35 研修旅行⑪「えっ、ひとつだけ?」
加藤七海との漫才に興じていたら、乗ろうと思っていた電車に間に合わなかった。
次の電車までに、駅向こうのドラッグストアに寄り、切れかかっていたシャンプーと、ついでに食器洗い用のスポンジを買う時間があった。
盆地は日没後、すぐに暗くなる。走り出した車窓からの景色も暗い。
今夜は月があるようで、目が慣れると月明かりに照らされた浅間山がうっすらと浮かんできた。数日前に山には雪が降り、七合目くらいまで白く冠雪している。
(そういえば、昨日、親父が慌てて車のタイヤ交換に行ってたな。)
今年も厳しく長い冬がやってきた。あまり雪の多い地方ではないが、気温が低い。
町が白く凍るような季節だ。
(この電車は中途半端なんだよなあ…。)
信濃追分駅到着、17時44分。
妹の美悠を迎えに戻って来るまで1時間ほどだから、着替える他にできることが少ないのだ。
もちろん、駅で待つよりはずっといいが。
そんなことを思いながら改札を抜けると――三琴が立っていた。
制服の上に深緑のウールコート。赤と緑のチェック柄のマフラーで首をすっぽりと覆っている。
「あ、おかえり、悠生君。」
言いながら踵を上げて、少し跳ねるような仕草をした。吐く息が白い。
「よう、おつかれ。こんなところでどうした?」
この時間はしばらく電車は来ないと思うが。
「待ってたの。」
「え、俺を?」
「うん、そう。」
「寒かっただろ。大丈夫か?」
「うん、待合室にいたから平気。」
「何か用事?」
「ちょっと相談に乗ってもらおうと思って。」
「そうか、じゃあ待合室でいいか?1時間くらいで美悠が帰ってくるから。」
「うん。」
人のいない、小さな待合室は一応暖房が効いていて、いくらか温かい。
ベンチに並んで座ると、三琴は鞄の中から一枚の紙を取り出した。
「これなの。」
「ああ。」
その紙なら俺も持っている。
学校で研修旅行の前に配られた「進路希望調査」の用紙だ。
春にも一度あったから、今回は二回目になる。
三琴にとっては初めての調査になるわけだが、さすがに記入方法がわからないということはないだろう。
進学、就職、その他のどれかに一つ〇を付けて、希望する大学や就職先などを書く。
それを第一志望から第四志望まで、書く欄が設けられている。
「えーと、どんな相談?何を書けばいいか、っていう相談には乗れないぞ?」
これは三琴自身の人生設計に関わる問題だ。
学校に提出するだけのことだから、書いた通りに行動しなきゃいけないということもないが、たしかこの調査票をもとに、保護者を交えた面談が予定されている。
「うん、それはわかってるんだけど、どのくらいの精度で書けばいいのかな、って思って。」
「精度?ああ、どのくらい具体的に細かく書くか、ってこと?」
「うん、あと、いくつ書けばいいのか、とか…」
「なるほど。でも別に決まっていないんじゃないか?」
他の人の進路希望票はわからないが。
「俺は一つしか書いてないよ。」
「えっ、ひとつだけ?」
「ああ、見るか?」
俺も鞄から用紙を取り出す。
悩むこともなく書いて、提出の時に忘れないよう鞄に入れっぱなしにしているのだ。
第一志望の欄。進学に〇を付けている。
大学名には「信濃上田大学経済学部」と書いた。
用紙を受け取って、三琴はしばらく黙ってそれを見つめた。
「俺の場合は家業もあるから、他の人たちはだいぶ事情も違うと思うぞ?」
「でも、もうちゃんと先のことが設計できているなんてすごいね、悠生君は…」
「いや、全然できてない。今の時点で書いてるだけ。俺より亜希に相談したらもっといろいろ言ってもらえると思うよ。あいつは家業もないし、たぶん東京の大学に行くだろうから。」
「えっ、そうなの?」
「あ、知ってるわけじゃないよ、ただの予想というか、憶測。だって、亜希って長野に収まるような器じゃないだろ?」
「それはそうかもしれないけど、悠生君たちが分かれた道を進むのって想像できなくて…」
「いや、むしろずっと一緒にいるほうが想像できないよ、優琉だって翔太だって、それぞれの未来があるしさ。まあ、優琉は蕎麦屋に戻ってくるだろうけど、翔太は三男だしね。」
「う、うん…」
ここは信濃追分。街道の分かれ道だ。
残る者、旅立つ者がいるのはあたりまえだ。
俺はふと、親父の言っていたことを話してみる気になった。
「高校に入ったばっかりの頃にさ、親父に言われたことがあるんだ。高校っていうのは尾根伝いに歩いているようなものだってさ。」
「尾根伝い?」
「そう、山の尾根って景色がよくて、遠くまで見渡せる。だけど、見渡した先で、どんな人がどんな暮らしをしているかまで見えるわけじゃない。」
「うん…、そうだね。」
「どの麓に下りるのか、可能性は無限にあるから、考えろってさ。で、見つからなければ大学に行け、って。大学は山の中腹に建てる仮住まいだって言うんだよ。麓に下りる前にもう一度考えたり、力を蓄える時期って意味かもしれないな。」
「仮住まい、かあ。悠生君のお父様は素敵なことを言う方なんだね。」
「いやあ、ときどき哲学的なことを言いたがるんだよ。普段はほとんど聞き流してるけど。」
「ふふ…。うん、尾根伝いに歩いて、仮住まいの小屋の場所を選ぶのが、今ってことなんだね。」
「進学するならそういうことになるよな。親父はもしかすると…」
ふと思ったことがあった。
「何も考えずに大学選びをするな、って言いたかったのかもな。学校の名前とか、場所とか、偏差値とか、そういうんじゃなくて、何に向かっていくための場所にするのか、ちゃんと考えろって。」
かっこいい大学に行く、田舎を出たいから都会の大学に行く、周囲に学力を見せつけて自慢できるような大学に行く。いろんな考え方がきっとある。間違っているわけじゃないが、それでいいのか、ってことも考えてみろ、ということなのかもしれない。
「うん、わかった。私もそういう風に考えてみる。やっぱり悠生君に相談してよかった。」
ちなみに、信濃追分周辺には、予備校や大学受験に向けた塾はない。
亜希が住む中軽井沢にはある。亜希の家は俺たち四人の中では突出して知的レベルが高いから、亜希の教育的な観点からも中軽井沢を選んだのかもしれない。
亜希は高校を卒業したらもう長野には戻らないんだろうな、とぼんやり思った。
「あっ、それから、悠生君、イラストマップ作りのことも相談したくて。」
「ああ、そうだな。」
三琴が作ってくれた地図をベースに、観光スポットをプロットしたりイラストを貼ったりする基礎作業は俺がやるほうがいいだろう。パソコン上での作業になる。
表のマップがある程度までできたら、三琴に見てもらって細部を整えていこう、ということになった。
裏面の解説情報は優琉と紬が作ってくれるから、あとはレイアウトするだけだ。
金沢城周辺の観光、文化施設と、海辺までの地図とすると、金沢駅あたりが地図の中心になるだろう。
俺と亜希が行った大聖寺はかなり離れているので、別枠を作ったほうがよさそうだ。
「土地の高低を表現するには、空から見たような鳥観図っぽい雰囲気も考えられるけど…」
「でも歩く時に使うんだったら平面的なほうが使いやすいかも。」
「そうだな。標高で色分けしてくれたから、濃淡をつけて多少立体的に見えるように工夫してみるよ。」
「モデルコースみたいな道順もマップに入れた方がいいのかな。」
「それはたぶんむしろ見にくくなるから、サイトのほうで考えるよ。」
といった会話に熱が入ってきた頃、待合室の扉が開いた。
「お兄ちゃん、ここにいた!三琴さん、こんばんは。」
美悠の電車が着いたのに気がつかなかった。
「あっ、美悠ちゃん、おかえりなさい。」
「二人で待っててくれたんですか?」
「え、うん、相談することがあったら、話しながら…」
「いや、美悠を俺が待ってるから、って三琴に付き合ってもらったんだよ。お前を待つついでに話してたわけじゃないからな?」
「あはは、そうだよね。三琴さん、途中まで一緒に帰りましょ?」
「うん、そうだね。」
「最初に会ったのもこの駅でしたよねっ!」
「うん、あの時はほんとに助かった。」
「でもあの時、お兄ちゃんがご褒美にアイス買ってくれてー」
そんなことを話しながら、美悠は三琴と並んで歩き出す。俺はゆっくり二人の後ろを歩いて、いつもとは違う明るい方の坂道を上がっていった。
夕食の後、後片付けとジャムの発送を終えると、俺は残りのイラスト制作に取り掛かった。
自分で見ていない場所だから写真を見ながら描いていくのだが、質感とか奥行きがわからないから上手く描けているのか自信が持てない。
例えば、優琉たちが面白かったと話していたからくり人形の美術館も、どの人形を描くといいかでけっこう迷った。
プロのイラストレーターではないから、ほどほどでいいというのはわかっているのだが。
「うーん」
と唸ったら、机に置いたスマホが「ヴーン」と震えた。
「おう、亜希、どうした?」
「悠生にちょっと頼みがあるの。」
「頼み?珍しいな。」
いつもは「お願い」という名の命令しかしてこないのに。
「石川県の高校の生徒会でも、長野の紹介を載せてくれる、って話したじゃない?」
「ああ。」
「それで先方からね、こちらのページとテイストを合わせたいっていう話があったのよ。」
「亜希…」
「なあに?」
「騙すのなら引き受けない。」
亜希は基本的に嘘がつけない性格で、嘘をつく時は原稿を読んでいるような口調になる。
亜希自身もそれには自覚があるようだ。
研修旅行の話をした時は、他のメンバーの言うことに賛成したような振りをしながら、自分の作戦を組み立てていったから気づけなかったが。
でも、今思い返せば、あの「くじ」の説明は不自然だった。
「もう、人聞きが悪いわね。ちょっと気をつかっただけなのに。」
「あはは、じゃあ、本当のところを聞こうか。」
「売りこんだら採用されたのよ、あなたのイラストが。」
「そんなことだろうと思った。それで?」
「うん、ちゃんと費用は払うからお願いしたい、って言われたわ。」
「つまり、長野の観光地とか名所のイラストを描けばいいんだな?」
「うん。ダメ?」
「お金はもらえないぞ?プロじゃないんだし、学校同士の交流でやることなんだろ?」
「うん、描いてくれるの?」
「ああ、いいよ、別に。あんまり期待されても困るけど、長野だったら知ってる所も多いからな。」
俺は今描いていたイラストの話をした。自分で見ていないから自信が持てないと。
「悠生らしいわね…」
亜希は澄んだ声で言ってから、小さく笑った。
その笑い声には、ほんのわずかに、涙が混ざっているような気がした。




