喧嘩?
第四十五話 「初めての喧嘩(未遂)」
人間とは不思議なものである。
あれだけ「喧嘩が怖い」と悩んでいたくせに。
いざ喧嘩になりそうになると。
もっと怖かった。
◇
事件は木曜日の夜に起きた。
私は仕事を終え、帰宅していた。
少し残業。
少し疲労。
少し頭痛。
要するにコンディションが悪かった。
そんな時だった。
スマホが鳴る。
蓮からのLINE。
『明日の件なんだけど』
明日。
金曜日。
仕事終わりに会う約束をしていた。
私は何気なくメッセージを開く。
『ごめん』
『急な仕事が入った』
『明日会えなくなりそう』
「……」
私は立ち止まった。
電車の中だった。
別に。
仕事なら仕方ない。
社会人だ。
理解はできる。
でも。
楽しみにしていたのも事実だった。
『了解』
短く返信する。
本当はもっと色々言いたかった。
でも。
疲れていた。
少しだけ。
拗ねていた。
◇
数秒後。
『怒った?』
メッセージ。
私は画面を見る。
『怒ってない』
送信。
即既読。
『怒ってる時の返事です』
「……」
腹が立つ。
何で分かるんだ。
◇
帰宅後。
私はベッドへ倒れ込んだ。
そして思う。
別に怒っているわけじゃない。
本当に。
仕事なのだから。
ただ。
少し寂しい。
それだけだ。
……たぶん。
スマホが鳴る。
着信。
蓮だった。
「……」
出るか迷う。
三秒。
五秒。
七秒。
結局出た。
「もしもし」
『もしもし』
いつもの声。
それだけで少し安心する自分がいる。
悔しい。
◇
『紗雪』
「何」
『怒ってる』
「怒ってない」
『怒ってる』
「怒ってない」
『怒ってます』
「……」
何この会話。
◇
しばらく沈黙。
そして。
蓮が小さく笑った。
『ごめん』
「……」
『本当に会う気だったんだけど』
「うん」
『断れなかった』
「うん」
『残念』
その一言で。
少しだけ力が抜けた。
だって。
蓮も会いたかったのだ。
私だけじゃなくて。
◇
「……」
『紗雪?』
「ちょっとだけ」
『うん』
「寂しかっただけ」
言った。
ようやく。
正直に。
すると。
電話の向こうが静かになる。
『それならよかった』
「何で」
『怒ってるわけじゃないので』
「……」
『会いたかっただけでしょう?』
図星だった。
私は枕へ顔を埋めた。
見えてなくてよかった。
◇
『でも』
蓮が言う。
『一個だけ』
「?」
『次からは言ってください』
「……」
『怒ってなくても』
『寂しいなら寂しいって』
「……」
私は少し黙った。
難しい。
そういうの。
昔から苦手だ。
でも。
蓮は続ける。
『俺は言ってほしい』
『分からない方が困るので』
優しい声だった。
責める感じはない。
ただ。
本当に知りたいだけなのが伝わる。
◇
「……分かった」
『うん』
「次からは言う」
『ありがとう』
「でも」
『?』
「会いたかった」
言った瞬間。
沈黙。
数秒。
そして。
『……』
「蓮?」
『今それ言います?』
少し掠れた声。
私は思わず笑った。
「事実なので」
『反則』
「知らない」
◇
電話を切った後。
私は天井を見上げた。
結局。
喧嘩にはならなかった。
いや。
なりかけたのかもしれない。
でも。
今日分かった。
喧嘩しないことが大事なんじゃない。
拗ねた時。
寂しい時。
ちゃんと伝えることの方が大事なんだ。
スマホが震える。
最後のメッセージ。
『来週埋め合わせする』
『期待してます』
送信。
すると。
『可愛い』
『撤回します』
『無理です』
即返信だった。
私は小さく笑う。
そして思う。
たぶん。
今日のこれは。
初めての喧嘩じゃなくて。
初めてのちゃんとしたすれ違いだったのだと。




