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ただのご飯

第十一話 「“ただのご飯”のはずなのに、心拍数がおかしい」


 木曜日。


 朝からずっと落ち着かなかった。


 理由はもちろん——今日の夜。


 黒瀬さんとのご飯。


 私は会社の給湯室で、紙コップのコーヒーを持ったまま固まっていた。


「瀬名、そのコーヒーもう冷めてるよ」


「……あ」


 高橋だった。


 今日も朝からニヤニヤしている。


 人の恋愛をエンタメとして消費するな。


「で?」


「何が」


「今日」


「……」


「ご飯」


「……」


「デート」


「違う」


 即答した。


 高橋は爆笑した。


「いやその反応、もうデートって認めてるじゃん」


「違うって。普通の食事」


「男女二人で仕事終わりに会って、ご飯行って、連絡先交換してるのに?」


「うるさい……」


 耳が熱い。


 私は視線を逸らした。


 すると高橋が急に真面目な顔になる。


「まぁでも、楽しんできなよ」


「……」


「瀬名、最近ほんと変わったし」


「そう?」


「うん。前よりちゃんと笑う」


 その言葉に、少しだけ胸がくすぐったくなる。


 笑うようになった。


 確かにそうかもしれない。


 最近、毎日感情が忙しい。


 でもそれを、嫌だと思わなくなっていた。


 ◇


 十八時三十分。


 会社を出る。


 私はスマホ画面を三回確認した。


『改札前います』


 黒瀬さんからのメッセージ。


 シンプル。


 でも心臓には悪い。


 私は深呼吸してから駅へ向かった。


 改札前。


 人混みの中でも、黒瀬さんはすぐ見つかった。


 壁に寄りかかりながらスマホを見ている。


 その姿を見ただけで、胸がうるさくなる。


 ダメだ。


 好きだ。


「……お待たせしました」


 黒瀬さんが顔を上げる。


「あ、瀬名さん」


 そして数秒。


「……?」


「……え」


「いや」


 黒瀬さんが少し視線を逸らす。


「今日、雰囲気違うなって」


「っ」


 終わった。


 今日いつもよりちゃんとメイクしたのバレた。


「……気のせいです」


「いや、なんかいつもより柔らかい感じ」


「……」


 無理。


 そんな観察しないでほしい。


 黒瀬さんは少し笑った。


「似合ってます」


「…………ありがとうございます」


 声が小さくなる。


 心臓が忙しい。


 この人、褒める時の火力が高い。


 そして店へ向かう。


 落ち着いた洋食屋だった。


 照明が少し暗めで、雰囲気がいい。


 いや良すぎる。


「……なんか、オシャレですね」


「嫌でした?」


「いや、そうじゃなくて」


 “初回の店選び上手すぎない?”と思っただけだ。


 案内された席へ座る。


 向かい合わせ。


 逃げ場なし。


 私は水を飲んで誤魔化した。


「瀬名さんって、休日何してるんですか?」


「……家にいます」


「即答」


「だって本当に」


「インドアなんですね」


「黒瀬さんもでしょ」


「まぁそうですけど」


 少し笑い合う。


 電車の中より、ちゃんと相手の顔が見える。


 そのせいで余計に緊張した。


 注文を終えたあと、ふと沈黙が落ちる。


 でも不思議と苦しくない。


 むしろ落ち着く。


「……なんか変な感じですね」


 気づけば口から出ていた。


「変?」


「電車以外で会うの」


「あー」


 黒瀬さんが少し笑う。


「確かに」


「まだちょっと慣れないです」


「俺もです」


「……え」


「意外ですか?」


「ちょっと」


 黒瀬さんって、もっと余裕あるタイプだと思ってた。


 でも彼は少しだけ困ったように笑った。


「好きな人相手だと、普通に緊張しますよ」


「…………は?」


 思考停止。


 今。


 今なんて?


 私は固まった。


 一方、黒瀬さんも「あ」と小さく漏らす。


 数秒、沈黙。


「……えっと」


 黒瀬さんが珍しく目を逸らした。


「今の、忘れてもらっても」


「無理です」


 即答だった。


 だって無理だろ。


 好きな人って言った。


 言ったよね?


 私の聞き間違いじゃないよね?


 頭が真っ白になる。


 心臓がうるさい。


 うるさすぎる。


「……瀬名さん」


「……はい」


「顔、真っ赤です」


「黒瀬さんのせいです」


 すると黒瀬さんが、小さく笑った。


 でもその耳も少し赤かった。


 ——あ。


 この人、本当に照れてる。


 その事実に、胸の奥がじんわり熱くなる。


 そして私は思った。


 たぶん今日。


 何かが変わる。


(続く)

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