彼女IN彼氏宅 撃沈
第三十一話 「彼女、彼氏の家で完全にダメになる」
土曜日。
私は蓮さんの家に来ていた。
——いや。
“蓮さん”。
「……無理」
玄関入って五分。
私はもう限界だった。
「何がですか」
「名前」
後ろから笑い混じりの声。
私は靴を脱ぎながら顔を覆った。
「昨日からずっと恥ずかしいんですけど……」
「俺は嬉しいです」
「それがずるい」
蓮さんが楽しそうに笑う。
悔しい。
でも。
名前呼びしてから、妙に距離が近くなった気がする。
実際には何も変わってないのに。
ただ呼び方が変わっただけなのに。
その“特別感”が、思った以上に破壊力高かった。
「とりあえず座ってください」
「……はい」
ソファへ座る。
もう何回か来てる部屋なのに、未だに少し緊張する。
好きな人の生活空間。
慣れない。
「コーヒーでいいですか?」
「お願いします」
キッチンへ向かう蓮さん。
私はぼんやりその背中を見つめる。
「……」
「また見てます?」
「っ」
振り返らずに言われた。
「エスパーですか」
「視線感じるので」
「……」
バレてる。
でも仕方ない。
好きな人って、なんか見てしまう。
「はい」
「ありがとうございます」
マグカップを受け取る。
その瞬間。
指先が少し触れた。
「っ……」
反射的に肩が跳ねる。
すると蓮さんが笑った。
「未だにそんな反応するんですね」
「……条件反射なので」
「可愛い」
「軽率」
でも。
前よりは少し慣れた。
手を繋ぐのも。
隣に座るのも。
こうやって触れられるのも。
全部。
少しずつ。
「……蓮さん」
「はい」
「今日、仕事大丈夫なんですか」
「休みですよ」
「いやそうじゃなくて」
「?」
「私ばっか呼んでないかなって」
ぽろっと出た本音だった。
最近、蓮さんは本当に優しい。
会いたいって言えば会ってくれるし。
体調悪い時は飛んでくるし。
甘やかされてる自覚がある。
すると。
蓮さんは少しだけ目を丸くしたあと、困ったみたいに笑った。
「瀬名さん」
「……はい」
「俺、自分から会いたくて会ってるんですけど」
「……」
「むしろもっと呼んでほしいくらいです」
「っ」
また心臓。
私はマグカップへ逃げるように口をつけた。
熱い。
コーヒーじゃなくて顔が。
すると。
隣のソファが沈む。
「……」
近い。
蓮さんが隣へ座った。
距離。
近い。
でも最近、この距離が少しだけ自然になってきた。
「何考えてました?」
「……」
「言えない系?」
「……蓮さんって、本当に私のこと好きなんだなって」
言った瞬間、恥ずかしくなる。
何その確認みたいな台詞。
だが。
蓮さんは笑わなかった。
むしろ。
すごく優しい顔をした。
「好きですよ」
「……」
「かなり」
「……そういうの、真顔で言うの禁止です」
「なんでですか」
「心臓がもたないので……」
蓮さんが吹き出す。
「でも瀬名さん、最近ちゃんと受け取ってくれますよね」
「……まぁ」
前は、嬉しくても逃げてた。
照れて誤魔化して。
でも今は違う。
ちゃんと嬉しいって分かる。
信じられる。
すると。
不意に、蓮さんがこちらを見た。
「瀬名さん」
「……はい」
「こっち来ます?」
「……?」
一瞬意味が分からなかった。
次の瞬間。
軽く腕を引かれる。
「っ」
近い。
いや。
完全に。
抱き寄せられてる。
「…………」
思考停止。
心臓停止寸前。
「……蓮さん」
「はい」
「距離感がおかしいです」
「彼女なので」
「便利な言葉……」
でも。
離れたいとは思わなかった。
むしろ。
安心する。
蓮さんの腕の中、温かい。
「……」
「……」
静かな部屋。
落ち着く匂い。
近い体温。
その全部が心地よくて。
私は小さく息を吐いたあと、そっと蓮さんへ寄りかかった。
一瞬だけ。
抱きしめる腕に、少し力が入る。
「……可愛い」
「……今それ言うんですか」
「思ったので」
ずるい。
でも。
そんな風に甘やかされる時間が、今は嫌じゃなかった。




