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距離感を間違える

第五話 「恋愛初心者、距離感を間違える」


 木曜日。


 私は会社のトイレで、自分の顔を見ていた。


「……顔に出てないよね」


 鏡の中の私は、いつも通り無表情だった。


 たぶん大丈夫。


 少なくとも“恋してます!”みたいな浮ついた顔ではない。


 ……と、自分では思っている。


「いや絶対出てるって」


「ぎゃっ!?」


 背後から声がして飛び上がる。


 高橋だった。


「驚き方が完全に不審者なんだよなぁ」


「急に話しかけないで……」


「で?」


「何が」


「黒瀬さん」


「なんで名前知ってるの!?」


「聞き出した顔してた」


 エスパーか?


 高橋はニヤニヤしながら手を洗う。


「進展した?」


「……名前知った」


「小学生?」


「うるさい」


 でも実際、昨日は大進展だった。


 名前を知った。


 会話した。


 笑った。


 しかも“また明日”まで言われた。


 ……いや改めて整理すると、完全に浮かれてるな私。


「で、連絡先は?」


「知らない」


「ご飯は?」


「行ってない」


「休日の予定は?」


「知らない」


「進展してねぇ〜」


 やめろ。


 事実を言うな。


 高橋は肩を震わせながら笑う。


「でもまぁ、電車で毎日話す仲なら悪くなくない?」


「……そうなのかな」


「少なくとも嫌われてはないでしょ」


 その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。


 嫌われてない。


 それだけで嬉しいと思ってしまう自分がいる。


 重症だ。


 そして翌朝。


 私はいつもの車両に乗り込んだ。


 自然を装いながら視線を巡らせる。


 すると。


「あ、おはようございます」


 先に見つけられた。


「……お、おはようございます」


 黒瀬さんは今日も眠そうだった。


 でも目が合うとちゃんと笑う。


 それがずるい。


「なんか今日、機嫌よさそうですね」


「えっ」


 バレてる?


「昨日より顔怖くないので」


「それ褒めてます?」


「半分くらい」


「微妙……」


 黒瀬さんが小さく笑う。


 ……やっぱりこの人、笑うと破壊力が高い。


 私は視線を逃がすように窓の外を見た。


 すると。


「瀬名さんって、仕事何してるんですか?」


「……営業事務です」


「へぇ。なんか納得」


「どういう意味ですか」


「ちゃんとしてそうなので」


「してませんよ」


「いや、してますよ」


 即答だった。


 私は少し戸惑う。


 会社では“真面目”とは言われる。


 でもそれは愛想がないから、余計なことをしないだけだ。


「黒瀬さんは?」


「IT系です」


「……あー」


「今“なんかっぽい”って思いました?」


「ちょっと」


「ですよね」


 そんな他愛ない会話。


 なのに楽しい。


 会話が途切れても気まずくない。


 沈黙が嫌じゃない。


 その感覚が、私には新鮮だった。


 そして電車が揺れる。


 私は反射的に踏ん張った。


 すると黒瀬さんが言う。


「もう完璧ですね」


「だから何なんですかその評価基準」


「成長を感じます」


「保護者?」


 笑い声。


 また心臓が跳ねる。


 ダメだ。


 慣れない。


 その時だった。


「黒瀬〜!」


 突然、別の男が車両の奥から声を上げた。


 ラフなスーツ姿の男がこちらへ来る。


「お、珍しい。知り合い?」


「まあ」


 黒瀬さんが軽く答える。


 男の視線が私へ向く。


「あー、彼女?」


「っ!?」


 思考停止。


 私は固まった。


 脳がフリーズした。


 一方、黒瀬さんは呆れた顔をする。


「違います」


「え、でも毎朝話してんじゃん」


「たまたま一緒になるだけ」


「へぇ〜」


 男がニヤニヤこちらを見る。


 やめろ。


 見るな。


 陰キャはその視線に弱い。


「黒瀬、こういう感じの人好きだったっけ」


「お前うるさい」


「図星?」


「違う」


 テンポ良く返される会話。


 でも私は、その“違う”で少しだけ胸がチクリとした。


 ……何期待してるんだ。


 まだ知り合って数日だろ。


 しかも電車だけの関係。


 なのに。


「じゃ、お邪魔しました〜」


 男はニヤニヤしながら別車両へ去っていった。


 静寂。


「……すみません、あいつうるさくて」


「……いえ」


 私は視線を落とした。


 なんか変に意識してしまう。


 “彼女”という単語が、頭の中に残っていた。


 すると黒瀬さんが少し困ったように笑う。


「……瀬名さん?」


「はい」


「今、ちょっと距離取りました?」


「……気のせいです」


 嘘だった。


 図星だった。


 自分でも分かるくらい、挙動がおかしい。


 黒瀬さんは数秒こちらを見たあと、ふっと笑った。


「ならよかった」


 その優しい言い方が、余計にずるかった。


 そしてその日。


 私は会社のデスクで無言のまま固まっていた。


 高橋が隣で言う。


「で?」


「……“彼女?”って言われた」


「おお〜〜〜〜〜!!」


「違うって否定された」


「おお……」


 温度差がひどい。


 私は机に突っ伏した。


「……何落ち込んでるんだろ私」


「いやまぁ、気になる人に即否定されたら多少はね」


「うるさい……」


 でも。


 あの時の黒瀬さん、少し困った顔してた気もするんだよな。


 ——なんて。


 そんなことを考え始めた時点で、もう完全に恋だった。


(続く)

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