タメ口
第四十一話 「敬語からタメ口は難しい」
きっかけは、本当に何気ない会話だった。
「そういえば」
日曜日。
カフェで向かい合って座っている時。
蓮さんがコーヒーを飲みながら言った。
「紗雪って、ほとんど敬語ですよね」
「……」
私は固まった。
その話題。
来たか。
「そうですか?」
「そうです」
即答だった。
「付き合う前からずっとですし」
「……」
「今もほぼ敬語ですよね」
否定できない。
確かに私はずっと敬語だった。
付き合う前は当然。
付き合った後も、なぜかそのまま。
名前は呼べるようになった。
手も繋げる。
抱きつくことも少しならできる。
でも。
タメ口だけは別問題だった。
「……だって」
「うん」
「難しくないですか」
蓮さんが少し笑う。
「そんなにですか?」
「そんなにです」
私は真顔で答えた。
◇
考えてみてほしい。
今までずっと、
『蓮さん』
『そうなんですか』
『ありがとうございます』
『お疲れ様です』
で生きてきた。
それが急に、
『蓮』
『そうなんだ』
『ありがと』
になるのである。
無理では?
無理だと思う。
「紗雪」
「……はい」
「別に無理して変えなくてもいいですよ?」
「……」
「今のままでも好きですし」
さらっと言う。
こういうところである。
だから余計に意識する。
「でも」
私は少しだけ視線を逸らした。
「恋人っぽくないかなって」
すると。
蓮さんが目を丸くした。
「気にしてたんですか」
「少し」
正直に答える。
だって。
周りのカップルはもっと自然だ。
名前で呼び合って。
タメ口で話して。
距離が近い。
私たちは。
何というか。
恋人なのに時々会社の先輩後輩みたいになる。
◇
「じゃあ」
蓮さんが楽しそうに笑った。
「今日ちょっと練習します?」
「……え」
嫌な予感がした。
大体こういう時の蓮さんは楽しんでいる。
「一時間だけタメ口チャレンジ」
「何ですかそれ」
「面白そうじゃないですか」
「絶対面白がってますよね」
「少し」
認めた。
この人。
たまに高橋と同類になる。
◇
「じゃあ」
蓮さんが頬杖をつく。
「やってみてください」
「……」
「はい」
「……」
「紗雪?」
「……」
無理。
心の準備がいる。
すると。
蓮さんが少しだけ笑う。
「そんなに?」
「そんなにです」
「じゃあ簡単なのから」
「……」
「コーヒー美味しいですか?」
「美味しいです」
「タメ口で」
「……」
私は数秒考えた。
そして。
「……美味しい」
言えた。
言えたけど。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
何これ。
中学生?
「できてるじゃないですか」
「……」
「可愛い」
「そのコメント禁止です」
◇
その後も続いた。
「今日暑いですね」
「今日暑い」
「休日何したいですか?」
「休日何したい?」
「俺に聞き返さないでください」
「無理」
蓮さんが笑う。
私は本気で恥ずかしかった。
だって。
普段使わない言葉を使うのって想像以上に難しい。
◇
そして帰り道。
夕方。
駅へ向かう途中。
私は少しだけ考えた。
ここまで来たんだから。
最後に一つくらい。
ちゃんと。
「……蓮さん」
「はい」
「いや」
「?」
私は深呼吸する。
そして。
「蓮」
呼んだ。
一瞬。
蓮さんが止まった。
「……」
「……」
沈黙。
数秒。
いや数十秒。
「蓮?」
もう一度呼ぶ。
すると。
蓮さんが片手で顔を覆った。
「……」
「どうしたの」
自然に出た。
今度は敬語じゃなかった。
すると。
蓮さんが小さくため息を吐く。
「紗雪」
「……何」
「今日はもう駄目です」
「何がですか」
「心臓が」
私は思わず吹き出した。
蓮さんが照れるのは珍しい。
そして少し嬉しい。
「そんなに?」
「そんなに」
今度は蓮さんが即答した。
◇
その夜。
ベッドの中。
私は今日のことを思い返していた。
正直。
まだ慣れない。
敬語の方が楽だ。
自然だ。
でも。
今日少しだけ分かった。
タメ口になることは。
言葉遣いを変えることじゃない。
距離を少しだけ縮めることなんだと。
スマホが震える。
蓮さんからだった。
『今日は反則でした』
『?』
『名前呼び』
私は少し笑った。
そして。
少し迷ったあと。
返信を打つ。
『おやすみ、蓮』
送信。
数秒後。
『無理です』
という返事が返ってきた。
私は枕に顔を埋めながら、小さく笑った。




