デートではない
第十話 「初デートではない。まだ違う。たぶん。」
月曜の朝。
私はクローゼットの前で死んでいた。
「何着ればいいの……」
原因は明白。
昨日の帰り際。
『じゃあ、来週どこかでご飯でも行きます?』
黒瀬さんが、さらっとそう言ったからだ。
さらっと言うな。
こっちはその一言で土日の残り全部吹き飛んだんだぞ。
しかも問題はそこじゃない。
私はその時、テンパった結果。
『……はい』
即答した。
終わった。
恋愛経験の少ない女、了承だけ異様に早い。
現在、その代償を支払っている最中だった。
「いやでもこれ、デートではないよね……?」
鏡の前で呟く。
ただの食事。
社会人なら普通。
別に恋人じゃない。
まだ。
……まだ?
「っ、何考えてんの私」
私は頭を抱えた。
そして十分後。
結局いつもより少しだけちゃんとした服装で家を出た。
負けである。
ホームへ着く。
黒瀬さんはすぐ見つかった。
「おはようございます」
「……おはようございます」
声が若干ぎこちない。
たぶん向こうも少し意識してる。
……気がする。
だといい。
電車に乗り込む。
今日は妙に距離感が近く感じた。
いや物理的にはいつも通りなんだけど。
精神的に近いというか。
意識してしまうというか。
「……」
「……」
沈黙。
気まずいわけじゃない。
でもお互い少しソワソワしてる感じがある。
その時。
「そういえば」
黒瀬さんが口を開いた。
「苦手なものってあります?」
「……え?」
「店決める時、参考にしようかと」
あ。
ご飯、本当に行くんだ。
改めて実感してしまい、心臓が跳ねる。
「……パクチーは苦手です」
「了解です」
「黒瀬さんは?」
「梅干し」
「子供」
「よく言われます」
少し笑う。
緊張がちょっとだけ解けた。
「瀬名さん、何系好きなんですか?」
「何系?」
「食べ物」
「……オムライス」
「可愛いですね」
「なんでですか」
「なんとなく」
その“可愛い”に、まだ慣れない。
私は視線を逸らした。
すると黒瀬さんが少し笑う。
「最近、前より表情柔らかくなりましたよね」
「……そうですか?」
「はい。最初、マジで話しかけるなオーラすごかったので」
「……そんなつもりなかったです」
「いやありました」
「ありましたか」
「ありました」
即答だった。
否定できない。
私は元々、人との距離を取る癖がある。
愛想良くするのも苦手。
だから最初の頃は、本当に警戒してたと思う。
「でも」
黒瀬さんが続ける。
「今はちゃんと話してくれるから、嬉しいです」
「……」
またそういうこと言う。
自然に。
ズルい。
私は吊り革を握る手に少し力を入れた。
「……黒瀬さんって、人たらしですよね」
「え」
「距離の詰め方うまい」
「そんなことないですよ」
「あります」
断言すると、黒瀬さんは少し困ったように笑った。
「瀬名さんにだけですよ、多分」
「っ」
一瞬、呼吸が止まる。
今の何。
どういう意味。
問い詰めたい。
でも怖い。
そんな私をよそに、電車は新宿へ到着した。
扉が開く。
人が流れる。
その中で黒瀬さんがこちらを見た。
「じゃあ、ご飯なんですけど」
「……はい」
「木曜の夜、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
「よかった」
黒瀬さんはスマホを取り出した。
「連絡先、交換します?」
「…………」
あ。
ついに来た。
この時が。
私は数秒固まったあと、ぎこちなくスマホを取り出した。
手汗がやばい。
陰キャ、連絡先交換イベントに弱すぎる。
「……はい」
QRコードを表示する。
黒瀬さんが読み取る。
その距離の近さにまた心臓がうるさくなる。
登録完了。
画面に表示された名前。
『黒瀬』
それだけなのに、妙に嬉しかった。
「送りました」
通知音。
私は恐る恐る開く。
『黒瀬です』
シンプルなメッセージ。
でも。
その一行だけで、顔が緩みそうになる。
「……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
黒瀬さんが笑う。
その瞬間。
私は悟った。
木曜まで、たぶんずっと落ち着かない。
——恋愛って、こんなに情緒を狂わせるものだったのか。
(続く)




