名前呼び2
第三十二話 「“紗雪”って呼ばれただけで心臓が終わった」
「……そういえば」
土曜の夕方。
蓮さんの部屋。
私はソファでぐったりしながら、ふと思い出したように口を開いた。
「はい?」
「蓮さんって、一回も私の下の名前呼ばないですよね」
一瞬。
空気が止まった。
「……」
「……蓮さん?」
見る。
蓮さんが、珍しく少し固まっていた。
「……いや」
「?」
「それ、今言います?」
「え」
何その反応。
私は首を傾げた。
「私ばっか名前呼びしてるなって思って」
そう。
私は“蓮さん”って呼ぶようになった。
でも。
蓮さんは相変わらず“瀬名さん”のままだ。
「嫌とかじゃないですよね?」
「全然違います」
即答。
そのあと、蓮さんは少し困ったみたいに笑った。
「……単純に、照れるので」
「蓮さんでも?」
「俺でもです」
ちょっと意外だった。
この人、基本的に余裕あるから。
でも。
よく見ると耳が少し赤い。
「……呼んでみます?」
つい、意地悪したくなった。
すると。
蓮さんが細く息を吐く。
「煽りますねぇ」
「……少しだけ」
正直。
聞いてみたかった。
自分の名前を、この人が呼ぶところ。
好きな人の声で。
恋人として。
「……」
「……」
静かな沈黙。
そのあと。
蓮さんが、少しだけ観念したみたいに口を開いた。
「……紗雪」
「っ————」
終わった。
心臓。
無理。
私は反射的にクッションへ顔を埋めた。
「ちょ、待ってください無理」
「俺も無理です」
「え」
「破壊力高い」
蓮さんが片手で顔を覆っている。
珍しい。
かなり珍しい。
「……急に名前で呼ぶの、こんな恥ずかしいんですね」
「だから言ったじゃないですか……」
でも。
嬉しかった。
“瀬名さん”じゃなくて。
ちゃんと私個人を呼ばれた感じ。
距離がまた一歩近づいたみたいで。
「……紗雪」
「っ」
「顔隠さないでください」
「無理です……」
しかも二回目。
慣れるわけがない。
私はクッション越しに呻いた。
すると。
隣で蓮さんが小さく笑う。
「可愛い」
「それ今禁止です……」
「紗雪が可愛いのが悪い」
「語尾みたいに名前入れないでください……!」
ダメだ。
破壊力が跳ね上がる。
すると。
不意に、クッションを軽く引っ張られた。
「……」
「顔見せて」
「……やです」
「なんで」
「絶対赤いので……」
すると蓮さんが、少しだけ優しい声で言った。
「赤くなってる紗雪、好きですよ」
「…………」
無理。
私は完全に動けなくなった。
だが。
蓮さんは逃がす気がないらしい。
「紗雪」
「……っ」
「こっち」
名前呼びされるたび、心臓が跳ねる。
私は恐る恐る顔を上げた。
すると。
目の前で、蓮さんがすごく優しく笑っていた。
「やっと呼べた」
「……」
「ずっと呼びたかったんです」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……じゃあ何で呼ばなかったんですか」
「大事にしたかったから」
「……え」
「軽い感じで呼びたくなかった」
真っ直ぐな声だった。
私は数秒言葉を失ったあと、小さく俯く。
「……ずるい」
「何がですか」
「そういうこと普通に言うところです……」
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しくて仕方ない。
蓮さんがまた名前を呼ぶ。
「紗雪」
「……はい」
「好きです」
私は顔を真っ赤にしながら、それでも小さく笑った。
「……知ってます」
すると。
蓮さんも、少し嬉しそうに笑った。




