36 研修旅行⑫「だって美悠ちゃんは知ってるもの」
「悠生、私ね…」
少しの沈黙の後、電話口から聞こえたのは亜希の涙声だった。
「あなたの描くイラストが好きなの。…見てるだけで涙が出るくらい。」
亜希は震える声でそう言って言葉を切った。
「そういえば、お買い物マップの原画…」
「ええ、美悠ちゃんにお願いして、もらったの。」
「美悠には変に思われなかったのか?」
「それは平気。だって美悠ちゃんは知ってるもの。」
「何を?」
「私の気持ち。」
そういえば、美悠が言っていた。亜希は、美悠の前では素直に自分の気持ちを伝える、と。
「私ね、美悠ちゃんに聞いたことがあるの。私が中学生になって、美悠ちゃんはまだ小学四年生だった。『お母さんがいなくて寂しくない?』って。そしたらね、美悠ちゃんが言ったのよ。『寂しくないよ、みんないるから。お兄ちゃんがそう言ってた。』って。」
「ああ、そんなことがあったな。まだ美悠が小学校に入ったばっかりの頃だったかな。」
放課後、小さい美悠を学童施設に迎えに行った。
いつも通り手をつないで、小学校の前の歩道橋を渡り、旧中山道を歩いていた。
その情景が頭の中によみがえってきた。
「『私ってかわいそうな子?』って聞いてきたんだよ。『お母さんがいなくてかわいそう?』って。だから『ちっともかわいそうじゃないぞ、みんながいるから寂しくないだろ、寂しくない子はかわいそうじゃない』って説明した。」
(美悠のことだけじゃなくて、俺自身がそうだったんだよな。)
「そうだったの…。私、『素敵なお兄ちゃんね』って美悠ちゃんに言った。」
亜希は、子供の頃に戻ったような、飾り気のない声で話していた。
「そしたら美悠ちゃん、不思議そうな顔をして『亜希ちゃんも知ってる、あのお兄ちゃんだよ?』って。」
「あははは、美悠が言いそうなセリフだ。」
「私ね、小学校までは、あなたと張り合っていたのよ。悠生になんて負けない、って。」
「え、俺と?」
「そう。だけど、私がどんなに全力を出して頑張っても、悠生に勝てなかった。悠生はまるで力を入れていなくて、なんでも余裕をもってこなしてた。」
「いやいや、そんなことはないだろ。だいたい、勝負したことなんてないし、俺は亜希に勝ったことなんて一度もないぞ?」
「そう、そこなのよ。勉強を頑張って、運動も水泳もスキーもみんな頑張って、悠生より成績はいいのに、まるで勝った気がしない。だって、悠生は勝負していないんだから。」
「俺はいつも、亜希はなんでもすげえなあ、って思ってたぞ?」
「あはは、そうでしょうね、私、すごかったもの。でも違うのよ、張り合うっていうのは。あなたが私に負けたって思わなきゃ、勝ったことにならないじゃない?」
「うーん、それで、亜希はなんで俺に勝ちたかったんだ?」
「きっかけは覚えてないわ。いつの間にか、そう思ってたのよね、おかしなことに。」
「そうか、まあ子供の頃は変な思いこみってあるものだよな。」
「またそうやって…。まあいいわ。でもね、美悠ちゃんに、その言葉を聞いた時、わかったの。私なんかの勝てる相手じゃなかったんだ、って…。」
「ごめん、まったくわからん。」
「あなたは誰とも勝負しない。だから勝たないし負けない。それは、悠生が他の誰とも違う強さを持っていて、でも誰も持っていない弱さを持っているからなんだって思ったのよ。でも私には、あなたの弱さに触れる資格がない。」
「亜希、もうちょっとわかりやすく言ってくれよ。何を言われても怒らないからさ。」
「その頃までの私はね…、小学生の私は、すごく簡単に言うと、自分は「同情する側の人」で、あなたは「同情される側の人」だと思っていたんだと思う。」
「あー、そういうことか。」
つまり、俺は「かわいそうな人」でなければいけないのに、ちっともかわいそうではなかった、ってことだ。
それは亜希や、優琉や翔太や、周りの人たちのおかげだった。
「でもそうじゃなかった。美悠ちゃんに聞いてわかったの。あなたはちっともかわいそうじゃなくて、同情される必要のない人だった。だけど、そのことがあなたを苦しめてる。あなたの強さも、弱さも、私たちといるこの世界が作ったんだ、って思った。」
「そうかもしれないな。感謝してるよ、本当に。お袋はいなくなったけど、亜希のお母さんも、翔太のお母さんもいて、亜希も優琉も翔太も美悠も、みんないて、俺は大きな家族の中で育って、寂しくも悲しくもなかった。」
「でもそれは、苦しいことよね?」
「まあ、亡くなったお袋には申しわけないと思った、かな。」
「うそ。」
「そうだな、今のはちょっと違う。自分の冷たさが怖くなった。自分の内面を掘り下げていったら、もっと恐ろしいものが出てくるんじゃないかって、怖くなった。できなくなったんだ。」
「悠生、私ね、そのことがわかってから、あなたのことが愛おしくてしょうがなくなったの。そして美悠ちゃんにだけは、自分の素直な気持ちを話せるようになった。あなたのこともたくさん聞いたわ。でも突然、引越しが決まった。その時はなんとも思わなかったのよ、本当に。」
それは俺もそうだった。引っ越すと言ったって、すぐそば。隣の駅に行くだけで、中学だって同じ。
「でも、あの日…。」
亜希は言葉を詰まらせた。
「三日目のことだろ?実はさ、俺もあの日のことはすごくよく覚えてるんだ。」
「ほんと?」
「ああ、赤い傘をさしてさ、校門で俺たちを見送っていた亜希の顔は、鮮明に覚えてる。」
「え、そんなひどい顔してた?」
「いや、そんなことはないけどさ。でも、亜希はもう俺たちの町の人じゃないんだなあ、って思って、ショックだったんだよな。」
「うん…、自分でびっくりするくらい悲しかった。」
亜希は家に帰って大泣きし、そして私立高校への進学を放棄して、御代田高校に入学した。
「悠生への想いを自覚して、高校に入ってから、美悠ちゃんには悠生への想いを伝えていたのよ。美悠ちゃんは『私が言ってもお兄ちゃんは信じない』って言ってたけれど、それでよかったの。」
「そうだったのか…」
美悠は亜希のことをとても慕っていて、「将来は亜希ちゃんがお姉ちゃんになってくれるって、小学生の頃から信じてる」と言っていた。
「お買い物マップの話を聞いて、すごく見たくなって、美悠ちゃんにお願いしたの。コピーでいいと思ったのに、美悠ちゃんは二人で手書きしたオリジナルのほうを持ってきてくれた。『いいの?』って聞いたら、『こっちのほうが亜希ちゃんは嬉しいでしょ?』って言ってくれて…。」
我が妹ながら、できたやつだ。
「家に帰って、あらためて眺めたら、涙が出てきた。泣いたんじゃないのよ、でも涙がこぼれてきたの。額縁に入れて部屋に飾って、毎日見てるの。」
俺が亜希の部屋を訪ねた時にガタガタ片づけてたのは、それか。
「悠生のイラストって、あなたそのものよね。」
「俺っぽい、ってことか?」
「温かいのに、淡々としていて。逞しいのに、柔らかくて。」
「そうなのか?自分じゃわからないけどな。」
「すごく明け透けで、全部見せているのに、強い主張が見えてこない…」
「ああ、それ、去年、美術部の先輩にも言われたよ。下田の絵にはメッセージがない、って。」
「浅間山の絵?」
「ああ。」
「見る目がないわね、それは。」
「おいおい、県展で入選した先輩だぞ?」
「だってその人、画家のメッセージを見ようとしてるでしょ?」
「うーん、まあそういうことになるのかな。描き手が何を伝えるのか、ってことだな。」
「悠生が浅間山を使って自分の気持ちを伝えるわけがないじゃない。」
「ああ、まあ、それはそうだな。」
「文化祭の絵、私はすごく好きよ。」
去年も今年も、亜希は美術部の展示を見に来て、俺の絵の前で長い時間、足を止めていた。
「なんていうのかな、山に見つめられている気がした。山はこっちを見てるんだけど、何も言わない、言うつもりもない、っていう感じなのよね。」
亜希にはそんな風に見えたのか。俺もそんなことを思いながら描いていた。
「それでも山はここにある」と。
「ホームページのことはね、」
亜希は急に話題を引き戻した。
「私の計画には入ってなかったの。」
計画というのは「数カ月も準備してきた計画」のことだろう。そうだったのか。
「私の計画はシンプルで、『研修旅行二日目は悠生と一日中二人きりになる』っていうだけ。」
それはたしかにそう聞いたな。
「でも打合せの時、三琴ちゃんがお買い物マップを持ってきて、みんなでそれを見て。」
「ああ。」
あの時、亜希だけは何も言わなかった。
「みんなも喜んでるなあ、って最初はそう思っていたんだけど…。急にもっといろんな人に見せたい、ずっと残しておきたい、って思い立っちゃったのよ。」
「そうか、思い立っちゃったか。」
そうなったら、全力少女のパワーが炸裂する。
「うん。それから研修旅行までの間に、急いで準備した。」
生徒会内部の了解、顧問の教師との交渉などだろう。デジタル研究部も巻きこんだって言ってたな。
さらに、石川県の高校とも話をつけたと言っていた。
「だって素敵でしょ?あなたのイラストが、みんなに見てもらえる。二つの高校のホームページに残る。」
「素人くさいイラストだけど大丈夫なのか?」
そんな俺の言葉は無視された。
「素敵なことなのよ。そして私も…どこにいても、いつでも見ることができる…。」
どこにいても、か。
「わかった、どこのイラストを描けばいいのか、送ってくれ。」
「うん、ありがとう。」
俺もきちんと、亜希の想いに応えよう。絵を描くことくらいなら、俺にもできる。
「遅くまでごめんね、もう寝るわ。」
「ああ。いつまでも泣いてると目が腫れるぞ?」
「ふふ…そうね。おやすみ、悠生。」
「ああ、おやすみ。」
通話を切ると、事務所の中は深い静寂に包まれた。
エアコンの動く音、パソコンのファンが回る音、時計の秒針が時を刻む音。
わずかな物音さえも、耳元に響いてくるような、そんな静けさだ。
静かな夜、静かな町。ここが俺のいる世界だ。
亜希にはきっと、すごくスケールの大きな夢がある。
しかしあいつにとって「夢」と「好き」は並び立たないものなのだろう。
亜希は俺を好きだと言った。でもおそらく、俺は亜希の「夢」にはならない…。
だけど、そうじゃなきゃいけない。
俺たちの亜希は、すごい奴なんだから。




