第75話 我部香凜の過去
一ノ瀬香凜は、裕福な家系の長女として生まれた。
小さい頃から何一つ不自由なんてなかったし、一人娘だということもあってかなり甘やかされて育ってきた。
周囲の友達も一ノ瀬に言った。
「香凜ちゃんの家って凄いよね」
「羨ましいなぁ」
「いいなぁ」
だから、必然的に欲しい物が手に入る。
だから、必然的に友達が集まる。
だから、必然的に私がみんなの中心になる。
——————それが、一ノ瀬には当たり前のことだった。
小学高学年になれば代表委員を務め、中学校に上がればその年からの一年間、立派に生徒会長を務めてみせた。
……そう、彼女が現れるまでは。
一ノ瀬香凜という名の少女の人生は、そこから狂い始めたのだ。
二年生となって迎えた生徒会選挙。
一ノ瀬にとっては続投をかけた勝負だったが、正直心配していなかった。
なぜなら——————私がみんなの中心だから。
周囲の生徒たちも、今年も一ノ瀬だろうと口にしていた。
だから、私が生徒会長をするのは決まっている。
……そう高を括っていた。
そして選挙の途中経過を知らせる張り紙を見て……絶句した。
彼女は、一ノ瀬よりも約五〇票も差をつけて暫定一位だったのだ。
しかも、彼女は一ノ瀬より一つ下の学年の新入生だった。名前すら聞いたこともない。
「——————皆さん、こんにちは。この度生徒会選挙に立候補した岬守美彩と申します」
大広場で挨拶運動をしている彼女を見て、思った。
……私より、全然劣ってるじゃん。
中身のない薄っぺらい話をだらだらと続けているだけ。
夢物語を語ってるだけ。
それなのに、自然と、彼女の周りに生徒たちが集まっていく。
本当に、意味が分からなかった。理解できなかった。
一ノ瀬には、これまで上手くやってきたという実績と経験がある。
だから、今は彼女に負けていても、最終的には私が勝つに決まっている。
だって——————私がみんなの中心だから。
だから一ノ瀬は、言葉を失った。
……〝落選〟したことに。
集計結果が学校中に張り出され、自分の名前の右上に〝落選〟が書かれている。
意味が分からなかった。
何かの間違いだと思った。
だが、何度見ても結果は変わらない。
しかも、当選したのはあの〝岬守美彩〟という訳の分からない女子生徒だった。
総票の差は……比較するまでもない。比較対象にすらなっていない。相手にすらなっていない。
岬守美彩が全校生徒の三分の二の票を集めているのに対し、一ノ瀬香凜が集めた票は、たったの二〇票。
恐らく、途中経過で一ノ瀬に入っていた票も岬守美彩に流れてしまっている。
……なんだ、これ。意味分かんないんですけど。
沸々と怒りが込み上げてくる。
そんな心境を抱えていた時、ふと他の生徒たちの会話が鮮明に聞こえてきた。
「まぁ、当然の結果だよね」
「岬守さんの公約の方が、夢あるもんね」
…………なんだ、それ(笑)。私の実現可能な公約は、実現不可能なくだらない公約に負けたのか?(笑)
その後のことはよく覚えていない。
微かに覚えていることがあるとするなら、誰かが悲鳴を上げていたことと、目の前にいた一人の生徒が鼻血を垂らして座り込んでいたことくらいだろうか。
…………私は何一つ悪くない。私は正しい。みんなが悪いのだ。
私が中心なのに、みんなが裏切ったりするから。
それから話は早かった。
一ノ瀬が学校で暴力を振ったことが両親の耳に入ると、二人は言い争いを始めた。
お前のせいで、一ノ瀬の名に傷がついた。どう責任取るんだ、とか。
あんたの責任でしょ、とか。
お前の教育の仕方が悪いからだろうが、とか。
あんたがちゃんと見てあげないからでしょ、とか。
その矛先が一ノ瀬に向くことは、一度もない。
一ヶ月の謹慎期間が終わっても、一ノ瀬は学校に行かなかった。
それから三ヶ月後……両親は離婚した。
一ノ瀬は母方に引き取られ、その際に『一ノ瀬』から『我部』へと苗字が変わった。
…………私は悪くない。何一つ、悪くない。
全部、みんなが私を見ないからいけないんだ。
でも、社会が、学校が、友達が、現実を突き付けてくる。
一ノ瀬から我部に苗字が変わったと同時に、今まで来ていた友達からの連絡がパタリと途絶えた。
恐らく、いやきっと、そういうことなのだろう。
だからこそ、学校へはどうしても行けなかった。
多分、今それを目にしたら、我部が我部自身の人格を否定することになるから。
それが何よりも、耐え難かった。許せなかった。
だから我部は、社会の、学校の、友達の、突き付けられる現実にたった一人で抗った。
この時だろう。
我部香凜に転機が訪れたのは——————
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