7 転校生⑦「それでも、山は、ここに、ある」
借宿からの上り坂は、浅間山麓のなだらかな斜面に続いている。緩やかにカーブすると、正面に浅間山が現れる。
俺がよくスケッチブックを持って登っていく坂道だ。
「亜希は自分では意識してないかもしれないけど、ただの転入生と接するのとは違ってると思うんだ。」
「それは私が、四人の中に加わった、から…?」
「あはは、ごめん、そういう風に聞こえたか。違う違う、その逆だよ。」
「逆?」
「四人だった仲間が、五人に増えた、ってこと。美悠も入れると五人が六人になった、ってこと、かな。」
「仲間、が…」
「ああ。『悠生の友達なら私にとっても友達』くらいの感じかな。電車の中での俺の説明も簡単すぎたから、俺がすごく八木さんに親切にしているように思えたんじゃないかと思う。」
「お買い物の地図とか?」
「そうそう。本当は美悠のしたことだけどさ。あ、でも亜希にとってはどっちも一緒か。」
「あの、下田君、あのね、私、さっき圧倒されてる、って言ったけど、」
「ああ。」
「ほんとは少し戸惑ってたかもしれない…。」
「ああ、そうだろうと思った。だから心配してた。」
「あ、さっき言ってた『心配』って、そのこと?」
「そう。都会と田舎の違い、とは言わないけど、急にこんな距離感の人間関係に放りこまれたら、誰でも戸惑うと思うんだよ。」
「そっかぁ、距離が近いってことなんだね。」
「ほら、美悠にしたってそうだろ。初対面の子の家に翌朝突撃して、紙の筒を渡すなんて、普通に考えたら異常行動だよ。」
「ふふ、そうかも。あの時は、お買い物地図があまりにもすごくて、感動のほうが大きかったけど。」
「美悠のあの行動と、亜希の今してることは基本的なところは同じなんだよ。たださ、亜希のほうがパワフルで、周りも巻きこむからタチが悪いんだよな。」
三琴は考えこむように黙った。そして黙ったまま、考えをまとめるように、何かを悩むように、長い坂道を登り続けた。俺も黙って、その隣に並んで歩いた。
ときどき車が来て、それを道の端に寄ってよけたりしながら、上り坂が終わるまで歩くと、古い小さな集落に行き着いた。そこは大日向といって、第二次大戦後、満州から引き揚げてきた人々が開拓した土地だ。別荘地や新しい住宅地とは趣きが異なる。
「あ、八木さん。」
「え、あ、ごめん、考えごとしてて。時間、大丈夫?」
「時間はいいけど、ずいぶん上がってきたな。」
「ほんとだね、なんとなく足が止まらなくて歩いてきちゃった。」
「あはは、この先にさ、俺がよく写生に来る場所があるんだ。浅間がきれいに見えるとこなんだけど、行ってみるか?」
「うん、行きたい!」
「じゃあ、その角を左に曲がって。」
大日向集落から、さらに細い小道を上がっていく。途中の農道で右に曲がって、木立の間を抜けると、緩斜面に大きく拓けた畑の向こうに浅間山が雄大な姿で聳える。
「わあ、すっごーい!」
ところどころで、農家の方が作業をしている。肥料を撒く時期には独特の臭いが立ちこめるが、収穫期の今はさほど気にならない。砂利道を少し歩くと、なぜかベンチが二つ、農道の脇に置かれていて、俺はよくそこに座ってこの風景を写生する。
「ここに座って、よく絵を描くんだ。」
「へえ、そうなんだ。」
三琴はベンチに座って、足を伸ばして、それから腕も前に伸ばして、「んー」と伸びをした。
「ずいぶん歩いたから疲れただろ。」
「うん、少し。でもなんか、登山したみたいな達成感。」
「あはは、そうか。」
俺も、三琴の横に腰を下ろす。
「ね、下田君。」
「ん?」
「あの、私の話も、していい?」
「ああ、いいよ。」
「私ね、前の高校で、不登校だったんだ。」
ふむ。
御代田高校ではあまり珍しい話ではない。首都圏から長野に移住してくる家族の中には、子供の学校生活を理由に引越を決める家もあるようだった。健康上の理由、いじめや不登校、非行など、事情はさまざまだが。
「お父さんの会社が東京にあったんだけど、埼玉の大宮に移転したのね。」
「うん。」
「それで、藤沢からだと通勤が遠くて、引越し先を探していたんだけど。その時に、私の不登校もあって、それなら都会を離れて、田舎暮らしをしよう、っていうことになって。」
「なるほど。大宮なら通勤できるね。」
「うん、藤沢の時よりも、楽になったってお父さんは、言ってる…。」
三琴の澄んだ声が、少し小さくなった。こんな時はじっくり聞くべきなんだろうけど、今は違う気がした。
そもそも、過去というものは消せないのだから、振り返って悔やんでも悲しんでも仕方ない。せいぜい未来のための学びの材料にする程度のことだ、と、親父に口癖のように聞かされて育った。
「ここに来て、絵を描いてるときにさ。」
三琴は顔を上げて、それから隣にいる俺を見た。
「それでも山はここにある、ってね、思うんだ。人のしていることなんか、ちっぽけなことで、山はもうずっと昔、人がまだ動物の一種類でしかない時から、ここにあって。」
「うん」
三琴は顔を正面に戻して、浅間を見上げた。活火山・浅間の噴き上げる噴煙が、初秋の空の白い雲に混ざるようにたなびいていた。
「俺達がどんなに頑張っても、悩んでも、悲しんでも、喜んでも、山はただここにあるんだよなあ、って思う。」
「それでも、山は、ここに、ある…。」
「そ。」
それから俺は、なぜかとても可笑しくなって、少し笑った。
「ごめん、八木さん、俺、何言ってんだろうな。こういう時に気の利いたこと言える人じゃなくて。」
「ううん、今はまだちゃんと理解できてないかもしれないけど、噛みしめてみる。」
「あはは、言っちゃったもんは戻ってこないからしょうがないな。帰ろうか。」
「うん。」
俺達は立ち上がって、今来た道を戻った。坂道の下から吹きあがってくる風が頬に心地よい。
「俺と優琉、俺と翔太は、昔から仲がいいんだけどね。」
「えっ、うん。」
「優琉と翔太は昔はあまり仲良くなかったんだ。」
「そうなの?」
「ああ。優琉の家は蕎麦屋で、翔太の家は蕎麦農家だろ?どっちが偉いと思う?」
「えー、どっちだろう…、お金を払ってるのは蕎麦を仕入れるお蕎麦屋さんのほう、だよね。」
「そう、その通り。だからね、お金ってものを尺度にすると、蕎麦屋の勝ち。」
「あ、そっか、でも蕎麦粉がないと、お蕎麦は作れない…。」
「うんうん。でね、ある時、二人はそれで大喧嘩になった。小学校の高学年くらいの時かなあ。」
「うん、どうなったの?」
「亜希がさ、喧嘩してる二人を叩いて、それから優琉の蕎麦屋に連れて行った。」
「うん。」
「みんな美味しそうに食べてるねえ、よかったね、二人とも。だってさ。」
「ああ、そっかぁ、両方揃って、やっと美味しいお蕎麦ができるんだよね。」
「そうそう。その時は感心したなあ、亜希はなんて気の利いたことが言える奴なんだろう、って。」
「ほんとだね。」
「八木さんは、さ。」
「えっ、うん。」
「この町に引っ越してきて、おかしな連中に出会って、仲間になってしまいました。」
「うん、なってしまいました。」
「それでいいじゃない?」
「うん、それでよかった。」
三琴はようやく、肩をすくめて笑顔になった。
朗らかに笑ったその目の端に、何か光ったような気がしたけど、気がつかなかったことにしよう。




