蝉
初めに蝉の抜け殻を見つけた時、もうそんな時期かと思った。
中学校教師である自分の仕事着はスーツではなくてポロシャツとかジャージとかだ。部屋にかけていた次の日着るジャージは毎日取り換えている。なのに、そこに蝉の抜け殻がついている。
窓は閉まったままだとか、部屋に蝉はいないとか、まだ外で蝉の鳴き声はしていないとか、あらゆる疑念が何も思い浮かばなかった。ただ単に蝉の抜け殻を引っ張って、指でくしゃっと潰して捨てた。プラスチックより薄く軽い感触で、そこになんの感慨もない。今日も仕事だと思っただけだ。
「あれっ、うそっ先生肩に蝉の抜け殻ついてる!」
学校の廊下で女子生徒にそう指摘されて、再び抜け殻が肩にくっついていることに気づいた時は少し驚いた。男子生徒が悪戯でつけたのではないか、と笑われて一緒に笑った。抜け殻は指でくしゃっと潰してやっぱり捨てた。
くしゃっと潰して捨てた。
くしゃっと潰して捨てた。
くしゃっと潰して、くしゃっと潰して、くしゃっと潰して、捨てた。
職員室に戻って自席へ座ると、どこからともなく電話が鳴った。今座ったばかりなんだ、とため息とともに敢えて一拍置いて取る仕草をすれば、誰かが受話器を取ってくれたらしい。ひどく安堵したが、すぐに田中先生と名前を呼ばれた。
「あの、深山さんからお電話です」
思わず小さく舌打ちした。電話を取ってくれた女性に罪はないと分かっていても八つ当たりで不機嫌に返事をしてしまう。保留マークを押して固定電話の受話器を耳へ当てれば、最近聞きなればグスグスとした鼻声が、聞こえてきた。
「田中先生、この間のお話なんですけど伝えてくださいましたか」
「繰り返すようですけど生徒に毎朝迎えに行くよう強制などできません」
「そんな、娘だって仲の良かった佐山さんたちとなら登校するって言っているんです」
「二年生にあがって佐山は別のクラスになったんですよ、佐山たちと会いたいならせめて保健室の登校などを・・・」
「どうして同じクラスにしてくれなかったんですか!これじゃ娘はますます不登校になります!」
きぃんとするヒステリックな声に首を絞められるようだった。もう何度目の〈話し合い〉だろうか。受話器を叩きつけたい気持ちを抑え、なんとか宥めすかしていく。電話越しの泣き声に周囲の教師から同情が集まるのがわかる。
「大変ですねぇ、深山でしょう?一年の半ばから来てませんもんね」
「えぇ・・・学年が変わったときに一度でもきてくれとったらよかったんやけど」
隣席から労わりの声をかけてくれた肝心の佐山の担任教師。彼女もたまに被害を被っている。なんて言ったって仲が良かった佐山たちとやらに声をかけてくれたのは彼女だ。だが言われたのは深山?誰だっけ?あー不登校になった子!一年以上顔を見ていない同級生など、そんなものだろう。本当に仲がいいならプライベートで会っているはずだ。母親が勝手にいっているか娘がそう思い込んでいるか知らないが、そんな子たちにつまらないお願いはできない。
つまらないお願い、と思っている時点で教師として失格なのではないかとジリジリ胸を焼かれる気分に陥る。
(くそ、わかりやすく虐めでも受けとったら簡単やのに)
そんな最低な考えに何度だって捕らわれる。虐めが本当にあったなら、大事にはなるが警察でも教育委員会でも、何か取れる手がある。
だが深山は、どうして不登校になったのか、当時の担任にも聞いたが明確な理由はなかった。本人からもそんな証言はなかった。クラスメイトにも聞き取り調査をしたが、過激な暴力やからかいもなかった。女子同士のグループでもめたのかと思ったがそもそも喧嘩をする仲にまでならずに来なくなった。
「なんか嫌、行きたくない」
そんな曖昧な理由で不登校を選ぶ生徒を、どうして学校に来させようと頑張れるだろう。無理やり来させたって居心地が悪いだけだ。それも本人だけでなく周囲の生徒だって迷惑をこうむる。
「いや、いや、深山本人がどうこうってより母親のほうやわ」
頭を振って考えを正す。深山本人は毎日電話をしてくるわけでも本当は学校に行きたい!と騒いでいるわけではない。彼女の意志はまるで見えなくて、全部母親の独りよがりの気がする。あの鼻声が最近耳について仕方がない。甲高くてうるさくてやたら響くのだ。
みぃいいいいいいん
「大体義務教育やねんからほっといたらええがな」
みぃいぃぃぃぃいいん
「勉強は家でも出来るんやから」
みぃぃいいいんみぃぃぃぃん
「高校から友達作るんでも、ネットで友達つくるでもしたらええねん」
みぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいん
頭痛がする。
耳鳴りがする。
最近は眠れていない。
もう何も考えずに蝉の抜け殻をぐしゃっと潰して、出勤だけはした。
仕事は深山のことばかりではないのだ。授業も部活も委員会もPTAもあらゆるタスクが溜まっている。
「田中先生」
静かな声だった。誰もいない廊下だと思っていたので驚いて、勢いよく振り返るとそこに居たのは男子生徒だった。見たことがある。というか担当しているクラスの子だ。
「おぉ、柳か。どうした」
「・・・背中になんかついてるんで取っていいですか」
「ん?セミの抜け殻か!悪いな、最近どうも悪戯されとるみたいで」
あぁまたついてたか、なんて思って有難く背中を向けた。少しシャツを引っ張られるのを感じて、軽く礼を言う。柳の緩く握り込まれたその手の中に小さなセミの抜け殻がある。いつもすぐに潰していたから正確な形は思い浮かべられなかった。視界がノイズでいっぱいになっているようにも思えてきて、疲れているなと感じる。
「蝉って夜の間に脱皮しますよね」
「あー、そうやったな。そうや。土から出て、羽を綺麗に伸ばして乾かすんやったか」
「先生の部屋に蝉がいるとしたら五月蠅いでしょうね」
「何言うてんねん!」
そんなわけないやろ、と笑って言おうとして首を傾げた。悪戯でセミの抜け殻を服にひっかけられているはず。蝉自体は存在しない。だが抜け殻はいつの間に、誰がつけたか、今まで見て見ぬふりをしてきた疑念が一気に襲ってきて、混乱した。柳の真面目な顔をみているとぐらぐらと頭が沸騰しそうだった。
「これ、貰っていいですか」
「あ、あぁ、かまへんよ」
「・・・先生、蝉の寿命は短い。しばらく体調に気を付けてください」
「おぉ、おおきにな」
ついさきほど職員室でも顔色の悪さを指摘されたばかりだ、柳にも悟られるほどなのだろう。これはしっかりしなければ、と気を引き締める。
柳は何を考えているかわからない顔で静かに廊下の向こうへ消えていった。手には何か握ったままで、壊さないように、しかし逃げないようにしていた。
自宅に帰って、田中は一歩玄関へ足を踏み入れるのを本能的に拒否した。
違和感を覚えてしまったから、手足が震えるのが止められない。
みぃいいいいいんみぃいいいんみぃいいいいいん
頭を揺さぶられるほどの蝉の鳴き声が、この部屋いっぱいに埋め尽くされている。
きっとそうなのだと理解した。
「・・・はぁ、はぁ、くそが。蝉なんぞ一週間の命や」
何故か口からそう出てきて、納得をした。そうだ。蝉の命は短い。きっと大丈夫だと、そう思って部屋にはしっかり鍵をかけ直して踵を返した。
一週間ぐらい、ホテル暮らしでも平気だ。
◆
柳は帰宅するまで握りしめていたソレをベッドの下に投げ入れた。
「担任の先生が途中で変わるのも嫌だしね」
次の日、起床した後にいつも通りベッドの下を見たが、そこには何もなかった。柳は小さく頷いて、当たり前の日常をなぞった。




