タメ口 蓮side
第四十二話 「敬語からタメ口は難しい」(蓮視点)
紗雪は基本的に敬語だ。
付き合う前からそうだった。
付き合った後もそうだった。
最近でこそ名前で呼んでくれるようになったが、
「ありがとうございます」
「そうなんですか」
「お疲れ様です」
この辺りは全く変わらない。
最初は気にならなかった。
むしろ紗雪らしいと思っていた。
でも。
付き合って数ヶ月。
少しだけ思うようになった。
――タメ口の紗雪、見てみたいな。
と。
◇
だから軽い気持ちで言ったのだ。
『一時間だけタメ口チャレンジしません?』
と。
今思えば。
あれは完全に自爆だった。
◇
「……美味しい」
カフェ。
向かい側。
紗雪が真っ赤になりながら言う。
たったそれだけ。
たった四文字。
それだけなのに。
破壊力がおかしい。
何だろう。
敬語の時は可愛い。
タメ口になると可愛さの方向性が変わる。
距離が近い。
というか。
妙に恋人感が強い。
危険だった。
「できてるじゃないですか」
平静を装う。
社会人である。
二十代後半である。
落ち着け。
「……」
しかし紗雪は気付いていない。
本人は恥ずかしさでいっぱいいっぱいだ。
その結果。
無防備になる。
非常に危険である。
◇
「休日何したい?」
紗雪が言う。
言い慣れていないせいで少しぎこちない。
でも。
それがまた可愛い。
「俺に聞き返さないでください」
何とか返す。
しかし内心は割と限界だった。
相沢が以前言っていた。
『お前、好きな女に弱そう』
失礼な話だと思っていた。
訂正する。
正しかった。
◇
そして帰り道。
事件は起きた。
「蓮」
呼ばれた。
不意打ちだった。
脳が一瞬止まる。
今。
呼ばれたか?
名前で?
しかも自然に?
「……」
立ち止まりそうになる。
まずい。
平静を保て。
大人だろ。
「蓮?」
二回目。
追撃。
しかもタメ口。
完全にクリティカルヒットだった。
私は反射的に顔を覆った。
「……」
無理。
本当に無理。
◇
「そんなに?」
紗雪が聞いてくる。
犯人が被害者に事情聴取している状態である。
本人に自覚がない。
「そんなに」
即答した。
すると紗雪が笑う。
楽しそうだった。
その笑顔を見ていると、
まあいいか。
と思ってしまう。
悔しい。
◇
帰宅後。
私はソファへ座っていた。
そしてスマホを見る。
紗雪とのトーク画面。
何となく今日のことを思い返す。
タメ口。
名前呼び。
近くなった距離。
付き合う前なら想像もできなかった。
最初の頃なんて。
目を合わせるだけで緊張していたのに。
今は。
こうして恋人として一緒にいる。
不思議なものだ。
スマホが震える。
通知。
紗雪から。
『おやすみ、蓮』
「……」
沈黙。
数秒。
いやもっと長かったかもしれない。
私はその画面を見つめる。
たった一行。
たったそれだけ。
でも。
今日一番の破壊力だった。
「……」
駄目だ。
本当に駄目だ。
私は静かに返信を打つ。
『無理です』
送信。
すぐ既読が付く。
そして。
『何が?』
と返ってきた。
何が、じゃない。
全部である。
名前呼びも。
タメ口も。
その無自覚さも。
全部だ。
私は苦笑しながらスマホを置いた。
たぶん。
紗雪はまだ知らない。
自分がどれだけ破壊力を持っているのか。
そして。
たぶんこれからも知らないままだ。
――それもまあ、紗雪らしいのだけれど。




