不安な紗雪
第四十四話 「うまくいきすぎて、少し怖い」
恋愛というものは。
もっと大変なものだと思っていた。
価値観の違いでぶつかって。
連絡頻度で揉めて。
嫉妬して。
喧嘩して。
仲直りして。
そういうものだと。
思っていた。
でも。
私と蓮さんは。
驚くほど喧嘩をしていなかった。
◇
「それはもう」
高橋が言った。
「惚気だね」
「違う」
昼休み。
社員食堂。
いつもの席。
いつもの流れ。
「いや絶対惚気じゃん」
「違う」
「どこが」
「本気で悩んでる」
私は真顔だった。
本当に。
少しだけ不安だった。
「だって」
私は箸を置く。
「付き合って結構経つのに」
「うん」
「まともな喧嘩してない」
「うん」
「怖くない?」
「全然」
即答だった。
◇
「瀬名」
「何」
「喧嘩したいの?」
「したくない」
「じゃあ何」
私は少し考える。
そして答えた。
「……いつかするでしょ」
「まあするんじゃない?」
「その時」
「うん」
「嫌われたらどうしようって」
高橋が数秒黙った。
そして。
「重いなぁ」
「うるさい」
◇
でも。
本当に思っていた。
蓮さんは優しい。
優しすぎるくらい優しい。
私が拗ねても。
嫉妬しても。
面倒だと思わず受け止めてくれる。
だからこそ。
ふと思ってしまう。
もし本気でぶつかったら?
もし価値観が違ったら?
もし蓮さんが怒ったら?
◇
その日の帰り。
私は蓮さんと会っていた。
駅から少し歩く。
いつもの帰り道。
「紗雪」
「はい」
「何かありました?」
さすがだった。
すぐ気付く。
「顔が少し難しい」
「そんな顔あります?」
「あります」
あるらしい。
私は少し悩んだ。
でも。
言うことにした。
「……蓮さん」
「はい」
「私たち」
「うん」
「喧嘩しませんね」
すると。
蓮さんが少しだけ目を丸くした。
予想外だったらしい。
「そうですね」
「……」
「したいんですか?」
「違います」
何でそうなる。
◇
「じゃあどうしたんですか」
私は少しだけ足元を見る。
「何か」
「うん」
「うまくいきすぎてる気がして」
「……」
「怖くなる時があるんです」
言ってしまった。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
でも。
蓮さんは笑わなかった。
真面目に聞いていた。
「嫌われたらどうしようとか」
「……」
「喧嘩したらどうなるんだろうとか」
「……」
「考えたり」
沈黙。
少しだけ。
夜風が吹いた。
◇
そして。
蓮さんがゆっくり口を開く。
「紗雪」
「はい」
「まず」
「……」
「そんなことで嫌いになりません」
即答だった。
迷いがなかった。
「でも」
「それに」
蓮さんが続ける。
「喧嘩しないのは価値観が全部同じだからじゃないですよ」
「え?」
「違うところもあります」
私は少し驚く。
「あります?」
「あります」
即答だった。
「例えば」
「?」
「俺、ホラー映画好きです」
「無理です」
「ほら違う」
確かに。
◇
「あと」
「?」
「俺は旅行の計画を細かく立てたい」
「私は適当です」
「違いますね」
「違いますね」
少し笑ってしまう。
「価値観が同じだから喧嘩しないんじゃなくて」
蓮さんが言う。
「お互いに歩み寄れてるだけですよ」
私は少し黙った。
その発想はなかった。
◇
「それに」
蓮さんが笑う。
「たぶんいつか喧嘩します」
「……」
「人間ですから」
「……」
「でも」
蓮さんが私を見る。
「その時は仲直りします」
当たり前みたいに言った。
まるで。
今日の天気を話すみたいに。
「そんなに自信あるんですか」
「あります」
「何で」
「好きなので」
またそれだ。
この人は。
本当に。
◇
私は少しだけ笑った。
不安が全部消えたわけじゃない。
でも。
少し軽くなった。
「紗雪」
「はい」
「ちなみに」
「?」
「今のは喧嘩じゃないですからね」
「何がですか」
「うまくいきすぎて怖い問題」
「……」
「相談です」
私は吹き出した。
確かに。
そうかもしれない。
◇
帰宅後。
私はベッドの上で今日のことを思い返していた。
恋愛に正解なんてない。
たぶん。
この先も不安になる。
悩むこともある。
でも。
それを話せる相手がいる。
聞いてくれる人がいる。
それだけで。
結構心強い。
スマホが震える。
蓮さんからだった。
『今日は相談してくれてありがとうございました』
『こちらこそ』
返信する。
すると。
『次は喧嘩じゃなくてデートの相談にしましょう』
私は思わず笑った。
そして。
『それなら得意です』
と返信した。
数秒後。
『知ってます』
という返事が返ってきた。
……。
何だろう。
やっぱり。
この人となら大丈夫な気がした。




