第一話「皓月」
暗い。
息が、できない。
冷たい土の感触が頬に触れている。指先を動かそうとしても、身体は自分のものではないように重かった。
苦しい。
胸の奥で、心臓が不規則に脈打っている。全身を内側から焼かれているような熱と、骨の隙間へ何かが入り込んでくるような痛みが交互に襲ってきた。
私は、何をしていたんだっけ。
途切れかけた意識の中で、環 和華は記憶をたどる。
今日は高校の始業式だった。
制服を着て、いつもの道を学校へ向かうはずだった。
それから――。
何も思い出せない。
心臓発作だろうか。
事故に遭ったのだろうか。
何にせよ、このままでは本当に死んでしまうのではないかと不安になる。
「おい……聞こえるか?」
遠くから、誰かの声がした。
大人の女性のようにも、まだ幼さの残る少年のようにも聞こえる、不思議な声だった。
助けて。
救急車を呼んで。
そう言おうとしたが、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。
誰か――。
そこで、和華の意識は再び途切れた。
◇
「目が覚めたか?」
聞き覚えのない声に、和華は重い瞼を持ち上げた。
最初に目に入ったのは、風に揺れる木々だった。
幾重にも重なる枝葉の隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいる。土と草の匂いが鼻をくすぐり、どこかで鳥の鳴く声が聞こえた。
なぜ、森の中にいるのだろう。
そう考えた途端、胃の底から強烈な吐き気が込み上げてきた。
「気持ち悪いぃ……」
和華は横を向き、口元を押さえた。
先ほどまでの耐え難い苦痛は薄れている。だが、身体の中を何かが巡っているような異物感と吐き気は、まだ消えていなかった。
「意識は戻ったようだな」
すぐ隣に、誰かが座っていた。
古めかしい和服をまとい、顔には白い犬の面をつけている。体格は、おそらく女性だろう。
祭りの途中なのだろうか。
それとも、何かの撮影だろうか。
混乱しながらも、今は事情を尋ねている場合ではない。
「うぅ……あなたは? すみません、ちょっと本当にやばくて……。救急車を呼んでもらえますか?」
「じきに慣れる」
「え?」
「死にはしない」
あまりにも淡々とした返事だった。
和華は言葉を失った。
救急車を呼んでほしいと言っているのに、なぜこの人は動こうとしないのだろう。
ちょっと、本当に勘弁してほしい。
こっちは本気で体調が悪いのだ。
身体の節々が痛む。胸も苦しい。今度こそ本当に死ぬのかもしれない。
もし、これで死んだら――。
絶対に、こいつを恨んでやる。
そう思った瞬間、胸を締めつけていた痛みが、わずかに和らいだ。
「深く息を吸ってみろ」
犬の面の人物が言った。
なぜ素直に従おうと思ったのか、自分でも分からない。
和華は目を閉じ、鼻から大きく息を吸い込んだ。
森の冷たい空気が肺を満たす。
ゆっくりと吐き出す。
もう一度、吸って、吐く。
「あ……」
呼吸を繰り返すたびに、身体の内側で暴れていた何かが静まっていく。
指先に感覚が戻り、重かった手足が少しずつ自分のものになっていく。吐き気も、いつの間にか弱まっていた。
「大丈夫そうだな」
犬の面が、和華の顔を覗き込む。
「お主、和華か?」
「そうですけど……」
反射的に答えてから、和華は眉をひそめた。
「どうして、私の名前を知っているんですか?」
制服の胸元を確認する。名札はつけていない。
鞄の中の生徒手帳を見られたのだろうか。そもそも、その鞄すら近くには見当たらない。
「そうか」
相手は質問に答えず、静かに立ち上がった。
「あの!」
和華も上体を起こす。
「もしかして、あなたが看病してくれたんですか? それとも、何か治療を……?」
「大したことはしていない」
和服の裾が、風に揺れる。
「私が、そうしたいと思っただけだ」
「そう、ですか……」
言っている意味はよく分からなかった。
それでも、この人物が自分を助けてくれたことだけは間違いないらしい。
和華は木の幹に手をつき、ふらつきながらも立ち上がった。
「あの、名前を聞いてもいいですか? 後日、ちゃんとお礼をしたいので」
相手はすぐには答えなかった。
森を抜けていく風が、二人の間を通り過ぎる。
やがて、その人物は顔を覆っていた犬の面へ手をかけた。
わずかに面を傾け、その奥から片方の目だけを覗かせる。
人間のものとは思えない、金色の瞳だった。
「……燕華だ」
初めて口にする名を確かめるように、ゆっくりと告げる。
「燕華の華は、お前と同じだ」
その声が、なぜか少しだけ寂しそうに聞こえた。
面の下にどのような表情があったのか、和華には分からない。
「燕華さん」
その名を忘れないよう、和華はもう一度口にした。
「助けていただき、ありがとうございます!」
燕華は返事をせず、和華へ背を向けた。
そのまま木々の奥へ歩き始める。
「あの、待ってください! ここって、どこなんですか?」
燕華は足を止めなかった。
「その鳥居をくぐり、真っすぐ山を下りれば里がある。そこへ行くといい」
言われて初めて、和華は辺りを見回した。
鬱蒼とした木々。
苔に覆われた岩。
人の手が入った形跡のない獣道。
少し離れた場所には、色の剥げ落ちた古い鳥居が立っている。
ここは公園でも、学校へ向かう道でもない。
本当に、山の中だ。
「えっ……?」
慌てて燕華の姿を捜す。
しかし、先ほどまでそこにいたはずの人物は、もうどこにもいなかった。
木々が揺れる音だけが、森の中に残されている。
「何なの、あの人……」
和華は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
画面に表示された時刻は、午前八時五十分。
「やばっ! 初日から遅刻しちゃう!」
慌てて画面を操作しようとして、右上の表示に気づく。
圏外。
「えっ、圏外!?」
何度機内モードをオンオフするが変わらない。
電話も、地図も使えない。
学校へ向かっていたはずなのに、なぜか見知らぬ山の中にいる。
考えれば考えるほど、頭が混乱した。
それでも、ここに立ち尽くしているわけにはいかない。
和華は鳥居へ向かって走り出した。
先ほどまでの苦しさが嘘のように、身体は軽かった。
◇
今日は雲一つない快晴だった。
しかし、里の人々に空を眺めている余裕はない。
朝から家の前を掃き、道を整え、軒先に出していた道具を片づけている。子供たちは一張羅に着替えさせられ、大人たちは何度も互いの身なりを確認していた。
皓月自らが率いる討伐隊が、この里を通過するからだ。
討伐隊は霊域に棲む大物の妖怪を討つため、数日前に都を出発していた。
この里へ滞在する予定はない。
それでも、皓月が通る際には、村人総出で道沿いに並び、出迎えることになっている。
国から命じられたわけではない。
それでも、そうしなければならない。
誰もが従う暗黙の決まりだった。
一人の女が、軒先に干していた洗濯物を慌ただしく取り込んでいると、背後から若い声が聞こえた。
「あのー! すみません!」
女が振り返る。
そこには、見たことのない少女が立っていた。
黒い髪を短く切り揃え、奇妙な衣服を身につけている。上着も短いスカートも、女が知るどの織物とも違っていた。
何より、少女が歩いてきた方角に問題があった。
霊素濃度の高い、立ち入りを禁じられた山。
「あなた! どこから来たのさ!」
女の剣幕に驚き、和華は背後を指さした。
「えっ? あの山からですけど……」
「山から?」
女は目を見開いた。
里の者が一人で入れば、半日もせずに体調を崩す場所だ。霊力の高い兵ですら、中和なしでは長く留まれない。
そんな山から、この少女は何事もなかったように歩いてきた。
女は和華の珍しい衣服を上から下まで眺める。
「なんだい。皓月様の伝令役かい?」
「いえ、ただの高校生ですけど……」
「こうこうせい?」
今度は女が首を傾げた。
「そういう名の部隊なのかい?」
「部隊じゃなくて、学校に通っている学生で……」
そこまで答えてから、和華は説明を諦めた。
話がまったく噛み合わない。
「あの、ちなみに……ここって、どこですかね?」
女の困惑が深まった。
しかし、和華も同じくらい困惑している。
燕華に言われたとおり鳥居をくぐり、山道を下りてきた。すると、本当に人の住む場所が見つかった。
だが、里を構成するのは藁葺き屋根と木造の家ばかりだった。舗装された道路も、電柱も、自動車も見当たらない。
時代劇で見る村そのものだ。
撮影用の建物には見えない。家々には人が暮らし、庭先には薪や農具が置かれている。土の道を歩く人々は、誰もが和服に似た衣服を身につけていた。
まるで、過去にタイムスリップしてしまったようだった。
「おーい!」
離れた場所から、男の声が響いた。
「皓月様御一行が到着なされるぞ! 早く道へ出ろ!」
女が慌てて洗濯物を抱え直す。
それから和華へ向き直った。
「あなた、本当に皓月様御一行とは関係ないのね?」
「はい。皓月という方も存じません」
村長のような人だろうか。
和華がそう考えていると、女は突然、その手をつかんだ。
「なら、あなたも来なさい!」
「えっ、ちょっと!」
抵抗する間もなく、和華は女に引かれて走り出した。
家々の間を抜け、角を曲がると、里を貫く大通りへ出た。
道の両側には、すでに大勢の人が並んでいる。
その視線の先――里の入り口から、武装した一団が姿を現した。
「何、あれ……」
先頭を進むのは、戦国武将のような鎧を身につけた兵士たちだった。
腰には剣らしきものを下げ、整然と隊列を組んで歩いている。掲げられた旗には、和華の知らない紋章が描かれていた。
祭りか、時代行列のようにも見える。
だが、兵士たちの鎧には泥と傷がつき、中には包帯を巻かれ、仲間に肩を貸されている者もいた。後方では、布を被せられた何かが荷車に載せられている。
作り物ではない。
少なくとも、和華にはそう見えた。
胸の奥に、冷たい不安が広がっていく。
異世界転移も、時間旅行も、物語の中だけの話だ。
そんなものを信じているわけではない。
けれど、目の前にある光景は、和華の知る日常からあまりにもかけ離れていた。
テレビの企画だろうか。
手の込んだ悪戯だろうか。
そう考えようとしても、どこにも撮影機材は見当たらない。これほど広い里を丸ごと造り、大勢の人を集める理由も思いつかなかった。
「ほら、きちんとなさい」
隣の女が背筋を伸ばした。
通りに並ぶ人々が一斉に口を閉ざす。
誰もが右手を胸に当て、深く頭を下げた。
和華も周囲を真似て、右手を胸元へ添える。
やがて、隊列の中央が和華の前へ近づいてきた。
兵たちに守られるようにして、一人の少女が歩いている。
腰まで伸びた、純白の髪。
陽の光を受けたそれは、雪とも銀とも違う、淡い輝きを放っていた。
年齢は和華と変わらないように見える。
しかし、その佇まいには、周囲の誰とも異なる静けさがあった。
戦いから戻ったばかりであるはずなのに、その衣には乱れ一つない。細い身体からは想像できないほど強い存在感が、離れた場所にいる和華の肌にまで伝わってくる。
純白の少女が、ふと顔を上げた。
その視線が、和華を捉える。
赤い瞳。
血の色よりも鮮やかで、炎よりも冷たい瞳だった。
一瞬、周囲の音が消えたように感じた。
少女は足を止めない。
だが、通り過ぎるまでのわずかな間、その赤い瞳は確かに和華へ向けられていた。
この人が、皓月だ。
誰かに教えられたわけでもない。
それでも、和華には分かった。
神と呼ばれる者がいるのなら、きっとこういう姿をしている。
そう思わせるほど、その少女は異質だった。
隊列が通り過ぎると、張りつめていた空気が一気にほどけた。
「皓月様を、あんなに近くで拝見できるなんて」
「なんとお美しい……」
「妖怪を討ち果たされたそうだぞ」
「これで、あの山も安全になる」
里の人々が、興奮した様子で語り合っている。
和華は周囲の者たちに尋ね、少しずつ事情を聞き出した。
皓月は、この国を治める王のような立場にあること。
人々から、本物の神として崇められていること。
この世界には、妖怪と呼ばれる人ならざる者が存在すること。
そして、その妖怪を皓月率いる討伐隊が倒してきたこと。
知らないことばかりだった。
それなのに、「妖怪」という呼び名だけは、和華のいた世界と共通している。
言葉も通じる。
人々の暮らしは、歴史の授業で習った鎌倉時代か戦国時代に近いように見える。
もしかすると、自分は過去へ来てしまったのだろうか。
和華は記憶の中にある歴史上の人物を必死に探した。
皓月という名の女王。
白い髪と赤い瞳を持ち、神として崇められた少女。
そんな人物が、日本史にいただろうか。
少なくとも、和華の知る歴史には存在しない。
確かめる手段はなかった。
スマートフォンは相変わらず圏外で、目の前の人々は「スマートフォン」という言葉さえ知らない。
ならば、ここは過去ではない。
本当に、別の世界なのかもしれない。
そう考えたとき、脳裏に先ほどの赤い瞳が浮かんだ。
皓月。
この世界で神と呼ばれる少女。
あの異様な存在感を持つ者なら、何かを知っているかもしれない。
自分がここへ来た理由も。
元の世界へ戻る方法も。
「そういえば、あんた……」
女は、隣にいたはずの和華へ声をかけた。
「ずいぶん珍しい格好をしているけど、いったい――」
振り返った先には、誰もいなかった。
「あれ? どこへ行ったのかしら」
和華はすでに、大通りを駆け出していた。
遠ざかっていく討伐隊の背中を追いかけて。
あの白い少女に会わなければならない。
何の根拠もないまま、ただその思いだけに突き動かされていた。
このときの和華は、まだ知らない。
自分が迷い込んだのは、別の世界ではないことを。
皓月との出会いが、帰るための手がかりではなく――二人の運命を大きく変える始まりになることを。




