第零話「転換」
ざわざわと、木々が揺れていた。
風は森の奥から吹いている。湿り気を帯びた生温い風が枝葉を震わせ、人の住む地へ何かを運んでくる。
土と苔の匂い。
獣の体臭。
そして、目には見えない濃密な霊素。
人里から最も近い森の入り口に、二百人の兵が集まっていた。
誰一人として口を開かない。鎧の隙間から聞こえる浅い呼吸と、時折、武具が触れ合う音だけが静寂の中に響いていた。
彼らは各地から選び抜かれた、霊力の高い精鋭たちである。
それでも、森の奥へ目を向ける者たちの顔から緊張が消えることはなかった。
この先は、人の領域ではない。
霊域。
濃密な霊素によって満たされ、人間が長く留まることのできない異質な土地。そして、かつて神と呼ばれた者が棲む場所だった。
兵たちの前に、一人の少女が立っている。
腰まで流れる白銀の髪。森の薄暗がりの中でも、その髪だけは月光を宿しているかのように淡く輝いていた。
少女の名は、皓月。
人の姿をしていながら、人の域を超えた霊力を持つ存在。
五家評議会によって立てられた、この世界の新たな神である。
皓月は静かに兵たちを見渡した。
その表情に恐れはない。これから人類が一度も成し遂げたことのない戦いへ挑むというのに、彼女の眼差しは凪いだ水面のように澄んでいた。
「これより、霊域に入ります」
鈴の音を思わせる声が、森の入り口に響く。
「霊力の高い者は前へ。霊域の中和は慎重に行ってください。中和部隊の指揮は、嘉来に任せます」
名を呼ばれた男が、一歩前へ出た。
嘉来は討伐隊の中でも屈指の霊力を持つ壮年の兵である。背には武器ではなく、霊素を吸収するための旗を掲げている。
「承知しました」
嘉来が深く頭を下げる。
皓月は森へ向き直った。
「進みます」
その一言を合図に、二百人の討伐隊が動き出した。
先頭を進むのは、高い霊力を持つ兵たち。さらに左右を戦闘部隊が固め、その周囲に嘉来率いる中和部隊が進む。
森の中は、外から見るよりも暗かった。
枝葉が幾重にも重なり、日の光を遮っている。湿った地面には木の根が複雑に這い、足を踏み出すたびに柔らかな泥が沈んだ。
奥へ進むにつれ、空気が重くなっていく。
兵の一人が息苦しそうに胸元を押さえた。
別の兵は額に浮かんだ汗を拭い、何度も呼吸を整えている。
「霊素が強まっている」
嘉来が足を止めずに声を張る。
「中和の間隔を狭めろ! 一度に吸収しすぎるな。霊域を刺激すれば、何が起こるか分からん。周囲の変化に気を配れ!」
中和部隊の兵たちが、等間隔に地面へ旗を突き立てる。
淡い光が円を描くように広がり、周囲を満たしていた霊素が少しずつ薄まっていった。兵たちの呼吸が、わずかに楽になる。
それでも、皓月だけは歩調を変えなかった。
霊素の濃さなど感じていないかのように、森の奥へ進んでいく。
やがて、先頭の兵が手を上げた。
隊列が止まる。
木々の間に、古びた鳥居が立っていた。
赤い塗料は剥がれ落ち、柱には蔦が絡みついている。誰が、いつ建てたものなのかは分からない。
だが、鳥居の内側と外側では、明らかに空気が違っていた。
その先だけ、森が息を潜めている。
虫の声もない。
鳥の羽ばたきもない。
あるのは、腹の底まで震わせるような、何者かの呼吸だけだった。
皓月が鳥居の先を見つめる。
「あの先ですね」
その言葉に、討伐隊全体が強張った。
兵たちは剣の柄へ手を掛ける。しかし、鞘はない。彼らが腰に携えているのは、刀身の存在しない柄だけだった。
かつて、この世界には神がいた。
人ならざる姿と力を持ち、人間たちから畏れられ、祀られていた存在。
人々は彼らを神と呼んだ。
だが、それは偽りであった。
神を騙り、人々を欺いてきた妖怪――五家評議会は、そう証明した。
本物の神は、人の姿をしている。
人の言葉を話し、人を守り、人のために力を振るう。
皓月こそが、この世界の正しき神である。
それが今を生きる人々にとって、新たな真実となっていた。
皓月が鳥居をくぐる。
兵たちも、覚悟を決めて後に続いた。
鳥居の先には、開けた空間があった。
その中央で、巨大な何かが地面を掘り返している。
猪に似た姿をしていた。
しかし、人間の知る猪とは大きさが違う。四肢で立った背丈は大人の男を優に超え、全身を覆う黒い体毛は一本一本が針のように逆立っている。
口元から突き出した二本の牙には、乾いた泥がこびりついていた。
妖怪が顔を上げる。
濁った黄色の瞳が、侵入者たちを捉えた。
低い唸り声が響き、地面が震える。
兵たちの間に動揺が走った。
後ずさる者。
息を呑む者。
震える手で剣の柄を握り締める者。
皓月だけが、その場から動かなかった。
「これより、対象妖怪の討伐を開始します」
白い指が、わずかに持ち上がる。
次の瞬間、皓月の周囲に光が集まった。
一つ。
二つ。
五つ。
十を超える霊素の塊が空中に現れ、それぞれが細く引き延ばされていく。
やがて、それらは剣の形を成した。
柄も持たず、何にも支えられていない光の剣が、皓月の周囲に浮かんでいる。
彼女が指先を妖怪へ向けた。
宙に並ぶ剣が、一斉に放たれる。
甲高い破裂音が連続して鳴り響いた。
剣は妖怪の額や肩へ突き刺さり、硬い体毛と衝突して青白い火花を散らす。
すべてを貫くには至らない。
だが、攻撃を受けた妖怪は大きく仰け反った。
「グオオオオオオッ!」
森を揺るがす怒号が轟く。
周囲の木々から鳥の群れが一斉に飛び立った。
「構えよ!」
隊長の号令とともに、兵たちが腰の柄を引き抜く。
握り込まれた柄へ霊素が流れ込み、光が刀身を形作った。それぞれ長さも輝きも異なる、兵たち自身の霊力によって作られた剣である。
「我々は、これがなければ剣の一本すら作れないというのに……」
一人の若い兵が、皓月の周囲へ再び集まり始めた光を見つめる。
「あれほどの剣を、何もない空中から……。さすがは皓月様だ」
直後、妖怪が地面を蹴った。
巨体からは想像もつかない速度だった。
「来るぞ!」
兵たちの声が重なる。
妖怪の突進を受けた前衛が、左右へ弾き飛ばされた。鎧が砕け、数人の身体が木の幹へ叩きつけられる。
一人は立ち上がらない。
妖怪が頭を振り回すたび、巨大な牙が兵たちを薙ぎ払った。
悲鳴が上がる。
隊列が崩れかける。
それでも皓月の声は揺らがなかった。
「中和区域へ誘導します。予定どおり、三手に分かれてください」
兵たちが即座に動く。
左右の部隊が森の中へ散開し、中央の部隊だけが妖怪の正面に残った。
「中央隊、後退!」
中央の兵たちは妖怪へ霊素の剣を放ち、注意を引きつけながら後方へ走る。
妖怪が怒りに任せて彼らを追う。
その先には、嘉来たちが旗を立て霊素を中和した区域があった。
「来るぞ! 中和力を最大まで引き上げろ!」
嘉来の号令とともに、地面へ突き立てられた旗が強い光を放つ。
妖怪が中和区域へ踏み込んだ。
その瞬間、巨体が大きく沈んだ。
足が地面へ縫いつけられたかのように、その動きが重くなる。
妖怪を満たしていた霊素が、周囲の中和器に奪われているのだ。
「グオッ……!」
「皓月様!」
嘉来の声に応えるように、皓月が腕を振り下ろした。
彼女の背後に生まれた一本の剣が、空気を裂いて飛ぶ。
先ほどまでの剣よりも太く、眩い光を放つ一撃。
光剣は妖怪の硬い体毛を突き破り、その腹部を深々と貫いた。
青い血が地面へ飛び散る。そして蒸発する。
妖怪が苦悶の声を上げ、前脚を折った。
「今です!」
身を潜めていた左右の部隊が、一斉に飛び出す。
右から迫る無数の光剣。
左から斬りかかる兵たち。
妖怪も最後の力を振り絞り、牙を振るって抵抗する。先頭にいた数人が宙を舞い、地面へ叩きつけられた。
それでも、兵たちは止まらなかった。
仲間の身体を踏み越え、次々と妖怪へ刃を突き立てる。
肩へ。
脚へ。
腹へ。
霊素の剣が巨体を覆い尽くしていく。
やがて皓月が、ゆっくりと右手を掲げた。
頭上に、最後の剣が形成される。
それは兵たちの持つ剣とは比べものにならないほど巨大だった。
皓月が手を下ろす。
光が落ちた。
森を白く染める閃光とともに、剣が妖怪の首を貫く。
断末魔が、霊域に鳴り響いた。
巨大な身体がゆっくりと傾き、地響きを立てて倒れる。
巻き上がった土煙が収まっても、誰も動かなかった。
兵たちは剣を構えたまま、倒れた妖怪を見つめている。
妖怪は二度と起き上がらなかった。
やがて、一人の兵が震える声を漏らす。
「……勝った」
その言葉が、静まり返った森へ落ちた。
「俺たちが……妖怪を倒したぞ!」
歓声が上がる。
互いに肩を叩き、抱き合う者。膝から崩れ落ち、涙を流す者。
人が妖怪を倒した。
神と畏れ、ただ祈ることしかできなかった存在を、人の力で討ち果たしたのだ。
だが、皓月は歓声を上げなかった。
妖怪の亡骸と、その周囲に倒れている兵たちを見つめていた。
動かない者がいる。
血を流し、苦痛に呻く者がいる。
仲間の名を呼びながら、必死に傷口を押さえる者がいる。
「負傷者の救護を。中和部隊は霊素濃度を維持してください。まだ霊域の中です。警戒を解いてはなりません」
皓月の命令によって、兵たちはようやく動き始めた。
この日、人類は初めて妖怪の討伐に成功した。
五家評議会は、この勝利を人の時代の始まりと称えた。
参加した精鋭、二百名。
死者、十二名。
負傷者、三十二名。
多くの血と命によって、人間は神を殺せるのだと証明した。
それが人類にとっての希望となるのか。
あるいは、決して踏み越えてはならない境界を越えた瞬間だったのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




