彼氏という単語に馴染めない、馴染まない
第十三話 「彼氏という単語、まだ自分の人生に馴染まない」
翌朝。
私は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
「……」
天井を見る。
静かな部屋。
数秒後。
「……付き合ったんだ」
声に出した瞬間、急に実感が湧いた。
私はベッドの上で顔を覆った。
「無理……」
昨日のことを思い出す。
告白。
“嫌じゃないです”。
黒瀬さんの笑顔。
全部思い出して、一気に体温が上がった。
人生で初めて彼氏ができた。
その事実がまだ全然現実感ない。
私はスマホを手に取った。
画面。
LINE。
一番上。
『黒瀬』
「…………」
いる。
本当にいる。
昨夜のやり取りが残っている。
『今日はありがとうございました』
『こちらこそ……』
『また月曜、朝会えます?』
『……はい』
シンプルな会話。
でも、その一つ一つが妙に嬉しい。
私はスマホを胸に押し当て、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「恋愛向いてないかもしれない……」
情緒が乱高下しすぎる。
◇
月曜日。
ホームへ向かう足取りが、妙に落ち着かなかった。
付き合う前とは違う。
今まで“気になる人”だった相手が、“彼氏”になった。
……彼氏。
「無理、まだ慣れない」
小声で呟く。
すると。
「何がですか?」
「っっっ!!?」
後ろから声。
私は心臓を跳ねさせながら振り返った。
「黒瀬さん!?」
「その驚き方やめません?」
黒瀬さんが笑う。
今日は黒のコート姿だった。
相変わらず格好いい。
いや違う。
今はそうじゃない。
問題はそこじゃない。
「……近いです」
「まだ何もしてないですけど」
「存在が近い」
「理不尽」
付き合った途端、急に距離感が分からなくなった。
今まで通り話せばいいのに、それが難しい。
黒瀬さんはそんな私を見て少し笑う。
「瀬名さん、昨日からずっと挙動おかしいですよね」
「黒瀬さんのせいです」
「そんなに?」
「そんなにです」
即答だった。
電車が来る。
並んで乗り込む。
いつもの車両。
いつもの位置。
なのに、今日は全部違って見えた。
「……」
「……」
沈黙。
いや、気まずいわけじゃない。
ただ意識しすぎてる。
すると黒瀬さんが小さく笑った。
「なんか初々しいですね」
「うるさいです」
「瀬名さん、絶対恋愛慣れてないですよね」
「……否定できない」
「可愛い」
「軽率に言わないでください」
またそれだ。
心臓に悪い。
私は窓の外を見て誤魔化した。
その時。
電車が揺れる。
「あ」
軽くバランスを崩した瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
「……っ」
黒瀬さんの手。
掴まれている。
数秒、思考停止。
「危ないですよ」
「……」
「瀬名さん?」
「ちょっと待ってください」
「はい?」
「今、処理中なので」
黒瀬さんが吹き出した。
「処理って」
「急に触るのダメです」
「いや危なかったから……」
「分かってますけど……」
私は俯いた。
耳まで熱い。
触れられた。
それだけなのに。
ダメだ。
恋愛初心者、耐性が低すぎる。
すると黒瀬さんが、少しだけ優しい声で言った。
「……嫌でした?」
「違います」
即答。
今度は黒瀬さんが少し固まる。
あ。
やばい。
今の即答、だいぶ恥ずかしい。
「……嫌じゃ、ないです」
小さく言い直す。
黒瀬さんは数秒黙ったあと、ふっと笑った。
「よかった」
その言い方。
反則。
私はもう何も言えず、顔を逸らした。
そして新宿駅。
人の流れの中、一緒に改札へ向かう。
すると黒瀬さんが不意に言った。
「そういえば」
「……はい」
「彼氏って、呼んでみます?」
「っ!?」
何を言い出すんだこの人。
「無理です!!」
「即答」
「まだ心の準備が」
「準備いるんだ」
「いります!」
黒瀬さんが楽しそうに笑う。
悔しい。
完全に遊ばれてる。
でも。
そんな風に笑う黒瀬さんを見てると、私も少しだけ笑ってしまう。
——ああ、本当に付き合ったんだな。
やっと少しだけ、実感が湧いてきた。
(続く)




