キス
第二十一話 「キスって、予告なしで発生するんですか?」
映画が終わった頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「……結局あんまり内容入ってこなかった」
私が呟くと、黒瀬さんが笑う。
「ですよね」
「黒瀬さん途中で絶対こっち見てましたよね」
「バレました?」
「視線感じました」
「瀬名さん、反応分かりやすいので」
「……」
否定できない。
私はソファの端に置いていたクッションを抱え直した。
でも不思議だった。
好きな人の家。
隣同士。
付き合ってる。
普通ならもっと緊張して死んでると思ってたのに。
今は、ちゃんと落ち着いている。
もちろんドキドキはしてる。
でも。
“帰りたい”じゃなく、“もう少しここにいたい”と思っていた。
「お腹空きません?」
黒瀬さんが立ち上がる。
「あー……ちょっと」
「何か作ります」
「え」
「そんな驚きます?」
「いや、料理するんだなって」
「一人暮らし長いので」
黒瀬さんが冷蔵庫を開ける。
エプロン姿とか出てきたらどうしようと思ったが、普通にそのままだった。
ちょっと安心した。
いや、少しだけ見たかった気もするけど。
「手伝います」
「大丈夫ですよ」
「でも」
「じゃあ、そこ座って喋っててください」
「雑な指示」
でも。
キッチンに立つ黒瀬さんを見ている時間は、思った以上に楽しかった。
袖を軽くまくる仕草。
包丁使う手。
慣れた動き。
「……」
「なんですか」
「いや」
「また見てた」
「見ますよ、そりゃ」
「なんで」
「……好きな人なので」
沈黙。
あ。
今の自分から言った。
最近ちょっと素直になってきてる気がする。
一方、黒瀬さんは数秒止まったあと、小さく笑った。
「最近、本当に慣れてきましたよね」
「まだ全然慣れてません」
「でも前よりちゃんと口にしてくれる」
「……」
それは、たぶん。
黒瀬さんがちゃんと受け止めてくれるからだ。
怖くない。
否定されないって分かってる。
だから少しずつ、言葉にできるようになってきた。
「はい、完成」
運ばれてきたのはオムライスだった。
「っ」
「好きって言ってたので」
「……覚えてたんですか」
「覚えてますよ、そりゃ」
私はスプーンを握りながら、少しだけ俯いた。
こういうところだ。
好きになる理由が増えていくの。
「……美味しい」
「よかった」
ふたりで食べる。
静かな部屋。
穏やかな時間。
それだけで、胸の奥が温かかった。
そして。
帰る時間。
「送ります」
「近いので大丈夫です」
「夜なので」
「……過保護」
「彼氏なので」
「っ」
またそれだ。
私は靴を履きながら顔を逸らした。
玄関。
沈黙。
でも。
なんとなく。
空気が違った。
「……瀬名さん」
「はい」
名前を呼ばれる。
顔を上げる。
近い。
思ったより。
黒瀬さんの視線が、静かにこちらを見ていた。
その瞬間。
心臓が一気に跳ねる。
あ。
これ。
なんか。
空気が。
「……」
「……」
言葉が出ない。
でも離れられない。
黒瀬さんが、小さく息を吐いた。
「……嫌だったら、言ってください」
「っ」
その一言で、全部理解した。
キス。
たぶん。
今から。
私は数秒固まったあと、ぎこちなく首を横に振る。
「……嫌じゃ、ないです」
声が震えた。
でも。
黒瀬さんはすごく優しく笑った。
「よかった」
そのあと。
そっと触れる。
一瞬だけ。
本当に軽く。
唇に、柔らかい感触。
「——っ」
思考停止。
時間が止まる。
数秒後、離れる。
静かな玄関。
聞こえるの、自分の心臓の音だけ。
「……」
「……」
私は完全に固まっていた。
無理。
情報量。
多い。
「……瀬名さん」
「……はい」
「フリーズしてる」
「……ちょっと待ってください」
「はい」
「今、人生初なので……」
言った瞬間。
黒瀬さんが、珍しく完全に固まった。
「……え」
「あ」
しまった。
今言うタイミングじゃなかった。
だがもう遅い。
「……初?」
「……はい」
数秒、沈黙。
そのあと。
黒瀬さんが片手で顔を覆った。
「……無理」
「え」
「可愛すぎて無理です」
「何なんですかそれ……!」
私は顔を真っ赤にしながら抗議した。
でも。
黒瀬さんは困ったみたいに笑いながら、小さく呟く。
「……大事にします」
その声が、あまりにも優しくて。
私はまた、心臓が壊れそうになるのを感じていた。
(続く)




