない。


やがて皓月は決意し、部隊の中にいる一人の男へ顔を向けた。


「この森を抜けます。嘉来かく、中和の準備を」


「承知しました」


嘉来は即座に頭を下げると、中和を担う兵たちへ指示を出した。


兵たちは腰に下げていた器具を取り出し、互いの間隔を確かめる。霊力を注がれた器具が淡い光を放ち、周囲の霊素を少しずつ薄めていく。


一行が森へ入る準備を進める、その陰。


木々の間から討伐隊を覗く、一人の少女の姿があった。


環 和華は、皓月へ話しかける機会を探していた。


里を出てから、ずっと討伐隊の後を追ってきた。


だが、皓月が一人になる瞬間は一度もない。


考えてみれば当然だ。


この世界で神と崇められ、国を統治する王なのだから、常に護衛がついている。


近くの兵士へ事情を説明し、取り次いでもらうことも考えた。


しかし、先ほどの里で何度話しても、和華の説明は誰にも理解してもらえなかった。


高校。


スマートフォン。


電車。


救急車。


和華にとっては当たり前の言葉が、この世界の人々にはまるで通じない。


そんな状態で兵士に声をかけたところで、不審者として追い払われるのが目に見えていた。


そもそも、一般人が皓月と言葉を交わすことさえ許されるのか分からない。


里の人々の態度を見る限り、皓月は文字どおり雲の上の存在なのだろう。


もし話しかけることができなくても、この討伐隊は国へ帰る途中だと聞いている。


ならば、このまま後をついていけば、大きな都市へ着くはずだ。


人の多い場所なら、元の世界へ帰る手がかりを見つけられる可能性も高くなる。


少なくとも、あの小さな里に残るよりはいい。


「よし……」


和華は小さく頷いた。


森へ入っていく皓月たちを見失わないよう、茂みの陰から追い始めた。



森へ入ってから、しばらくが経った。


はじめは穏やかだった風が、徐々に強くなっている。


木々が激しく揺れ、枝葉の擦れ合う音が森の中に響いていた。


中和器から放たれる淡い光が、風に押し流される霧のように揺らめいている。


「足を止めないでください! 前の者との間隔を保ちなさい!」


兵たちの声が飛び交う。


しかし、森を進むにつれて隊列は乱れ始めていた。


息を荒らげる者。


胸を押さえ、膝をつく者。


突然意識を失い、その場に倒れる者。


霊素濃度は予想よりも不安定だった。


先の戦闘で傷を負い、体力を失った者たちにとっては、わずかな濃度の変化さえ命取りになる。


担架で運ばれていた一人の男が、大きく身体を震わせた。


間もなく、その腕が力なく垂れ下がる。


兵が脈を確かめ、静かに首を横へ振った。


それを見た皓月は唇を結ぶ。


すでに複数の者が命を落としていた。


だが、ここで引き返すわけにはいかない。


一を捨て、九を救う。


それが、今選べる最善だ。


理解している。


それでも、捨てる一を見もしないで進むつもりはなかった。


「嘉来」


皓月は前方で中和を続ける男へ声をかけた。


「中和量を増やすことは可能ですか?」


嘉来は苦しげに眉を寄せた。


中和を担う兵たちの額には汗が浮かび、足取りもすでに重い。


「先の戦いで、兵の霊力を大きく消耗しております。これ以上出力を上げれば、森を抜ける前に中和そのものを維持できなくなるでしょう」


皓月は周囲を見回した。


今ここで中和量を増やせば、目の前の者を救えるかもしれない。


だが、その先で中和が途切れれば、部隊全体が危険にさらされる。


「分かりました」


皓月は迷いを押し殺した。


「森を抜けるまで、あと一刻もかかりません。それまで、ぎりぎりで構いません。中和を持たせてください」


「承知しました」


嘉来は再び前を向き、中和部隊へ指示を飛ばした。


皓月も歩みを進める。


一を捨てるのは、どうしようもなくなった時だけでいい。


助けられる可能性が残っている限り、できることはすべて行う。


それが、皓月にとって王であるということだった。



森の出口は、もう近かった。


木々の隙間から差し込む光が少しずつ強くなっている。


あとわずか。


そこまでたどり着けば、霊素濃度は一気に下がる。負傷者たちも、ひとまず命をつなげるだろう。


「あと少しで、森を出られるのですがね」


皓月が呟いた、その時だった。


先頭を歩いていた兵たちが、突然足を止めた。


後ろに続く者たちも次々と立ち止まり、隊列に緊張が走る。


森を抜ける道の中央に、誰かが立っている。


古びた和服。


顔を覆う、白い犬の面。


人とよく似た姿をしているが、人ではない。


そこに立つだけで、周囲の霊素が僅かに揺らいでいた。


皓月は目を細める。


「人型の妖怪ですか。厄介そうですね」


その声を聞き、和華も茂みの陰から顔を覗かせた。


「あの人……さっきの」


そこにいたのは、山で和華を助けた燕華だった。


どうして燕華がここにいるのだろう。


皓月たちと知り合いなのだろうか。


燕華は迫る兵たちを前にしても、身構える様子を見せなかった。


「ここを通りたいのなら、気にせず通ればよい」


はっきりとした人の言葉だった。


皓月の目に警戒の色が浮かぶ。


五家評議会は、人の言葉を操る妖怪を上級以上に分類している。


言葉を理解し、意思を伝えられるほどの知能を持つ妖怪は、それだけ長く生き、多くの霊素を蓄えている可能性が高い。


先の討伐で戦った妖怪ですら、人の言葉は片言だった。


しかし、目の前の妖怪は淀みなく話している。


なぜ、それほどの妖怪が霊素濃度の低い森にいるのか。


目的は何なのか。


何より、本当に一行を見逃すつもりなのか。


皓月は短い沈黙の後、兵たちへ命じた。


「皆は先へ進みなさい」


「私がお供します」


衛穿が即座に答える。


「あなたは私の代わりに、部隊を誘導してください」


「なりません!」


衛穿の声が森に響いた。


常に冷静な彼にしては、珍しいほど強い口調だった。


「皓月様がお一人で戦われ、その身に何かあれば、どうなるのです!」


「相手に敵意はありません。少なくとも、今のところは」


皓月は燕華から目を離さない。


「部隊が森を抜けるまで、ここで見張るだけです。私は霊素の流れを感じ取れます。部隊が無事に森を抜けたことも分かります」


「しかし――」


「これは命令です」


衛穿は奥歯を噛み締めた。


なおも反論したそうにしていたが、やがて頭を下げる。


「……承知しました」


不服であることは、その表情を見れば明らかだった。


それでも衛穿は部隊へ戻り、兵たちを先へ進ませる。


討伐隊が、燕華の横を警戒しながら通り始めた。


皓月はその場に残り、燕華をじっと見つめている。


和華にとって、待ち望んでいた好機だった。


今なら皓月の周りに大勢の兵はいない。


燕華が近くにいるのも心強い。


深呼吸をする。


胸に手を当て、早鐘のように鳴る心臓を落ち着かせた。


大丈夫。


声をかけるだけだ。


「あの――」


和華が茂みから一歩踏み出した、その瞬間。


森の奥で、激しい衝突音が鳴り響いた。


何かが弾けるような音とともに、強い霊素の波が周囲へ広がる。


「しまった!」


皓月の表情が変わった。


地を蹴ると同時に、その姿が和華の視界から消える。


「あっ……!」


速い。


あまりの速さに、目で追うことすらできなかった。


ほんの一瞬で、皓月は部隊の進んだ方角へ駆け去ってしまった。


せっかくの機会だったのに。


和華は両手で頭を抱えた。


「もう! 私のばか! なんで、すぐに声をかけられないの!」


一人で悔しがってから、すぐそばにいる燕華の存在を思い出す。


「あっ、燕華さーん!」


燕華がゆっくりと和華を振り返った。


「あの、先ほど助けてもらった和華です! その節は、本当にありがとうございました!」


「覚えている」


「それで、突然で申し訳ないんですけど……皓月さんと、お知り合いだったりしますか?」


燕華と皓月が知り合いなら、自分を紹介してもらえるかもしれない。


そんな期待を込めて尋ねたが、燕華はあっさりと答えた。


「初対面だな」


「そうですか……」


肩を落としかけた和華へ、燕華が問いかける。


「和華は、あやつと話がしたいのか?」


呼び捨て。


しかも、妙に距離が近い。


命を助けてもらった相手に抱く感想としては失礼かもしれないが、和華はわずかに戸惑った。


「はい。私の故郷のことと言いますか……少し、聞きたいことがあって」


「そうか。ならば、連れていってやろう」


「え? でも、今、初対面って――きゃあっ!」


燕華は和華の身体を軽々と抱え上げた。


次の瞬間、地面が遠ざかる。


景色が線のように後方へ流れ、強い風が顔に打ちつけた。


「ちょっ、速い! 速すぎますって!」


胃が浮き上がり、心臓が置き去りにされる。


遊園地の乗り物とは比べものにならない。


恐怖のあまり目を閉じると、風の音だけが耳元で激しく鳴り続けた。


燕華は人間ではないのかもしれない。


そんな考えが、和華の脳裏をよぎる。


人が出せる速さではなかった。


やがて、燕華の動きが止まった。


和華が恐る恐る目を開ける。


少し離れた場所で、兵士たちが何かを取り囲んでいた。


中心にいるのは、小柄な子供のような存在だった。


擦り切れた衣をまとい、細い手足を震わせている。


だが、その頭部は狐に似ていた。


耳も、鼻先も、人間のものではない。


「あれが……妖怪?」


和華は息を呑んだ。


妖怪が実在する。


物語や昔話の中の存在が、本当に目の前にいる。


その事実が、和華に突きつけられた。


ここは、自分の知る世界ではない。


少なくとも、自分が今朝まで生きていた日常ではない。


兵士たちの後方では、皓月が声を荒らげていた。


「なぜ、負傷者を抱え時間もない中で、こちらから妖怪を攻撃したのですか!」


里で見た静かな姿からは想像できないほどの剣幕だった。


その前には、大柄な兵士が立っている。


傷だらけの鎧を身につけ、他の者よりも一回り大きな身体をしていた。


「人々を騙し、神を名乗っていた妖怪を見逃せとおっしゃるのですか!」


男は悪びれる様子もなく答える。


「ましてや、あれは低級妖怪。我々だけでも討伐は可能です! ここで命を落とした者や、傷を負った者たちも、それが本望でありましょう!」


陸厳りくげん! 下がりなさい!」


皓月の命令にも、陸厳は怯まなかった。


むしろ、口元に薄い笑みさえ浮かべている。


「このことが五家評議会へ伝われば、皆様もさぞお悲しみになることでしょうな」


その言葉には、明らかな反抗の響きがあった。


和華は眉をひそめる。


皓月は、この世界の神ではないのか。


国を治める王ではないのか。


それなのに、あの男は皓月を恐れていない。


すべての者が、皓月を心から崇めているわけではないらしい。


皓月が狐頭の妖怪へ歩き始めた。


その右手に光が集まり、白く輝く剣を形づくる。


「ごめんなさい」


皓月が小さく呟いた。


「あなたは、何も悪くないのに」


悲しみとも、悔しさともつかない表情だった。


それでも足を止めることなく、怯える妖怪との距離を縮めていく。


周囲の兵士たちは、すでに勝敗が決したと考えているのだろう。


余裕のある笑みを浮かべ、皓月が妖怪を討つ瞬間を待っていた。


妖怪は小さく身体を震わせている。


逃げようにも、四方を兵士に囲まれている。


その光景に、和華は見覚えがあった。


脳裏に、学校の教室が浮かぶ。


複数の生徒に取り囲まれ、俯いていた一人の同級生。


投げ捨てられた教科書。


笑っていた者たち。


そして、それを遠くから眺めていた自分。


止めなければと思った。


先生を呼んだ方がいいとも思った。


けれど、自分まで標的にされるのが怖くて、何もできなかった。


見て見ぬふりをして、教室を出た。


その後悔は、今でも何かの拍子に蘇る。


止めた方がいい。


だが、止めれば自分まで殺されるかもしれない。


目の前にいるのは、武器を持った兵士たちだ。


皓月の手には、光る剣がある。


怖い。


それでも、ここで黙っていれば、あの時の自分と何も変わらない。


先ほど皓月へ声をかけられなかった悔しさも、和華の背中を押した。


和華は大きく息を吸い込んだ。


「ちょっと、やめなさーい!」


部活動で声を出し続けてきた成果なのか、自分でも驚くほど大きな声が出た。


いや、大きいというだけではない。


和華の声は空気を震わせ、森全体へ響き渡った。


目に見えない何かが、波となって周囲へ広がっていく。


木々が大きく揺れた。


皓月と兵士たちが、一斉に振り返る。


「あの子は、どこから……?」


皓月が目を見開く。


「新手の妖怪か!?」


「人型が二体もいるぞ!」


兵士たちは武器を構え、和華と燕華へ向き直った。


「皓月様!」


衛穿が険しい表情で駆け寄る。


「今の妖怪の霊波によって、負傷者の何名かが!」


皓月が、担架の並ぶ方角へ視線を向けた。


先ほどまで息をしていた者の胸が、もう動いていない。


霊素に耐える力を失っていた負傷者たちが、和華から放たれた波に耐えきれなかったのだ。


皓月の表情から、迷いが消えた。


「第一部隊を残し、他の者は森を出なさい」


即座に命令を下す。


「第一部隊は、そこの低級妖怪を監視。衛穿はここに残り、私の補佐を」


「承知しました」


部隊の三分の二が、負傷者を運びながら森の出口へ向かう。


残った第一部隊を率いるのは、先ほど皓月へ反抗的な態度を取っていた陸厳だった。


皓月は和華と燕華の前へ立つ。


「敵意はないのではなかったのですか?」


声音は穏やかだった。


だが、その赤い目は少しも笑っていない。


燕華は何も答えない。


その腕に抱えられたまま、和華は慌てて口を開いた。


「あの、別に敵対心とか、そういうものがあるわけじゃなくて……」


兵士たちの視線が一斉に自分へ集まる。


「ただ、その妖怪が可哀想というか……。大勢で囲んで、何もしていないのに殺すのは、違うんじゃないかと思って……」


「そうですか」


皓月は和華を見据えた。


「では、あなたが先ほど放った霊波によって命を落とした兵士たちは、可哀想ではないのですか?」


和華は息を呑んだ。


皓月の身体から放たれる威圧感に、胸を強く押さえつけられる。


完全に敵として見られている。


失敗したのかもしれない。


それでも、自分の行動は間違っていない。


その思いだけが、どうにか和華を立たせていた。


「霊波って……何ですか?」


皓月の眉がわずかに動く。


「それに、命を落としたって……。どういうことですか?」


和華には理解できなかった。


自分は、ただ大声を出しただけだ。


誰かへ触れてもいない。


ましてや、人を殺せるようなことなど何もしていない。


皓月は小さく息を吐いた。


「その格好といい、発言といい……今さら、何を言っているのでしょうか」


「格好……?」


和華は自分の制服を見下ろそうとして、今も燕華に抱えられたままであることに気づいた。


途端に恥ずかしさが込み上げる。


「あっ、すみません。降ります」


皓月に謝ったのか、燕華に頼んだのか、自分でも分からなかった。


「分かった」


燕華が和華を地面へ下ろす。


和華が制服の裾を整え、顔を上げた。


その瞬間、視界が白い光に包まれた。


「えっ――」


皓月が放った霊素の剣が、正面から迫っていた。


激しい衝突音が響く。


和華の眼前で光が弾け、風圧が髪を大きく揺らした。


燕華が和華の前へ立ち、皓月の攻撃を受け止めている。


「燕華さん……?」


「この数では、分が悪いな」


燕華は皓月たちを見据えたまま、静かに言った。


「和華。お主に霊素の使い方を教える」


「え?」


和華はその場に尻もちをついた。


今、自分は殺されかけた。


その事実に身体が追いつかず、足に力が入らない。


ふと、燕華の手元に光るものが見えた。


小さな手鏡だった。


古びた装飾。


持ち手に刻まれた傷。


それは、和華が祖母からもらった手鏡とまったく同じものだった。


いや、同じに見えるというだけではない。


あの傷まで一致している。


どうして燕華が持っているのか。


自分の手鏡は、家に置いてきたはずだ。


この場所が本当に別世界なら、同じものが存在するはずもない。


「それ……どうして……」


「少し手荒だが、やむを得ないな」


燕華が告げた。


次の瞬間、その身体が霧のように崩れた。


「燕華さん!?」


淡い霧となった燕華が、和華の身体を包み込む。


息を吸う間もなく、それは胸の奥へと吸い込まれていった。


心臓が大きく脈打つ。


どくん。


どくん。


鼓動が耳の奥で響き、全身の血が急激に流れ始める。


身体の中を熱い何かが駆け巡った。


この世界で目を覚ました時の感覚に似ている。


だが、あの時よりも強い。


痛みと熱が一度に押し寄せ、身体の奥に今まで存在しなかった道が開かれていく。


「何……これ……」


皓月が二本目の剣を放った。


白い光が、一直線に和華へ迫る。


避けられない。


今度こそ死ぬ。


そう思った瞬間、和華の身体が勝手に動いた。


『霊素は、こうやって扱う』


燕華の声が、頭の中へ直接響く。


和華の右腕が持ち上がる。


意識して動かしたわけではない。


腕から手のひらへ、熱い流れが集まっていく。


光が形を成し、皓月の剣を受け止めた。


再び、霊力のぶつかり合う轟音が森に響いた。



「あの面の妖怪は、どこへ行った?」


陸厳が声を上げた。


彼の目の前では、皓月と和華が霊素の刃を交えている。


衛穿も皓月を守るように加わり、和華の死角から攻撃を仕掛ける。


だが、和華の身体はそのすべてに反応した。


刃の軌道を逸らし、身体を回転させて受け流す。


自ら攻めるのではなく、相手の力を利用して攻撃を外していた。


皓月は次々と霊素の剣を生成しながら、和華の変化を見極めようとしていた。


初めに姿を現した時、和華からは霊力をほとんど感じなかった。


霊力を隠していたのではない。


本当に何もなかった。


それが燕華の姿が消えた瞬間、人間とは思えない霊力を放ち始めた。


その波長は、明らかに妖怪のものだった。


妖怪が人間へ乗り移ったのか。


「あなたは、何者ですか!」


皓月が剣を打ち込みながら問う。


和華の口が、本人の意思とは関係なく動いた。


「私は妖怪だが、こやつは人間だ」


声は和華のものだった。


しかし、話し方は燕華のものだ。


皓月の目が大きく見開かれる。


二体の妖怪が、一体になる。


そのような現象は、これまで一度も確認されていない。


ましてや、妖怪が人間の身体へ入り込み、その肉体を操るなど、霊脈の構造から考えてもあり得ないことだった。


「そんな、まさか」


皓月は和華の攻撃を受け流し、その胸元へ視線を向けた。


肉体の奥で流れる霊素を感じ取る。


「その子には、妖怪特有の霊脈があります」


皓月と和華の刃が交差する。


白い光が弾け、二人の顔を照らした。


和華には、何が起きているのか分からない。


身体の自由は利かず、自分の意思とは無関係に手足が動いている。


ただ、身体の中に燕華がいることだけは、本能的に理解できた。


燕華が、自分の身体を使って戦っている。


「本当に人間だというのなら、その子を解放しなさい!」


皓月が間合いを詰める。


早く決着をつけなければならない。


連日の戦闘によって、皓月自身の霊力も大きく消耗している。


何より、今の相手とは相性が悪い。


霊素を用いた戦い方は、大きく三つに分けられる。


高い火力で相手を圧倒し、短期決戦を狙う攻撃型。


相手の攻撃を受け流し、消耗させながら少しずつ追い詰める防御型。


霊素を様々な形へ変化させ、予測しづらい攻撃を繰り出す変則型。


三つの型には、それぞれ有利と不利がある。


攻撃型は防御型に力をいなされるが、変則型が攻撃を組み立てる前に押し切ることができる。


防御型は変則型の多彩な攻撃には対応しづらいが、攻撃型の力を利用し、消耗させられる。


変則型は攻撃型の速さと火力に弱い一方、防御型の守りを崩す手段に長けている。


皓月が得意とするのは、攻撃型。


そして、和華の身体を操る燕華が選んだのは、防御型だった。


一撃で決着をつけようとする皓月の攻撃を、燕華は最小限の力で受け流している。


このまま持久戦になれば、先に限界を迎えるのは皓月だ。


『皓月に勝つのは厳しいが……』


燕華の考えが、和華の意識へ流れ込んでくる。


言葉として聞こえるのではない。


思考そのものが、自分の中へ入り込んでくるような感覚だった。


「こやつは、私の霊脈を持っている」


燕華が和華の口を使って告げる。


「いや、正しくは、私が移植した」


皓月の動きが、一瞬止まった。


「そのようなことが、可能なはずはありません」


霊脈は、生まれた時から肉体と魂に結びついている。


血を分けるように、他者へ渡せるものではない。


たとえ肉体の一部を移植したとしても、霊脈まで別の者へ移ることはない。


それが、皓月の知る常識だった。


「こやつは、お主とは別の意味で特別だ」


燕華は皓月の剣を払い、距離を取る。


「先ほどの霊波も、霊素そのものを知らずに起こしたことだ」


皓月は和華を見つめた。


目の前の少女が本当に霊素を知らないのなら、先ほどの言動にも説明がつく。


霊波が何か分からず、自分が人を死なせたことさえ理解していなかった。


しかし――。


「知らなかったとしても、結果的に死者が出ています」


皓月の声に迷いはなかった。


「知らなかったでは済まされません」


「もともと、森を抜け、国へ着くまで命が持たぬ者たちだった」


燕華の言葉に、皓月は答えなかった。


図星だった。


森へ入る前から分かっていた。


すでに助からない可能性の高い者がいることを。


それでも、わずかな希望を捨てることができなかった。


だから、ぎりぎりまで中和を続けさせた。


結果が同じであったとしても、目の前で命を奪われた事実まで無かったことにはできない。


皓月は一度剣を下げた。


「……あなたの目的は何ですか?」


「こやつの保護を頼みたい」


「なぜ、妖怪がそこまでこの子を……」


皓月は言葉を止める。


今ここで問い続けても、すべてを話すつもりはないだろう。


それよりも優先すべきことがある。


「分かりました」


皓月は霊素の剣を構え直した。


「その子の命は保証します」


和華の身体が皓月へ斬りかかる。


皓月はその一撃を正面から受け、力任せに弾き返した。


燕華の操る和華の身体が、大きく後方へよろめく。


その瞬間、淡い霧が和華の背中から抜け出した。


霧は空中で燕華の姿を形づくる。


身体の自由を取り戻した和華を、激しい疲労が襲った。


全身がひどい筋肉痛を起こしたように痛む。


瞼が重い。


立っていることすらできず、和華はその場に崩れ落ちた。


「燕華、さん……」


声は最後まで続かなかった。


燕華は倒れる和華を一度見下ろした。


それから皓月へ顔を向ける。


犬の面の奥にある目が、皓月の赤い瞳をまっすぐに見つめた。


言葉はなかった。


それでも、和華を託すという意思だけは伝わった。


次の瞬間、燕華の姿は霧となって消えた。


「衛穿!」


皓月が叫ぶ。


「その子を保護しなさい! あの妖怪に身体を乗っ取られていたようです。傷の手当ても」


「承知しました!」


衛穿はすぐに和華へ駆け寄り、呼吸と脈を確かめる。


命に別状はない。


ただ、霊力と体力を一度に使い果たし、深い眠りに落ちているようだった。


皓月は周囲を見回した。


そこで、もう一つの異変に気づく。


「先ほどの低級妖怪は?」


陸厳たちが取り囲んでいた、狐頭の妖怪。


その姿がどこにもない。


陸厳は剣を収め、皓月の前で頭を下げた。


「申し訳ございません。先ほどの混乱に乗じ、逃げられました」


皓月が目を見開く。


「逃した……?」


「捜索いたしますか?」


「いえ……」


皓月は陸厳の顔を見つめた。


表情からは、何も読み取れない。


本当に混乱の中で逃げられたのか。


それとも、何らかの意図があったのか。


五家評議会の企みである可能性が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


だが、低級妖怪の監視を陸厳へ任せたのは自分だ。


まず問うべきは、彼ではなく自分の判断だろう。


「非常にまずいことになりました」


皓月は森の奥へ目を向けた。


人間側から一方的に攻撃を仕掛けた妖怪を、生きたまま逃してしまった。


人間が妖怪の討伐を始めてから、このような失態は初めてだった。


妖怪は基本的に群れをつくらない。


同じ種であっても、互いに関わらず、一個の存在として生きる者が多い。


だからこそ、人間は一体ずつ妖怪を討ち取り、少しずつ領土を広げることができた。


しかし、人間が共通の敵として認識されれば、話は変わる。


妖怪同士が手を組み、人間を排除しようと動き始めるかもしれない。


それは討伐では終わらない。


人間と妖怪の、戦争になる。


皓月はその事態を何よりも危惧していた。


だから、人間側から攻撃を仕掛けた際には、必ず対象の妖怪を討ち取ってきた。


人間の行いが妖怪の間へ広がらないように。


妖怪たちへ、人間という種族そのものを意識させないように。


だが、今回は逃げられた。


あの妖怪が他の者へ何を伝えるかは分からない。


追うべきだろうか。


しかし、妖怪の住み着く森の中で、たった一体を見つけ出すのは至難の業だ。


こちらには負傷者もいる。


さらに森へ踏み込めば、失う命が増えるだけだろう。


皓月は目を閉じ、わずかな間だけ考えた。


やがて、決断を下す。


「すぐに撤退します」


兵士たちが皓月へ顔を向ける。


「森を出た部隊と合流し、国へ戻ります。捜索は行いません」


「よろしいのですか?」


陸厳が尋ねる。


「今は負傷者の治療が先です」


皓月は言い切った。


「急ぎなさい!」


兵たちが動き始める。


衛穿は眠ったままの和華を抱え上げ、皓月の後へ続いた。


和華は、自分がどこへ運ばれているのかも知らない。


燕華が何者なのか。


自分の身体に何が起きたのか。


そして、霊脈とは何なのか。


何一つ知らないまま、深い眠りへ落ちていた。


その胸の奥では、これまで存在しなかった霊脈が静かに脈打っていた。

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