12 クラスマッチ④「それ、ちょっとまずいんじゃないの?」
その夜。
風呂から上がり、今夜は早めに寝るかと思っていたところに、優琉から電話がかかってきた。
「おう、優琉、どうした?」
「悠生、翔太から聞いたんだけどさ。八木さんと朝練するんだって?」
「ああ。まあ朝練するのは八木さんと翔太で、俺は付き添いみたいなものだけどな。」
「それ、ちょっとまずいんじゃないの?」
「えっ、何かまずいか?あ、翔太がC組だから、ってこと?」
「いや、そんなことじゃなくてさあ、亜希が怒るんじゃない?」
「え、亜希が?なんで?」
「いや、なんでってわけでもないけどさ…」
「クラスのためにやることに亜希は怒ったりしないだろ。そんなことより優琉、八木さんに駅伝にエントリーしたこと、ちゃんと説明してあげたほうがいいぞ。」
「説明って?」
「女子の選手編成さ、俺から見るとよく考えられてて完璧だと思うけど、八木さんは他の子の力量とかわからないから、気をつかわせてるんじゃないか、って心配してたよ。」
「いや、当然だけど、駅伝は勝ちに行くメンバーだよ。八木さんはラクロスの経験者だって亜希から聞いてたしな。」
「そうだよな。まあ一応、俺からもそう言っておいたけど、優琉からも説明してやれよ。」
「ああ、わかった、明日の電車の中で説明するわ。」
「おう、よろしくな。じゃあ、また明日。」
「おう。じゃなくて、悠生!」
「ん?」
「朝練のことだよ、これからクラスマッチまで毎朝やるのか?」
「どうだろうなあ、雨の日なんかはできないだろうし。」
「いや、そういうことじゃなくて。ほんっとに悠生って鈍いというか、抜けてるというか…」
「なんのことだよ、さっきから。はっきり言えよ、優琉らしくもない。」
「だからあ、亜希の気持ちをちゃんと考えてるのか、って話だよ。」
「亜希の気持ち?ああ、俺が翔太に八木さんを近づけるようなことをするからか。そのくらいで亜希は怒らないだろ。」
「違うって。…はぁ、悠生にはわからないか、もういい。じゃあ、明日な。」
優琉は最後に盛大にため息をついて、電話を切った。
たしかに、亜希は翔太をマスコット的に可愛がっていて、三バカの中では比較的柔らかく接している。だがそれは俺と優琉への当たりの強さに比較すれば、という話だから、特別に丁寧な接し方をしているというわけでもない。
俺が翔太と三琴の朝練をセッティングしたくらいで嫉妬するようなことはないだろう。
しかし、そのくらいのことは優琉にもよくわかっているはずだ。
(もしかして、優琉が言いたいのはそっちじゃないのか?)
だとすれば三琴のほうだ。三琴の世話役的な立場の亜希からしたら、俺なんかが横から三琴をサポートするのは気に食わないかもしれない。
しかしそれも、俺が偶然、三琴と駅前で会ったことや話の流れで翔太の畑を紹介したことを説明すればわかってくれるだろう。亜希は当たりこそ強いが、ちゃんと話せば聞いてくれる。
(優琉はときどき心配性なんだよな。)
さすがは蕎麦屋の息子。客商売だから、そんなところにも気が回る男なのだ。
(とりあえずチャットだけ送っておくか)
俺は優琉に「事の経緯は俺から亜希に説明するよ」とチャットを送ってから、明日に備えて目覚まし時計をいつもより30分ほど早めてからベッドに潜りこんだ。
翌朝。
借宿交差点のコンビニ前で待ち合わせた俺と三琴は、翔太の畑に向かった。
翔太の家はしなの鉄道の線路の向こう側にあって、15分ほど歩く。
蕎麦のほかにもレタス、キャベツ、ネギ、豆、山芋、里芋などを育てる専業農家だ。
秋蕎麦が開花する今の時期は、ことさらに景色がいいのだが、写真がSNSに出たりすると観光客が押し寄せる恐れがあるからと、撮影は禁止されていた。
俺はチャイムも鳴らさず、翔太の家の玄関を開ける。この家でも、俺は遠慮したことがない。
「おはよう」
と、声をかけると、翔太のお母さんがエプロンで手を拭きながら出迎えてくれた。
「あら、悠ちゃん。翔太ならまだ起きてこないわよ。どうしたの、こんな朝早く。」
「今度、高校で運動会のような行事があるんで、一緒に練習しようって約束したんだ。」
この家では亜希の家と違って、敬語すら使わない。敬語も禁止されているからだ。
「あ、おばさん、この子はこの前、うちの高校に転校してきた八木さん。近所に住んでる。」
「まあまあ、可愛らしいお嬢さんだこと、ごめんなさいね、ちょっと待ってね。」
お母さん、そう言うや否や踵を返して、階段を駆け上がっていく。
挨拶するタイミングを逃した三琴は、後ろで唖然としていた。
「小さい頃からずっと世話になってるから、いつもこんな感じなんだ。」
と、説明すると、三琴は黙ったまま「うんうん」と頷いた。
「外で待ってようか、たぶんすぐに来るよ。」
階段の上からは何やら物騒な金切声と、何かがぶつかるような音が聞こえてきた。
さすがは男三人の子供を育てた農家の母、朝から元気いっぱいだ。
塚越家の前で、ストレッチを始めた三琴にならって、俺も準備運動を始める。
さすが都会育ちということなのか、三琴のストレッチはどことなく洗練された動きに見えた。細身のスポーツタイツに淡い色のウインドブレーカーを羽織ったランニングウェアを違和感なく着こなしている。
そんな三琴に比べると、俺の動きはかなりぎこちない。
(ま、俺は真剣に走るわけじゃないしな)
そう自分に甘い言いわけをしていると、玄関が開いて、翔太がぬっと顔を出した。
「ふぉねんゆーえー」
口の中に何か頬張って食べながら言うからそう聞こえたが、「ごめん、悠生」と言ったようだ。俺は片手を挙げて挨拶してから、
「蕎麦畑のほうに行ってるよ。」
と伝えた。翔太はオッケーというように指でサインして、玄関の中に消える。
「八木さん、軽く走りながら畑の方に行こう。」
「うん。」
並んで走りながら、木立の間を抜けていく。
子供の頃から何度も通ってきた道なのだが、畑に出る瞬間はいつも感動する。
日陰から日なたへ。朝は特に陽射しを正面から浴びるから、一瞬目が眩む。
視界が開け、目の前には一面、白い花をつけた蕎麦の畑が広がる。
「わあ、きれいっ!」
今朝はなぜか口数の少なかった三琴が声を上げた。
うんうん、そういう反応になるよね。
(でも、この後がもっとすごい)
俺は言いたくなるのをぐっとこらえて、そのまま蕎麦の畑に沿って小道を走る。
畑の端まで走ったところでペースを落とし、立ち止まる。
(振り返る癖があるって言ってたよな)
さあ、存分に振り返ってくれたまえ。
三琴も俺に合わせて立ち止まり、自然な動作で今走って来た道を振り返った。
「なっ…」
言葉を失う、というのはこのことだろう。
白い花の絨毯のように広がる蕎麦畑。
畑の向こうにはカラマツの深緑の木立。
そしてその向こうには麓から頂上まで、なだらかに立ち上がる浅間山の全貌が見渡せるのだ。
「すごい…こんな風景、見たことない…」
しばらくの沈黙の後、三琴は独り言のようにつぶやいた。
大日向の農地からの眺望も素晴らしいが、やはりここには及ばない。
それに、今朝はまさに抜けるような青空が広がっている。
「実はさ、この景色を見てほしかったんだよ。」
三琴は、こくっと頷いてから俺の方に顔を向け、
「ありがとう。」
と言ったのだが、目にいっぱいの涙を溜めていて驚いた。
「私、やっぱりここに来てよかった。」
三琴はそう言うと、少しはにかんだように笑って、それから目の涙を手で拭った。
「八木さん、ここ、って?」
「うん、長野に引っ越してきたこと、下田君たちと仲良くなれたこと、駅伝の選手に選んでもらったこと、朝の練習に来れたこと、全部。」
「そうか。それはよかった。」
翔太にも、優琉と亜希にも、照れくさくて言ったことはないが、俺はこの風景こそ「白い町の誇り」だと思っている。
「八木さん、感動してくれたのは俺としても嬉しいんだけど、今日は練習に来たから、少し説明するな。この畑の回りを一周すると、だいたい500mだから、4周で駅伝の周回コースと同じ距離になる。で、ここだと走るペースが違ってもお互いの位置が見えるし、そもそも誰もいないから安全だよ。」
「うん。」
「だから自分のペースで走っていいからな。」
「うん、ありがとう。」
「じゃあ、始めるか」
「うんっ」
俺たちは再び走り出し、蕎麦畑の外周を半分も行くと、三琴はぐんぐんとペースを上げた。
あっさり引き離された俺は、3周でストップ。4周目を走る三琴を待つことにした。
(そもそもこんなに走るつもりじゃなかったのに、翔太のやろう)
心の中で翔太に八つ当たりをしていると、後ろから、
「なんだ、悠生、ギブアップかよ。」
と、声がした。振り返ると、そこには、優琉と翔太、そして亜希の三人が立っていた。
「あれ、優琉、それに亜希も。」
優琉はともかく、亜希までいるのには驚いた。
「優琉からチャットもらったのよ。」
亜希は一瞬だけ表情を曇らせた。
「いや、違うんだ、昨日、駅前で八木さんに偶然会って、ちょっと相談されたから」
「いいわよ、だいたい事情は想像つくから。」
「じゃあ、なんで怒ってるんだよ。」
「怒ってる?そんなことないわよ、悠生が朝から三琴ちゃんとデートしたくらいで私が怒るわけないでしょ。」
「いや、それは思ってない。デートでもないし。」
亜希は少し顔を赤らめて、目をそらした。
「そうじゃなくて、八木さんのことは亜希がいろいろサポートしてるのに、俺が横からお節介して悪かったかな、てさ。」
「だから怒ってないわよ、優琉も来るって言うから、三琴ちゃんが三バカに取り囲まれて困ったらかわいそうだと思って来たのっ」
「なるほどね。」
ほら、亜希は別に怒ってないだろ、と優琉を見ると、優琉はなぜか嘆かわしそうに首を振っていた。
「あっ、亜希ちゃん、おはよう!」
三琴が戻ってきて、亜希に近づき、亜希もごく自然に挨拶を返して、会話は終わった。
信州の初秋の風が、俺たち五人をやわらかく撫でていった。




