通勤時間を調整してしまった…
第二話 「通勤時間を調整してる時点で負け」
火曜日。
私は家を出る三十分前から鏡の前で固まっていた。
「……何してんだろ、私」
口に出してみる。
冷静になれるかと思ったが、全然なれなかった。
クローゼットが半開きになっている。
ベッドの上には、脱ぎ散らかした服。
普段なら「黒のニット+適当なパンツ」で終わる支度に、今日は四十分かかっていた。
終わってる。
完全に終わってる。
しかも理由がさらに終わっている。
——昨日、電車で見かけた男にまた会うかもしれないから。
「いや会えないでしょ普通……」
そんな都合よく同じ車両になる?
東京だぞ?
人類何人いると思ってるんだ。
でも。
もし会えた時に、昨日と全く同じ死んだ服装なのも嫌だった。
だから私は、滅多に使わない白いブラウスを引っ張り出していた。
「……痛いなぁ」
二十六歳にもなって何してるんだ。
しかも相手は名前も知らない。
会話も「大丈夫ですか」しかしてない。
なのに昨日の夜、風呂で三回思い出して死んだ。
寝る前にも思い出して死んだ。
今朝起きて最初に思い出してまた死んだ。
恋愛耐性が低すぎる。
私は深いため息をつき、前髪を整えた。
「……よし」
覚悟を決めて家を出る。
そして——
昨日より二本早い電車に乗った。
理由?
昨日と同じ時間だと「狙ってる感」がある気がしたからだ。
でも遅すぎても会えないかもしれない。
結果、意味不明な駆け引きが発生した。
誰と戦ってるんだ私は。
電車に乗り込み、昨日と同じ位置へ立つ。
心臓がうるさい。
いや来ない。
普通に考えて来ない。
むしろ来たら怖い。
ストーカーみたいじゃん。
私はスマホを見るフリをしながら、視界だけを必死に巡回させる。
その時。
「……あ」
いた。
いた。
なんで?
本当にいた。
ドアの向こうから、昨日の男が入ってきた。
黒いコート。眠そうな顔。
そしてやっぱり、意味分からんくらい格好いい。
「…………」
ダメだ。
視線を向けるな。
自然にしろ。
普通を装え。
私は即座にスマホへ目を落とした。
だが、人間は緊張すると不自然になる生き物である。
スクロールしていたのは、昨日から開きっぱなしの天気予報だった。
しかも東京、降水確率0%。
何回確認するんだ。
「……」
男が近くに立つ。
距離、約一メートル。
近い。
無理。
香水なのか柔軟剤なのか分からない匂いがする。
落ち着いた匂い。
やめろ。
情報量が増えるな。
脳が処理落ちする。
その時。
ガタン、と電車が揺れた。
「っ」
バランスを崩す。
終わった、と思った瞬間。
「危な——」
ぐい、と腕を引かれた。
「……え」
気づけば私は、男の胸元にぶつかる寸前で止まっていた。
近い。
近い近い近い。
距離感バグってる。
「大丈夫ですか?」
またそれだ。
昨日も聞かれた。
でも今日は昨日より破壊力が高い。
至近距離だから。
「……っ、だ、大丈夫です」
声が小学生みたいになった。
男は少し安心したように笑う。
「よかった」
無理。
心臓が無理。
すると男が、ふと首を傾げた。
「昨日も会いましたよね?」
「!!!!」
認識されてた。
人生終了。
「え、あ、はい……たぶん……」
たぶんじゃない。
確定だ。
お前昨日から二十四時間ずっと考えてただろ。
「やっぱり。なんか見たことあるなって」
男はそう言って軽く笑う。
その自然な態度が余計に刺さる。
一方の私は、脳内が大事故だった。
(落ち着け落ち着け落ち着け)
ここでキモい挙動したら終わる。
ただでさえ陰キャなのに。
すると男がふとこちらを見る。
「通勤、この時間なんですか?」
「……え」
まずい。
その質問、今の私には致命傷だ。
本当は違う。
お前に会う可能性を上げるために調整した。
そんなこと口が裂けても言えない。
「……さい、最近は」
「最近は?」
「……ちょっと、仕事の都合で」
嘘ついた。
社会人、嘘が上達する。
「あー、分かります。俺も最近ちょっと変わって」
男は納得したように頷く。
助かった。
社会は優しい嘘で回っている。
その時、車内アナウンスが流れた。
『次は、新宿〜』
昨日と同じ駅。
男は降車口へ向かう。
そして降りる直前、こちらを見た。
「じゃあ、また」
また。
またって言った。
社交辞令?
分からない。
でも。
「…………」
扉が閉まったあと。
私は真顔でスマホを開き、メモ帳にこう打ち込んでいた。
『またって言われた』
キモい。
自分で分かってる。
でも、誰にも言えないから仕方ない。
そしてその日の昼休み。
私は会社のデスクで、一人静かに検索していた。
『通勤電車 一目惚れ 脈あり』
——仕事しろ。
(続く)




