ゲラゲラ
朝起きてすぐに柳透はベッドの下を確認する。
そこに何もないことを目視すると、あとはただ黙って日常のルーティンをなぞるだけだ。
着替えて、歯磨きをして、母の用意した朝食を食べて、忘れ物がないかチェックして玄関を出る。中学校に着くまでの通学路にはいつも挨拶をしてくれるサラリーマン、歩きスマホをしている男子高校生、必ず踏切近くにいる黒猫、いつも蹲っているセーラー服の人、イヤホンをしている同校の先輩、窓から窺ってくるお婆さん、電車に飛び込むお姉さん、げらげら笑ったままのおじさん、ランドセルを背負った小学生、そんないつもの存在を全部無視していく。
「おはよう」
無視する。
何故なら挨拶してくれているのはサラリーマンじゃなくて肩にとまっているオウムだから。そのオウムがヘドバンしながらサラリーマンの耳元で上司の悪口、部下の不満を口汚く罵っているが、柳には関係のない話だ。
自転車で通学している同級生が柳を追い越して行く。この辺りは軽自動車がギリギリ通れるかどうかという幅の道で、自転車と柳の距離は通り抜ける際に前髪が揺れるほどだ。その同級生の名前は知らない。だが誰もいないその先の道で、彼が少し右に避けて去っていくのを見た。
歩きスマホをしながら前から歩いてくる男子高校生が、自転車と同じ場所で何かを避けて、柳とすれ違った。柳は慌てたりせず、マイペースさを保ったまま何も気にせずに真っすぐ避けずに進んだ。なんてことはない平坦な道だ。電柱もなければ障害物もなく、何かが埋まっているとしても避ける必要はないと判断して、柳は気にせずに歩く。中学校はもう近い。
「聞いたか、柳!」
「ついに校門近くでゲラゲラのおっさんが通報されよった!」
教室に入るなり柳へ詰め寄った二人は畳みかけるように交互に喋る。勢いに押されて仰け反るものの、慣れたように柳は多めに相槌を打ちながら二人を引き連れたまま自席に座った。
「警察に質問されてもずっと笑ってたんやって!」
「裏山の病棟からの脱走かもしれんて!」
まるで双子のように息の合った喋り振りだが、彼らは全くの赤の他人。
田舎のヤンキーといった風体のプリン頭の小野と、いつでも寝ぐせのついたままの大野、大小コンビと言われているがどちらも中肉中背。
柳は鞄の教科書などを机へ取り出したりしながら、へぇ、なんて興味がなさそうに返事をする。
それでも二人は嫌な顔はせず、むしろ柳を挟んだまま二人で会話するようにゲラゲラとあだ名されていたおじさん・・・通学時に校門の近くでうろうろしている不審者として有名だったおじさんのことについて噂を続ける。
不審者といっても笑っているだけで、近づいてくるわけでもないので長らく見逃されていたのだが、二人によると今朝がた警察がきて連れて行ったようだ。逮捕するほどの迷惑行為とも言い難いが、どうやら薬物中毒疑い、といった方向での通報だという。
「近所のおばちゃんに聞いたんやけどな、あのおっさん嫁さんに逃げられてから鬱病になったとかで姿みいひんなったらしいわ。でも一年前くらいに裏山からゲラゲラ笑い声が聞こえてくるっていう噂が流れて、確かめにいったらあのおっさんやったらしい」
「そっから姿みいひん思ったらまた現れるってのを繰り返してるってんでもう有名」
不謹慎な会話ではあるが、誰も咎めることはなかった。なんだかんだ怪談めいたその話に興味津々で、周囲から視線が集まっていた。無邪気に大野が怪物退治しようぜなんて言いだすから、柳は静かに反対した。
「なんだよ、童心を取り戻せよ」
「趣味が悪いな」
不満そうな大野に、柳がさらにそう言えば、小野も呆れたような顔をして大野を宥めた。不良と誤解されがちな小野は案外常識的で、暴力はよくないと諭した。柳と小野の真面目な顔に勢いを削がれた大野は面白くないと言った風だったが、無神経な発言だったことは自覚しているらしく押し黙った。
担任が張り付けたような笑顔で元気に挨拶をして教室へ姿を現せば、立っていた生徒たちは散り散りになり自席へと戻った。担任教師のポロシャツには蝉の抜け殻がついていて、柳はそれに気づかないフリをしてその日を過ごした。昨日もついていたと知っているのは柳だけかもしれなかった。
放課後、だらだらと大野、小野、柳で並んで帰路についていた。
「なぁ帰りにどっか寄らんか」
「寄るってどこ?」
「いつもの俺の家パターンやろ」
カンカンとうるさく警告音が響く古臭い踏切を渡っても、広がるのは山沿いに広がる住宅街ばかりだ。駅一つ二つ向こうへ行けば商店街があるが、制服のままで行くのはあまり気が進まない。桜並木の坂を登っていくと大野の家があるから、上がり込んでゲームをするのが、お決まりの流れだ。
踏切を渡ってすぐの道路は、信号もなくガードレールもないので行き来は自由。車が向かってくるのが見えたから、三人が横並びで立ち止まった。車が通りすぎると、いつの間にか向かい側には今朝話題にしていたゲラゲラおじさんが立っていた。三人は同時に息をのんだ。
ゲラゲラとあだ名されるが、その時おじさんはぽつんと立っているだけで笑い声は上げていなかった。ただ表情だけが笑顔に固定されていて、不自然なお面のようだった。朗らかさなどは欠片もなく、引き攣って痙攣しているようにも見えて、本能的に気持ち悪いと警戒してしまう違和感だった。
おじさんは三人の進行方向である桜並木の山道に立っていて、避けるべきかどうか悩む位置取りだった。あからさまに避けては失礼か、と二人へ目配せしたのは小野。大野は威勢のいいことを言っていたものの間近で見ると異様なおじさんに恐怖したらしく、視線をちらちらと泳がせて真ん中の柳より少し遅れて歩いた。
少し速足に、おじさんを気にしないフリをして三人は彼の前を通り過ぎた。十分な距離ができると気が大きくなったのか、小野は大きく安堵のため息をついてから後ろを振り返った。
「げげっげらげらげら、ごほっ、げらげら」
「ひぇっ」
おじさんがしっかりと三人を見つめながら笑いだしたことに、小野はたたらを踏んで動揺した。驚いたのは大野も一緒だったろう。こけそうになった小野を何してんねん、と小さくどつきながらもおじさんから目が離せなくなっていた。柳は黙ったまま二人を引っ張って坂道を上がっていく。
「せっかく笑っとるし、目の前で一発芸してこいや小野」
「あほ抜かせ!お前声震えとるぞ!」
「・・・二人とも」
強がるように調子に乗る二人の背中を、柳は無理に押して前を向かそうとした。それをよぎるように甲高い声が響いた。複数人の子供の声だった。
「ゲラゲラだ!倒せ倒せ!」
「あはは、やべー!」
五人ほどのランドセル集団で、特にうるさい二人がゲラゲラ笑っているおじさんへ手近な木の棒や石を手に、距離をとって馬鹿にしていた。大野はまさに自分が言っていた怪物退治ごっこが目の前で始まって、その無邪気な悪意に口元がひきつっていた。
子供の集団はゲラゲラ笑ったままのおじさんに調子づいたのか、駆け寄ってパンチだかキックだかをしては離れるなどエスカレートしていっている。二人の男子以外は戸惑っている子と指を差して笑っている子など様々だが、止める様子はない。
小学生に対してゲラゲラと笑うおじさんは大柄だ、あまりダメージが入っているようには見えないが、決して愉快な光景ではなかった。
「あれはあかんやろ、ちょっと止めてくるわ」
「流石にな・・・」
大野と小野は眉間に皺を寄せて柳へそう言って身体を反転させようとしたが、柳は押しとどめた。彼にしては強く、はっきりと言う。
「やめろ、うつるぞ」
ゲラゲラと笑い声が響く、引き攣った泣き声のような無理やり出される悲鳴のような笑い声だ。
「げらげらげらあんたは本当にどうしようもないげらげらげら死ねよゲラゲラいいかお前はげらげらげら君はできそこないだからだからだからげらげらげら」
「何言ってんのきっしょー!ゲラゲラ」
「ゲラゲラ」
小学生の笑い声とおじさんの笑い声が入り混じって不可解な光景だった。小野と大野は耳について離れないその笑い声が小さくなっていくことに安心を覚えて、背中を押してくれた柳に内心でひどく感謝をした。だがそれをなんと言葉にしていいかよくわからず、小さく、悪いなとだけ呟いた。
「いいよ、別に」
「すまん、なんつーかやばい雰囲気やなかった?」
「ほんまに、通報しといたほうがよかったやろか・・・」
複雑そうに二人は顔を合わせたが、柳は少し長い深呼吸を一つして、一瞥もくれずに首を振った。
「なんも見てないよ、忘れたほうがいい」
それより大野の家寄っていい?とだけ言った。そんないつも通りの態度をとる柳に、二人も少しだけホッとして先ほどの光景を振り払うようにしてゲームの話をしだした。
不審者情報にあったおじさんがいたというだけで、幽霊でも化け物でもない。不可思議な現象でもなかった。ただどうにも納得できない緊張感が三人は共通して経験した。それを誰も言葉にはしなかった。
そうして三人が努めて噂を避けるようになったゲラゲラのおじさんとやらは、あまり学校でも話題にならなくなり、いつの間にか姿も見かけなくなったと聞いた。
今朝も柳は起床してすぐにベッドの下を覗き込んだ。
やっぱりそこには何もない。




