31 研修旅行⑦「そうよね、今さらだもの」
その後、空はあっという間に暗くなった。
遠くの町灯りや、道路を走る車のヘッドライトが明るく見える。
「終わっちゃったなあ。」
亜希はそう呟いて、暗い空を見上げた。雲に覆われて、今夜は星が見えない。
何が可笑しいのか、亜希はくっくっと鼻で笑うような声を出した。
「悠生、私ね。」
「うん?」
「今日のこと、ずっと準備してきたの。」
さっき、「あとで教える」と言っていた話だろう。
「ずっと?」
「そう。何カ月も。」
「えっ?何カ月も?」
「うん、種明かしするね。」
手品のタネなんてどうでもよかったが、「言わないでいい」とか「聞きたくない」とか言うのもおかしな気がして、俺は黙った。
「地元の高校の生徒会に、石川県の見どころを聞いたというのは本当よ?でも、ずっと前からしていたの。研修旅行でどんなグループになろうと、二人だけで別行動できるように。ともかく情報を集めたわ。メンバーを決める時も、『観光』っていうテーマを選んでくれそうな人を集めようと思っていた。でも、実際はそんなことをしなくても集まってくれたのだけど。」
長い話になるかと思ったが、亜希はそこまでで話を切った。
「あのくじね、机に置いた6枚には、全部「4」って書いてあったのよ。」
「ああ、そういうことか。」
残り2枚になって、その両方を手に取って「どっちがいい?」と聞いてきた。
「俺が先に取ったらどうするつもりだったんだよ。」
「そんなことはあり得ないわよ。だって私、悠生の隣に座ったでしょう?」
「そうだったな。」
「私はくじを作った人だから最後、っていうのは暗黙の了解じゃない?」
「それはたしかに。」
「ということは、私が悠生から少し遠い側に紙を置いたら、そっちの人から取っていく。あなたと私を除いた四人が先に取るわ。」
たしか優琉が一番に取って、時計回りに取っていった。
「ふふふ、正直に言うと、けっこうドキドキしてたけどね。」
「あははは」
「あとは、残った2枚を私が取って「2」って書いた紙と手の中ですり替えて、あなたに渡すだけ。」
「ま、そんな手品の仕掛けはどうでもいいけどな。」
「あはは、そうよね、今さらだもの。」
亜希は俺が聞きたいことをちゃんとわかっているだろう。
「私ね、」
俺が黙っていると、亜希は言葉を続けた。
「高校は私立に行く予定だったのよ。」
それは知っている。佐久平駅の近くにある県内でもトップクラスの私立高校だ。
御代田高校の入学式で、亜希を見つけて「なんでいるんだよ」みたいなことを言ったら、「落ちたのよっ」と不機嫌そうに言っていたっけ。
「行きたいと思っていたし、そのために勉強もしてた。でも受験の日ね、答案を白紙で出したの。」
「えっ、どうして…」
どうしてそんなことをしたのか。どうしてそれを今話すのか。
両方聞きたかったが、どちらの続きも出てこなかった。
亜希もしばらく黙った。
どんな順番で話せば俺に伝わるか、考えているようだった。
「中学の時ね、一度だけ、家で大泣きしたことがあったのよ。お母さんが心配するくらい。」
亜希は前を向いたまま、独り言のように話した。
「今の家に引っ越して三日目だった。急に寂しくなって、悲しくて、心細くて、子供みたいに、わーんって。」
(ああ…あの日か…)
その日のことは、実は俺もよく覚えている。
亜希が中軽に引っ越したのは、中学二年の秋。
俺たちが通っていた中学は中軽にあって、いつも俺と優琉と翔太、それに亜希の四人は同じ電車で登校していた。下校の時も、誰かしらと一緒に帰ることが多かった。
亜希が引っ越して、三日目に台風が来た。
しなの鉄道が運休するかもしれない、という話があって、電車通学の俺たちは慌てて駅に向かった。
「急げ急げ、乗れなかったら帰れなくなるぞっ」
降り出した雨の中、まるでお祭りのように騒ぎながら、優琉と翔太と三人で校門を出ようとした時だった。
視界の端に、亜希の姿があった。
赤い傘を差して、亜希は校門の支柱のすぐ脇に立っていた。そして俺たちを見ていた。
(そうか、もう亜希は俺たちと一緒に急がなくていいのか。歩いて帰れるからな。)
なんだか安心したように感じた、次の瞬間。
心に大きな衝撃が走ったのを今でも覚えている。
(あいつは、もう俺たちの町の人じゃないんだ。)
寂しい、というより、どこかふっきれたような気分だったように思う。
(そうか、あの時…)
赤い傘の下で、亜希はそれまで見たことのない顔をしていた。茫然としたような、それでいて何か叫び出しそうな。
その姿が、今も鮮明に俺の瞼に焼きついている。
亜希は俺たちを見送って、きっと思ったのだろう。「自分はもうあの町の人じゃないんだ」と。
「受験勉強を一生懸命やって、成績も上がった。入試が近づいて、急に卒業を意識するようになった。最初は、重く考えてなかったのよ。入試が終わったら、高校が決まって、中学校は卒業かあ、ってそのくらい。」
亜希は少し自嘲気味に笑った。
「…でも急に、心細さが戻ってきて、また泣いたわ。もうダメだったのよ、御代田じゃなきゃ。あなたと離れて高校生活を送るなんて、考えただけで涙が出て、止まらなくなるんだもの。」
(あなたたち、じゃなくて、あなた、か…)
「私ね、悠生も知っていると思うけど、不器用なの。ううん、きっと悠生が思ってるよりずっとずっと不器用。悠生は言ったじゃない?『亜希は全力すぎる』って。私は、ほどほどにバランス良く、っていうのができなくて、だからいつも全力みたいに見えるんだと思う。」
亜希はそこで言葉を切って、俺の方に顔を向けた。視線を外すことを許さない、強い瞳が俺を見ていた。
「御代田高校に入って、私はあなたに全力で恋をした。悠生のことが好きで、好きで、好きで、いつも姿を探して、目で追って、あなたのことばかり見てきた。」
亜希の顔はまるで芸術品のようだ。細い眉、二重の瞼、大きな黒い瞳、長い睫毛、細く高い鼻、薄めの唇。
美しく形作られたパーツが、精密に配置されている。
こんな綺麗な顔をしているくせに、俺なんかに恋をしたというのだろうか。
俺の心の奥で、何かが崩れて壊れる音がした。
それが、何か、俺にはちゃんとわかっている。
俺自身の一番奥にあるものを封じこめ、見えないように厳重に覆っていた殻だ。
その殻を失うことが怖くて、俺は表層の心だけで今まで生きてきたのだ。
「二年生になって、悠生と同じクラスになった…。私、その時、決意したのよ。11月の研修旅行の中日、その一日だけは、どんな手を使ってもあなたを独り占めにするんだ、って。」
そこまで話して、亜希は力を抜いた。
「楽しかったなあ、毎日…。今日も一日、本当に楽しかった。あ、それでどうこうっていう話じゃないの。これで私の話はおしまい。」
「あはは、そうか。亜希らしいな。」
「そうでしょ?」
好きだから付き合って、でもない。俺の気持ちを聞きたい、でもない。
自分で決めたことを全力でやりきって、それで終わり。
それが――亜希だ。
「さ、帰りましょ、みんなのところに。」
「そうだな。」
俺たちは立ち上がった。
亜希が俺のことを想っている。
そんなこと、昔から知っていたことのように思えて、驚きも衝撃もなかった。
その想いに、俺はどう応えていくのか。
俺は本心で、亜希をどう思っているのか。
そんなことは、今はどうでもよかった。
「なあ、亜希。」
俺は後ろを振り返った。
珍しく、亜希が後ろを歩いていたからだ。
暗い砂浜が歩きにくかったのかもしれない。
振り向いた俺に気がついて、亜希が顔を上げた。
いつも通りの亜希、普段通りの表情だ。
「夕飯、何時だっけ。」
「今日は19時よ。なに?おなかすいたの?」
「うーん、というか少し歩き疲れた。」
研修旅行の夕食は、グループごとにとることになっていて、18時半、19時、19時半の三つの時間帯のどれかが割り振られている。昨日は18時半の回だった。
「なさけないわねー。って言いたいところなんだけど、悠生。」
「うん?」
「私もちょっと足に力が入らなくて…」
「あはは、気が抜けたか?」
「そうかも。ねえ、手、引っ張って。」
と、両手を差し出してくる。
冷たいはずの海風が、一瞬だけふわりと柔らかく頬を撫でていった。
「しょうがねえなあ。」
俺は笑って、その手を取った。




