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帰りたい

第七話 「可愛いって言われたので、もう今日は帰りたい」


 土曜日の夜。


 私はベッドの上で、枕に顔を埋めていた。


「無理……」


 低い声が漏れる。


 脳内では、数時間前の会話が無限再生されていた。


『そういうとこ、可愛いなって思います』


「っぁぁぁぁ……」


 私は枕を抱えて転がった。


 何なんだあれ。


 不意打ちにも程がある。


 しかも単なる“可愛いですね”じゃなく、“そういうとこ、可愛いな”。


 言い方が妙にずるかった。


 外見だけじゃなく、中身込みみたいなニュアンスがある。


 いや考えすぎかもしれないけど。


 でも恋してる女は、そういう細かい言葉を拡大解釈する生き物なのだ。


 たぶん。


「……寝よ」


 逃避するように呟く。


 だが当然、寝られなかった。


 ◇

数時間前


 土曜日、朝。


 休日。


 つまり——電車がない。


「…………」


 私はソファに座り、ぼんやりテレビを見ていた。


 内容は全く頭に入ってこない。


 いつもなら休日は好きだった。


 誰とも会わなくていい。


 家でダラダラできる。


 最高。


 でも今日は違った。


 妙に落ち着かない。


「……会わないんだ」


 口に出してから、自分でびっくりする。


 たった数日だぞ?


 なのに、もう習慣になり始めている。


 私はコンビニコーヒーを飲みながら、スマホを見た。


 当然、通知はない。


 連絡先を知らないんだから。


「……」


 少しだけ寂しい。


 その感情を認めた瞬間、私は深くため息をついた。


 重症だ。


 昼過ぎ。


 気分転換に外へ出ることにした。


 とはいえ特に目的もない。


 適当にショッピングモールを歩き、本屋へ入る。


 恋愛小説コーナー。


「……」


 前なら絶対寄らなかった場所だ。


 だが今は、なんとなく目がいく。


『不器用な恋』


『恋は突然始まる』


『運命みたいな君と』


「うわぁ……」


 以前の私なら「タイトル恥ずかし」って思って終わりだった。


 でも今は、ちょっとだけ分かってしまう。


 突然始まるんだな、こういうの。


「……認めたくない」


「何をですか?」


「っ!?」


 心臓が止まりかけた。


 勢いよく振り返る。


 そこにいたのは。


「黒瀬さん!?」


 本当にいた。


 私服の黒瀬さん。


 黒のパーカーにデニムというラフな格好。


 会社帰りと違って少し雰囲気が柔らかい。


 そしてやっぱり格好いい。


 無理。


「……え、なんで」


「それ、こっちの台詞なんですけど」


 黒瀬さんが少し笑う。


「瀬名さん、本読むんですね」


「……一応」


「意外」


「どういう意味ですか」


「ゲームとかしてそう」


「偏見」


 でも少し分かる。


 インドア感はあると思う。


 私は動揺を隠すように本棚へ視線を戻した。


 無理だ。


 休日に遭遇するのは想定外。


 心の準備ができてない。


「黒瀬さんも本読むんですね」


「まぁたまに」


「……恋愛小説?」


「いや、ビジネス書探してました」


「あー」


 ちょっと安心した。


 いや何に。


 その時。


 黒瀬さんがふと私の手元を見る。


「瀬名さん、それ読むんですか?」


「……え」


 自分の持ってる本を見る。


 タイトル。


『恋愛初心者の距離感』


「…………」


 終わった。


 人生終了。


 なんでよりによってそれ手に取ってるんだ私は。


「ち、違……」


「ふはっ」


 黒瀬さんが吹き出した。


 珍しく、声出して笑ってる。


「いや、ごめんなさい、タイミング完璧すぎて」


「忘れてください……」


「無理です」


 二回目だぞそれ。


 私は顔を覆った。


 穴があったら入りたい。


 すると黒瀬さんが、まだ少し笑いながら言う。


「でも確かに、瀬名さんって距離感独特ですよね」


「……自覚あります」


「急に壁作ったり、急に緩んだり」


「……うるさいです」


「でも」


 黒瀬さんの声が少し柔らかくなる。


「そういうとこ、可愛いなって思います」


「…………」


 ダメだ。


 今日はもうダメ。


 私は数秒固まったあと、顔を逸らした。


「……黒瀬さんって、たまに爆弾投げますよね」


「え」


「心臓に悪いのでやめてください」


 すると黒瀬さんが少し目を丸くして、そのあと静かに笑った。


「……それ、結構嬉しいです」


「なんで」


「ちゃんと意識されてる感じするので」


 その言葉で、今度こそ完全に顔が熱くなった。


 私は本棚を見つめたまま、小さく呟く。


「……もう帰りたい」


「まだ来たばっかじゃないですか」


「精神的には帰宅しました」


 黒瀬さんがまた笑う。


 その笑い声を聞きながら、私は思った。


 ——休日に偶然会えただけで、こんなに嬉しいなんて。


 もう、本当に手遅れかもしれない。


(続く)

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