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並界戦記-環-  作者: ootori
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第一話「皓月」

暗い。


息が、できない。


冷たい土の感触が頬に触れている。指先を動かそうとしても、身体は自分のものではないように重かった。


苦しい。


胸の奥で、心臓が不規則に脈打っている。全身を内側から焼かれているような熱と、骨の隙間へ何かが入り込んでくるような痛みが交互に襲ってきた。


私は、何をしていたんだっけ。


途切れかけた意識の中で、たまき 和華のどかは記憶をたどる。


今日は高校の始業式だった。


制服を着て、いつもの道を学校へ向かうはずだった。


それから――。


何も思い出せない。


心臓発作だろうか。


事故に遭ったのだろうか。


何にせよ、このままでは本当に死んでしまうのではないかと不安になる。


「おい……聞こえるか?」


遠くから、誰かの声がした。


大人の女性のようにも、まだ幼さの残る少年のようにも聞こえる、不思議な声だった。


助けて。


救急車を呼んで。


そう言おうとしたが、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。


誰か――。


そこで、和華の意識は再び途切れた。



「目が覚めたか?」


聞き覚えのない声に、和華は重い瞼を持ち上げた。


最初に目に入ったのは、風に揺れる木々だった。


幾重にも重なる枝葉の隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいる。土と草の匂いが鼻をくすぐり、どこかで鳥の鳴く声が聞こえた。


なぜ、森の中にいるのだろう。


そう考えた途端、胃の底から強烈な吐き気が込み上げてきた。


「気持ち悪いぃ……」


和華は横を向き、口元を押さえた。


先ほどまでの耐え難い苦痛は薄れている。だが、身体の中を何かが巡っているような異物感と吐き気は、まだ消えていなかった。


「意識は戻ったようだな」


すぐ隣に、誰かが座っていた。


古めかしい和服をまとい、顔には白い犬の面をつけている。体格は、おそらく女性だろう。


祭りの途中なのだろうか。


それとも、何かの撮影だろうか。


混乱しながらも、今は事情を尋ねている場合ではない。


「うぅ……あなたは? すみません、ちょっと本当にやばくて……。救急車を呼んでもらえますか?」


「じきに慣れる」


「え?」


「死にはしない」


あまりにも淡々とした返事だった。


和華は言葉を失った。


救急車を呼んでほしいと言っているのに、なぜこの人は動こうとしないのだろう。


ちょっと、本当に勘弁してほしい。


こっちは本気で体調が悪いのだ。


身体の節々が痛む。胸も苦しい。今度こそ本当に死ぬのかもしれない。


もし、これで死んだら――。


絶対に、こいつを恨んでやる。


そう思った瞬間、胸を締めつけていた痛みが、わずかに和らいだ。


「深く息を吸ってみろ」


犬の面の人物が言った。


なぜ素直に従おうと思ったのか、自分でも分からない。


和華は目を閉じ、鼻から大きく息を吸い込んだ。


森の冷たい空気が肺を満たす。


ゆっくりと吐き出す。


もう一度、吸って、吐く。


「あ……」


呼吸を繰り返すたびに、身体の内側で暴れていた何かが静まっていく。


指先に感覚が戻り、重かった手足が少しずつ自分のものになっていく。吐き気も、いつの間にか弱まっていた。


「大丈夫そうだな」


犬の面が、和華の顔を覗き込む。


「お主、和華か?」


「そうですけど……」


反射的に答えてから、和華は眉をひそめた。


「どうして、私の名前を知っているんですか?」


制服の胸元を確認する。名札はつけていない。


鞄の中の生徒手帳を見られたのだろうか。そもそも、その鞄すら近くには見当たらない。


「そうか」


相手は質問に答えず、静かに立ち上がった。


「あの!」


和華も上体を起こす。


「もしかして、あなたが看病してくれたんですか? それとも、何か治療を……?」


「大したことはしていない」


和服の裾が、風に揺れる。


「私が、そうしたいと思っただけだ」


「そう、ですか……」


言っている意味はよく分からなかった。


それでも、この人物が自分を助けてくれたことだけは間違いないらしい。


和華は木の幹に手をつき、ふらつきながらも立ち上がった。


「あの、名前を聞いてもいいですか? 後日、ちゃんとお礼をしたいので」


相手はすぐには答えなかった。


森を抜けていく風が、二人の間を通り過ぎる。


やがて、その人物は顔を覆っていた犬の面へ手をかけた。


わずかに面を傾け、その奥から片方の目だけを覗かせる。


人間のものとは思えない、金色の瞳だった。


「……燕華えんかだ」


初めて口にする名を確かめるように、ゆっくりと告げる。


「燕華の華は、お前と同じだ」


その声が、なぜか少しだけ寂しそうに聞こえた。


面の下にどのような表情があったのか、和華には分からない。


「燕華さん」


その名を忘れないよう、和華はもう一度口にした。


「助けていただき、ありがとうございます!」


燕華は返事をせず、和華へ背を向けた。


そのまま木々の奥へ歩き始める。


「あの、待ってください! ここって、どこなんですか?」


燕華は足を止めなかった。


「その鳥居をくぐり、真っすぐ山を下りれば里がある。そこへ行くといい」


言われて初めて、和華は辺りを見回した。


鬱蒼とした木々。


苔に覆われた岩。


人の手が入った形跡のない獣道。


少し離れた場所には、色の剥げ落ちた古い鳥居が立っている。


ここは公園でも、学校へ向かう道でもない。


本当に、山の中だ。


「えっ……?」


慌てて燕華の姿を捜す。


しかし、先ほどまでそこにいたはずの人物は、もうどこにもいなかった。


木々が揺れる音だけが、森の中に残されている。


「何なの、あの人……」


和華は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。


画面に表示された時刻は、午前八時五十分。


「やばっ! 初日から遅刻しちゃう!」


慌てて画面を操作しようとして、右上の表示に気づく。


圏外。


「えっ、圏外!?」


何度機内モードをオンオフするが変わらない。


電話も、地図も使えない。


学校へ向かっていたはずなのに、なぜか見知らぬ山の中にいる。


考えれば考えるほど、頭が混乱した。


それでも、ここに立ち尽くしているわけにはいかない。


和華は鳥居へ向かって走り出した。


先ほどまでの苦しさが嘘のように、身体は軽かった。



今日は雲一つない快晴だった。


しかし、里の人々に空を眺めている余裕はない。


朝から家の前を掃き、道を整え、軒先に出していた道具を片づけている。子供たちは一張羅に着替えさせられ、大人たちは何度も互いの身なりを確認していた。


皓月こうげつ自らが率いる討伐隊が、この里を通過するからだ。


討伐隊は霊域に棲む大物の妖怪を討つため、数日前に都を出発していた。


この里へ滞在する予定はない。


それでも、皓月が通る際には、村人総出で道沿いに並び、出迎えることになっている。


国から命じられたわけではない。


それでも、そうしなければならない。


誰もが従う暗黙の決まりだった。


一人の女が、軒先に干していた洗濯物を慌ただしく取り込んでいると、背後から若い声が聞こえた。


「あのー! すみません!」


女が振り返る。


そこには、見たことのない少女が立っていた。


黒い髪を短く切り揃え、奇妙な衣服を身につけている。上着も短いスカートも、女が知るどの織物とも違っていた。


何より、少女が歩いてきた方角に問題があった。


霊素濃度の高い、立ち入りを禁じられた山。


「あなた! どこから来たのさ!」


女の剣幕に驚き、和華は背後を指さした。


「えっ? あの山からですけど……」


「山から?」


女は目を見開いた。


里の者が一人で入れば、半日もせずに体調を崩す場所だ。霊力の高い兵ですら、中和なしでは長く留まれない。


そんな山から、この少女は何事もなかったように歩いてきた。


女は和華の珍しい衣服を上から下まで眺める。


「なんだい。皓月様の伝令役かい?」


「いえ、ただの高校生ですけど……」


「こうこうせい?」


今度は女が首を傾げた。


「そういう名の部隊なのかい?」


「部隊じゃなくて、学校に通っている学生で……」


そこまで答えてから、和華は説明を諦めた。


話がまったく噛み合わない。


「あの、ちなみに……ここって、どこですかね?」


女の困惑が深まった。


しかし、和華も同じくらい困惑している。


燕華に言われたとおり鳥居をくぐり、山道を下りてきた。すると、本当に人の住む場所が見つかった。


だが、里を構成するのは藁葺き屋根と木造の家ばかりだった。舗装された道路も、電柱も、自動車も見当たらない。


時代劇で見る村そのものだ。


撮影用の建物には見えない。家々には人が暮らし、庭先には薪や農具が置かれている。土の道を歩く人々は、誰もが和服に似た衣服を身につけていた。


まるで、過去にタイムスリップしてしまったようだった。


「おーい!」


離れた場所から、男の声が響いた。


「皓月様御一行が到着なされるぞ! 早く道へ出ろ!」


女が慌てて洗濯物を抱え直す。


それから和華へ向き直った。


「あなた、本当に皓月様御一行とは関係ないのね?」


「はい。皓月という方も存じません」


村長のような人だろうか。


和華がそう考えていると、女は突然、その手をつかんだ。


「なら、あなたも来なさい!」


「えっ、ちょっと!」


抵抗する間もなく、和華は女に引かれて走り出した。


家々の間を抜け、角を曲がると、里を貫く大通りへ出た。


道の両側には、すでに大勢の人が並んでいる。


その視線の先――里の入り口から、武装した一団が姿を現した。


「何、あれ……」


先頭を進むのは、戦国武将のような鎧を身につけた兵士たちだった。


腰には剣らしきものを下げ、整然と隊列を組んで歩いている。掲げられた旗には、和華の知らない紋章が描かれていた。


祭りか、時代行列のようにも見える。


だが、兵士たちの鎧には泥と傷がつき、中には包帯を巻かれ、仲間に肩を貸されている者もいた。後方では、布を被せられた何かが荷車に載せられている。


作り物ではない。


少なくとも、和華にはそう見えた。


胸の奥に、冷たい不安が広がっていく。


異世界転移も、時間旅行も、物語の中だけの話だ。


そんなものを信じているわけではない。


けれど、目の前にある光景は、和華の知る日常からあまりにもかけ離れていた。


テレビの企画だろうか。


手の込んだ悪戯だろうか。


そう考えようとしても、どこにも撮影機材は見当たらない。これほど広い里を丸ごと造り、大勢の人を集める理由も思いつかなかった。


「ほら、きちんとなさい」


隣の女が背筋を伸ばした。


通りに並ぶ人々が一斉に口を閉ざす。


誰もが右手を胸に当て、深く頭を下げた。


和華も周囲を真似て、右手を胸元へ添える。


やがて、隊列の中央が和華の前へ近づいてきた。


兵たちに守られるようにして、一人の少女が歩いている。


腰まで伸びた、純白の髪。


陽の光を受けたそれは、雪とも銀とも違う、淡い輝きを放っていた。


年齢は和華と変わらないように見える。


しかし、その佇まいには、周囲の誰とも異なる静けさがあった。


戦いから戻ったばかりであるはずなのに、その衣には乱れ一つない。細い身体からは想像できないほど強い存在感が、離れた場所にいる和華の肌にまで伝わってくる。


純白の少女が、ふと顔を上げた。


その視線が、和華を捉える。


赤い瞳。


血の色よりも鮮やかで、炎よりも冷たい瞳だった。


一瞬、周囲の音が消えたように感じた。


少女は足を止めない。


だが、通り過ぎるまでのわずかな間、その赤い瞳は確かに和華へ向けられていた。


この人が、皓月だ。


誰かに教えられたわけでもない。


それでも、和華には分かった。


神と呼ばれる者がいるのなら、きっとこういう姿をしている。


そう思わせるほど、その少女は異質だった。


隊列が通り過ぎると、張りつめていた空気が一気にほどけた。


「皓月様を、あんなに近くで拝見できるなんて」


「なんとお美しい……」


「妖怪を討ち果たされたそうだぞ」


「これで、あの山も安全になる」


里の人々が、興奮した様子で語り合っている。


和華は周囲の者たちに尋ね、少しずつ事情を聞き出した。


皓月は、この国を治める王のような立場にあること。


人々から、本物の神として崇められていること。


この世界には、妖怪と呼ばれる人ならざる者が存在すること。


そして、その妖怪を皓月率いる討伐隊が倒してきたこと。


知らないことばかりだった。


それなのに、「妖怪」という呼び名だけは、和華のいた世界と共通している。


言葉も通じる。


人々の暮らしは、歴史の授業で習った鎌倉時代か戦国時代に近いように見える。


もしかすると、自分は過去へ来てしまったのだろうか。


和華は記憶の中にある歴史上の人物を必死に探した。


皓月という名の女王。


白い髪と赤い瞳を持ち、神として崇められた少女。


そんな人物が、日本史にいただろうか。


少なくとも、和華の知る歴史には存在しない。


確かめる手段はなかった。


スマートフォンは相変わらず圏外で、目の前の人々は「スマートフォン」という言葉さえ知らない。


ならば、ここは過去ではない。


本当に、別の世界なのかもしれない。


そう考えたとき、脳裏に先ほどの赤い瞳が浮かんだ。


皓月。


この世界で神と呼ばれる少女。


あの異様な存在感を持つ者なら、何かを知っているかもしれない。


自分がここへ来た理由も。


元の世界へ戻る方法も。


「そういえば、あんた……」


女は、隣にいたはずの和華へ声をかけた。


「ずいぶん珍しい格好をしているけど、いったい――」


振り返った先には、誰もいなかった。


「あれ? どこへ行ったのかしら」


和華はすでに、大通りを駆け出していた。


遠ざかっていく討伐隊の背中を追いかけて。


あの白い少女に会わなければならない。


何の根拠もないまま、ただその思いだけに突き動かされていた。


このときの和華は、まだ知らない。


自分が迷い込んだのは、別の世界ではないことを。


皓月との出会いが、帰るための手がかりではなく――二人の運命を大きく変える始まりになることを。

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