名前は…
第四話 「名前を知っただけでこんなに嬉しいの終わってる」
水曜日。
私は駅のホームで缶コーヒーを握りしめながら、自分に言い聞かせていた。
今日は冷静にいく。
挙動不審にならない。
変な声を出さない。
あと、できれば転ばない。
「……よし」
小さく頷く。
周囲から見れば、朝から気合いを入れてる謎の女だったと思う。
電車が到着する。
人の流れに紛れながら乗り込む。
そして視線を上げた瞬間。
「…………いた」
いた。
三日連続。
もう怖い。
いや嬉しいけど。
男はドア付近に立ってスマホを見ていた。
黒いシャツに薄いグレーのジャケット。
シンプルなのに妙に似合う。
なんなんだこの人。
私は内心の動揺を隠しながら、少し離れた位置に立った。
——チラッ。
目が合う。
男が軽く笑った。
「おはようございます」
「ッ、お、おはようございます……」
朝から心臓に悪い。
挨拶された。
しかも自然に。
終わりだ。
こんなの好きになるだろ。
私は必死に吊り革を握った。
すると男が少し首を傾げる。
「今日は転ばなそうですね」
「……え」
「昨日かなり危なかったので」
覚えられてる。
転びかけた女として。
「……忘れてください」
「無理です」
即答だった。
しかも少し笑ってる。
なんだこの会話。
距離感が分からない。
私は顔を逸らしながら小声で言った。
「……恥ずかしいので」
「すみません。でも面白かったので」
「最低ですね」
「否定はできないです」
ダメだ。
会話のテンポが心地いい。
変に気を遣わなくていい感じがする。
その事実に、自分で少し戸惑った。
私は人付き合いが得意じゃない。
会話って基本疲れる。
相手の顔色を見て、空気を読んで、言葉を選んで。
でもこの人との会話は、不思議と息苦しくなかった。
「……そういえば」
男がふと思い出したように言う。
「毎日会ってるのに、名前知らないですね」
「……!」
心臓が跳ねる。
名前。
ついにそこまで来た。
「あ、俺、黒瀬です」
男——黒瀬さんは軽く会釈した。
「黒に、瀬戸内海の瀬」
「……瀬」
「?」
「いえ」
危なかった。
名字に“瀬”が入ってるだけで勝手に動揺した。
重症だ。
「……私は瀬名です」
「瀬名さん」
名前を呼ばれる。
たったそれだけ。
それだけなのに、耳が熱くなる。
なんだこれ。
破壊力高すぎない?
「じゃあ“瀬”仲間ですね」
黒瀬さんが笑う。
「そんなカテゴリあります?」
「今作りました」
その言い方が妙におかしくて、私は思わず吹き出した。
「ふっ……」
——あ。
やばい。
笑った。
会社でも滅多に愛想笑いしかしない私が、普通に笑った。
しかも結構自然に。
黒瀬さんが少し驚いた顔をする。
「……瀬名さん、ちゃんと笑うんですね」
「どういう意味ですか」
「いや、最初すごい警戒されてたので」
「……してました」
「やっぱり」
そりゃする。
知らない男に急に心臓握られてるような状態だったんだから。
むしろ警戒しない方がおかしい。
その時、電車が大きく揺れた。
今度はちゃんと踏ん張る。
すると黒瀬さんが少し感心したように言った。
「今日は完璧ですね」
「学習したので」
「偉い」
「子供扱いしてません?」
「少し」
「最低だ」
また笑う。
なんだこれ。
楽しい。
その感覚に、自分で驚いていた。
やがてアナウンスが流れる。
『次は、新宿〜』
降りる駅。
黒瀬さんはドアの方へ向かった。
でも今日は、昨日と違った。
降りる直前。
「瀬名さん」
「……はい?」
「また明日」
名前付きだった。
私は数秒固まったあと。
「……はい」
それだけ返すので精一杯だった。
扉が閉まる。
ホームへ降りた黒瀬さんが、人混みに消えていく。
そして私は。
「…………」
真顔でスマホを開き、メモ帳に追記した。
『名前:黒瀬』
『また明日って言われた』
『終わった』
客観視するとキモい。
でも今だけは許してほしい。
人生で初めて、“明日が楽しみ”だと思ってしまったから。
(続く)




