表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/50

名前呼び

第三十話 「名前で呼ぶ、それだけの難易度が高すぎる」


 金曜日。


 私は会社のトイレで鏡を見ながら、真剣に悩んでいた。


「……名前呼び」


 付き合って一ヶ月。


 未だに私は、黒瀬さんを“黒瀬さん”と呼んでいる。


 いや別に普通ではある。


 社会人だし。


 職場近いし。


 自然っちゃ自然。


 でも。


 問題はそこじゃない。


 この前。


 電話で。


『瀬名さんって、一回も名前呼びしないですよね』


 と、黒瀬さんが笑いながら言ったのだ。


『……嫌とかじゃないです』


『ただちょっと聞いてみたいだけで』


 その言い方がずるかった。


 嫌じゃない。


 むしろ。


 呼びたい。


 でも。


 恥ずかしい。


「……難易度高すぎる」


 私は深くため息を吐いた。


 ◇


「で、名前呼びしたいと」


 昼休み。


 高橋がニヤニヤしながら言う。


「……したいっていうか」


「うん」


「……してあげたい」


「うわ」


「何その反応」


「いや、瀬名めちゃくちゃ彼女っぽくなったなって」


 私はうどんを啜りながら顔をしかめた。


 自覚は、少しある。


 前よりちゃんと“恋人”として考えるようになった。


 黒瀬さんが喜ぶことしたい。


 安心してほしい。


 そういう気持ちが増えている。


「でもまあ分かる」


 高橋が笑う。


「名前呼びって妙に照れるよね」


「そう……」


「今までの距離感が変わる感じするし」


 まさにそれだった。


 今まで“黒瀬さん”だった人を、急に下の名前で呼ぶ。


 距離が近すぎる。


 恋人感が強すぎる。


 耐えられる気がしない。


「でも絶対喜ぶじゃん」


「……」


 それは。


 分かる。


 絶対あの人、嬉しそうな顔する。


 それを想像した瞬間、急に心臓がうるさくなった。


 ◇


 その日の帰り。


 私はずっとソワソワしていた。


 今日、言えるかな。


 いや無理かも。


 でも。


 今週ずっと考えてたし。


 逃げたくない。


「お疲れ様です」


「……お疲れ様です」


 ホーム。


 隣。


 いつもの距離。


 落ち着く匂い。


 好きな人。


 全部いつも通りなのに、今日は妙に意識してしまう。


「……?」


 黒瀬さんがこちらを見る。


「なんか今日、挙動不審ですね」


「……放っておいてください」


「気になるんですけど」


「……」


 無理。


 今言う?


 ここで?


 人いるし。


 でも後回しにすると、多分一生言えない。


 電車が来る。


 乗る。


 揺れる。


 沈黙。


 心臓がうるさい。


 すると。


 不意に黒瀬さんが、小さく手を繋いできた。


「っ」


「冷たいですね、手」


「……緊張してるので」


「何にですか?」


「……」


 言うしかない。


 私は深呼吸した。


「……黒瀬さん」


「はい」


「その」


「はい」


「……蓮さん」


 言った。


 瞬間。


 空気が止まった。


「……」


「……」


 やばい。


 恥ずかしい。


 無理。


 私は反射的に顔を逸らした。


「……今のなしで」


「待ってください」


 隣から、少し掠れた声。


 見る。


 黒瀬さん——いや、蓮さんが、珍しく完全に固まっていた。


「……え」


「……」


「今、名前」


「……呼びました」


 終わった。


 恥ずかしすぎる。


 だが。


 次の瞬間。


 蓮さんが片手で顔を覆った。


「……無理」


「え」


「破壊力やばいです」


「知らないです……」


「急に来るじゃないですか……」


 耳、赤い。


 珍しい。


 私は目を瞬かせた。


「……そんなにですか」


「そんなにです」


 即答だった。


 そのあと。


 蓮さんが、少しだけ困ったみたいに笑う。


「……嬉しい」


「っ」


 ダメだ。


 その顔。


 反則。


 私は俯きながら、小さく呟いた。


「……慣れません」


「俺も慣れないです」


「蓮さんでも?」


「好きな人に名前呼ばれるの、普通に嬉しいので」


 また真っ直ぐ来る。


 でも今は。


 少しだけ、逃げずにいられた。


「……じゃあ」


「はい」


「たまに、呼びます」


 すると。


 蓮さんが、すごく優しく笑った。


「楽しみにしてます」


 その笑顔を見た瞬間。


 “名前を呼ぶ”って、ただの行為じゃないんだなと思った。


 ちゃんと。


 “特別”を伝える行為なんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ