32 研修旅行⑧「この町って、独特の香りがするよね」
研修旅行の最終日は冷たい雨になった。
ホテルをチェックアウトした後、帰りの新幹線まで数時間あるので、俺たちはタクシーに乗って「石川県立歴史博物館」を訪れた。明治期の面影を残す赤レンガの建物は、雨に濡れて赤褐色を深め、重厚な存在感を放っていた。
三琴と紬に昨日の疲労が見えたので屋内で過ごせる施設を選んだというのもあるが、石川県と長野県に共通する文化の基盤として「山岳信仰」に目を向けていた。
「長野の山岳信仰っていうと戸隠が有名だよな。」
「石川は白山信仰よね。」
霊峰白山を神体とする信仰は、この土地の自然の造形や色彩への繊細な感受性を育んできた。
それが、九谷焼や加賀友禅、金箔といった工芸文化の美意識へとつながっていく――そんな過程が、歴史博物館ではわかりやすく展示されていた。
「一向宗の自治的な結束にも、そういう土壌は影響していたんだろうな。」
と西園寺。
「加賀藩の産業振興政策も工芸の発展を後押ししてるわね。」
と亜希。それぞれに、発見があったようだ。
俺も、この地の宗教的な祭礼の色彩の豊かさが、九谷焼や加賀友禅に結びついていく説明などを写真に収めた。
「撮影禁止じゃないのは嬉しいけど、個人利用に限るって書いてあるのよね。」
と、紬。成果物を作る時に許諾をもらう交渉をする必要があるかもしれない。亜希に任せよう。
「三琴が町がきれいだって言ってたけど、こういう精神文化の影響もあるのかもしれないな。」
「うん、そうだね。」
三琴は昨日の夕方くらいから元気がなさそうだったと聞いていた。
四人組のほうは昨日の夕日を、亜希と俺が行った内灘砂丘とは少し離れた、金沢港と金石海岸というところで見ていたらしい。
からくり人形をテーマにした「大野からくり記念館」という海辺の博物館が面白かった、と話していた。
「三琴、もう体調は大丈夫なのか?」
「え?うん、大丈夫だよ?」
本人にはあまり自覚がなかったようだ。
考えてみれば三琴は海辺育ち、とまではいかないが、海に近い街で育ったから、長野育ちの俺たちのように、海を見てテンションが上がるということはないのかもしれない。
「三琴ちゃんは下田君がいると安心するみたいねえ。」
と、紬にからかわれて、
「そんなことないよ、紬ちゃん、変なこと言わないでー」
と笑いながら否定していた。
「でも昨日は下田君がいなくてそわそわしてたじゃない?」
「えっ、違うよ、それは優琉君が言ったことでしょ?」
「そうだったっけー?」
「そうだよー、もう!」
三琴が赤くなって紬とじゃれ合っていると、
「だけど昨日より元気なのはたしかだな。」
と西園寺が言い、後ろで優琉がニヤニヤ笑っていた。
「あんたが二人組のほうのくじなんて引くから悪いのよ。」
亜希が横から俺の腕をつついてくる。
「あれは、」
亜希が仕組んだことだろう、とは言えないから、
「残り物だったんだからしょうがないだろ?俺が引いたわけじゃないし。」
と言っておいた。亜希は「そうだった?」ととぼけた後で、俺にだけ聞こえるように小さな声で、
「福があったでしょ?」
と、いたずらっぽく笑った。昨日のことなど何も気にしていないような、サバサバとした表情だ。
三琴が俺のほうを振り返って、
「悠生君、違うからね、私は一人でも平気だからね。」
なんて言うものだから、西園寺に、
「あー、俺たちはいない扱いなんだなぁ。」
とつっこまれて、さらに顔を赤くして黙りこんでいた。
「悠生、ちょっと。」
と、優琉が俺の腕を掴んで、みんなから少し離れたところに引っ張った。
「今の話を説明すると、昨日、海に行った頃から少し三琴の様子がおかしくてさ。最初はそんなに気にしていなかった。俺も『悠生がいないとそわそわするか』ってからかったんだ。でも、どうも何か心配ごとか悩みごとがある様子だったんだよな。まあ今日は元気そうだけど、一応な。」
海に行く途中で何かあったか、海を見て何か思い出すことがあったか、そんなことかもしれないな。
「歴史博物館」は見どころも多く、俺たちは結局午前中いっぱい博物館の中で過ごし、またタクシーで金沢駅に戻った。
駅ビルで家族や部活へのお土産を買ったり、金沢を中心にチェーン展開しているカレー屋で昼食を食べたりしているうちに集合時間を迎え、新幹線に乗りこんだ。
わずか2時間弱の旅程で、佐久平駅に着いた時にはまだ外は明るかった。
佐久平駅で解散。優琉はサッカー部で「打ち上げ」があると言って部活仲間のもとに行き、亜希は後片付けの手伝いがあるらしく、生徒会のメンバーを集めて引率の教師たちに合流していた。
「こんな時まで大変だな。」
と言ったら、
「学校まで車で移動だからむしろ楽よ。」
と平然としていた。さすが生徒会長。
紬は「お母さんが迎えに来てくれてるから」と駅の階段を降りていき、西園寺と三琴、俺の三人が小海線のホームに向かった。反対方面の西園寺が先に電車に乗りこむと、ホームには三琴と俺が残された。
といっても、ホームにはまだ大勢、同級生たちが電車を待っている。
「佐久平って近いけど不便なんだよな。」
小海線で小諸に行き、しなの鉄道に乗り換える必要があるのだ。三琴は笑っていた。
「何かおかしかったか?」
「不便なのはうちの駅かも。」
「そういうことか。そうだな。」
「あ、翔太君だ。」
C組の翔太も近くにいたが、同級生たちと何やら談笑中のようだ。
やがて来た小海線に一緒に乗りこんだ同級生たちは、小諸駅の乗り換えで半分に減り、平原、御代田という途中駅でさらに減っていって、信濃追分で降りたのは俺と三琴、翔太の三人だけだった。
「翔太、おつかれ。」
「おー、悠生、みこりん。研修旅行はどうだった?」
翔太は最近、三琴のことを「みこりん」と呼ぶのが気に入っているようだ。
「うん、楽しかったよ、翔太君は?」
「えっとねえ」
翔太はバッグの中をごそごそと探ってから、
「これ作った。」
と、小箱を取り出した。黒光りする木製の箱の蓋に「翔」と読めなくもない金文字。
「あ、金箔体験?」
「そう。将棋の駒を入れようと思ってさ。」
「へえ、いいねー!」
「なかなか難しかったんだけど、自作っぽくていいでしょ?」
「うんうん、翔太君っぽい味があるよ。」
三琴に褒められて、翔太は嬉しそうだ。
「九谷焼の絵付けもやったけど、そっちは後で送ってもらえることになってる。」
体験学習プログラムを無難にこなして、あとは金沢観光を楽しむ、というパターンを選択したようだ。
少し話しこんでいると、駅の利用客の姿はなくなり、駅前はすっかり静かになった。
もうすっかり日が落ちて、曇った空は真っ暗だ。
「佐久平に着いてからもう2時間か。金沢に行くのと変わらないな。」
三人で駅を離れ、歩き出す。
「新幹線は速い。そういう学びも研修旅行の目的の一つなのだよ、悠生。」
「そんなこと、誰だって知ってるだろ。」
「まあそうなんだけどさ、俺はあらためて実感したな。長野県内はトンネルが多いけど、富山あたりは高架を走るから、スピードを感じた。」
「たしかに、それは言えるな。」
「じゃ、帰ってゆっくりするかあ。」
踏切で翔太が反対側に帰っていったのを見送って、三琴と俺は坂道を登る。
「ふー、帰ってきたねー。」
前を歩く三琴が大きく両手を上げて伸びをした。
「三琴もすっかりこの町の人だな。」
そうなにげなく言うと、三琴は振り返って、
「そうかな?悠生君もそう思う?」
と嬉しそうだ。
「この町って、独特の香りがするよね。」
そう言いながら、三琴は息を吸い込んでいる。
「香り?うーん、長く住んでるとあんまり気がつかないな。」
「うん、なんだろうなぁ、木の香り?山の香り?わからないけどね、いい匂いがするの。駅を降りたらその香りがして、帰ってきたなあ、ってうれしくなっちゃった。」
それから前に向き直って、独り言のように小さく呟いた。
「ずっといたいなぁ…。」
俺は歩調を少し速めて、三琴の横に並んだ。
「金沢はね、少し藤沢に似てた。あ、藤沢っていうのは」
「引っ越す前に住んでいたところだよな。」
「うん、そう。ビルとかマンションとか、建物がたくさん建ってて、人もいっぱいいて、夜でも人が歩いていて、海が近くて…」
「そういえば、海でなんかあったか?少し沈んだ様子だったって聞いたけど。」
「うん、そんなつもりはなかったんだけど、そう見えたみたい。少し、去年のこと思い出したからかな。」
三琴は長野への転居の理由を「不登校」と言っていた。不登校の理由は「噂」とだけ聞いている。
「前の高校でね、二人、仲のいい子がいて、ときどき海に行って遊んだんだ。砂浜でおしゃべりしたり、夏は泳ぎに行ったり。だけど、それが、急に…壊れて…」
三琴は立ち止まって、両手で顔を覆った。
「いいよ、無理しなくて。話さなくていいし、話すならゆっくりでいい。」
三琴はそのまま一度頷いてから、しばらく気持ちを整えるように黙っていたが、やがて顔から手を離した。
「うん、ありがとう、平気。…去年の10月くらいだったかな、」
それから、三琴は時間をかけて、事情を話してくれた。




