名前呼び
第三十話 「名前で呼ぶ、それだけの難易度が高すぎる」
金曜日。
私は会社のトイレで鏡を見ながら、真剣に悩んでいた。
「……名前呼び」
付き合って一ヶ月。
未だに私は、黒瀬さんを“黒瀬さん”と呼んでいる。
いや別に普通ではある。
社会人だし。
職場近いし。
自然っちゃ自然。
でも。
問題はそこじゃない。
この前。
電話で。
『瀬名さんって、一回も名前呼びしないですよね』
と、黒瀬さんが笑いながら言ったのだ。
『……嫌とかじゃないです』
『ただちょっと聞いてみたいだけで』
その言い方がずるかった。
嫌じゃない。
むしろ。
呼びたい。
でも。
恥ずかしい。
「……難易度高すぎる」
私は深くため息を吐いた。
◇
「で、名前呼びしたいと」
昼休み。
高橋がニヤニヤしながら言う。
「……したいっていうか」
「うん」
「……してあげたい」
「うわ」
「何その反応」
「いや、瀬名めちゃくちゃ彼女っぽくなったなって」
私はうどんを啜りながら顔をしかめた。
自覚は、少しある。
前よりちゃんと“恋人”として考えるようになった。
黒瀬さんが喜ぶことしたい。
安心してほしい。
そういう気持ちが増えている。
「でもまあ分かる」
高橋が笑う。
「名前呼びって妙に照れるよね」
「そう……」
「今までの距離感が変わる感じするし」
まさにそれだった。
今まで“黒瀬さん”だった人を、急に下の名前で呼ぶ。
距離が近すぎる。
恋人感が強すぎる。
耐えられる気がしない。
「でも絶対喜ぶじゃん」
「……」
それは。
分かる。
絶対あの人、嬉しそうな顔する。
それを想像した瞬間、急に心臓がうるさくなった。
◇
その日の帰り。
私はずっとソワソワしていた。
今日、言えるかな。
いや無理かも。
でも。
今週ずっと考えてたし。
逃げたくない。
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
ホーム。
隣。
いつもの距離。
落ち着く匂い。
好きな人。
全部いつも通りなのに、今日は妙に意識してしまう。
「……?」
黒瀬さんがこちらを見る。
「なんか今日、挙動不審ですね」
「……放っておいてください」
「気になるんですけど」
「……」
無理。
今言う?
ここで?
人いるし。
でも後回しにすると、多分一生言えない。
電車が来る。
乗る。
揺れる。
沈黙。
心臓がうるさい。
すると。
不意に黒瀬さんが、小さく手を繋いできた。
「っ」
「冷たいですね、手」
「……緊張してるので」
「何にですか?」
「……」
言うしかない。
私は深呼吸した。
「……黒瀬さん」
「はい」
「その」
「はい」
「……蓮さん」
言った。
瞬間。
空気が止まった。
「……」
「……」
やばい。
恥ずかしい。
無理。
私は反射的に顔を逸らした。
「……今のなしで」
「待ってください」
隣から、少し掠れた声。
見る。
黒瀬さん——いや、蓮さんが、珍しく完全に固まっていた。
「……え」
「……」
「今、名前」
「……呼びました」
終わった。
恥ずかしすぎる。
だが。
次の瞬間。
蓮さんが片手で顔を覆った。
「……無理」
「え」
「破壊力やばいです」
「知らないです……」
「急に来るじゃないですか……」
耳、赤い。
珍しい。
私は目を瞬かせた。
「……そんなにですか」
「そんなにです」
即答だった。
そのあと。
蓮さんが、少しだけ困ったみたいに笑う。
「……嬉しい」
「っ」
ダメだ。
その顔。
反則。
私は俯きながら、小さく呟いた。
「……慣れません」
「俺も慣れないです」
「蓮さんでも?」
「好きな人に名前呼ばれるの、普通に嬉しいので」
また真っ直ぐ来る。
でも今は。
少しだけ、逃げずにいられた。
「……じゃあ」
「はい」
「たまに、呼びます」
すると。
蓮さんが、すごく優しく笑った。
「楽しみにしてます」
その笑顔を見た瞬間。
“名前を呼ぶ”って、ただの行為じゃないんだなと思った。
ちゃんと。
“特別”を伝える行為なんだ。




