擬似的な彼女~留学生は男の娘~
青々とした若葉が、桜の木を覆っている。
つい最近あった盗撮事件のことも、盛り上がった定期演奏会のことも、徐々に話題に上らなくなってきた、五月の下旬。
悠綺高校生徒会はあいも変わらずのんびりぐだぐだと、活動しているんだかサボッているんだか、とりあえず生徒会室に集合していた。
真琴がにこにこと窓の外を見上げる。
「もうすぐ梅雨ですねえ。こんな快晴もあと少しかなあ」
「もう夏じゃんこれ……あっつい、早く夏服になんないかな」
「バカ言ってんじゃねーよ、ぬるいぞ直姫! 夏の暑さがもしこんなもんだったら、俺を筆頭に世界中の夏人間が不完全燃焼で死ぬだろーが!」
大袈裟に立ち上がった聖に、窓際の夏生がぼそりと「聖なんか煮えればいいのに、猛暑で」と呟く。それを聞いた聖が、眉を寄せた。
「ほんとそれ……俺毎年三、四回は倒れてんだよ。どーゆうこと?」
「意外と病弱にょろよねえ……ひじりんは夏が好きだけど、夏はひじりんを好きじゃにゃいにょろ」
「あっ言い方にトゲ」
きゃいきゃいと騒ぐ聖と恋宵に、紅が溜め息を吐いた。
「静かにしろ。そんなに夏がいいなら南の島にでも行ってこい。私の家のビーチなら貸してやる」
「あ、ビーチいいねえ。夏休みに行こーよ」
そんな呑気な彼らは、知らなかったのだ。
こんな平和で退屈な日々が脆くも崩れ去る危険が、まさにすぐそこ、南校舎の一階辺りまで迫っていようとは。
◇
その危機的状況にいち早く気付いたのは、この人だった。
「くそ、いい加減喫煙所作ってくれねえかな……」
校内全域禁煙が原則の悠綺高校で恐らく最も生き辛さに悩まされているであろう、赤髪の不良教師、竹河居吹だ。そうぼやきながらも、職員室の裏口から半身を外に出して、煙草に火を点けている。
そこへ、控えめなノックと、職員室の扉が静かに開く音が聞こえた。「失礼致します」という、可愛らしい少女の声も続く。
「あぁ?」
他の誰かが応対することを期待するわけにもいかない。わざわざ誰もいない時間帯を見計らって煙草を取り出したのは、他でもない居吹自身なのだ。
彼は点けたばかりの煙草を携帯灰皿に押し込むと、煙を手で払うようにしながら、扉の方へ向かった。
「はいはいはいなんですかー」
「私、明日付けで一年B組に短期転入することになりました、志都美と申します。藤井先生はどちらに……?」
はきはきと答えたのは、すらりと長い手足と端正な顔立ちの少女だった。成長期特有のアンバランスな線の細さが、清楚さを醸し出している。
この学校で美少女といえば、剣道部の主将でもある生徒会副会長がすぐに思い出されるが、彼女の飾らない凛々しさとはまた違った、けれど確かに美少女だ。
居吹は、志都美(しずみ)と名乗った彼女を前に、今朝の職員会議を思い出していた。
確か、先週の頭にも言ったと思うが、イギリスからごく短期の留学生が来るから、というようなことを、大学の先輩でもある藤井が言っていた。
先週の頭、そんな話聞いたっけ、と記憶を掘り返して、そういえばその日は前日の深酒が残っていて午前中は半分死んだように体だけ動かしていたのだった、と思い出したのだ。同じだけ飲んだはずの同僚がなぜあんなに元気なのか、理不尽だとさえぼやいたのは、藤井に対してだったはずだ。
酒の席には、藤井もいた。同僚も含めた三人は同じ大学の出身で、よく飲みに行く面子なのだ。
だが藤井は胃痛持ちなうえ、三人の中では一番先輩なので、無理に酒を勧められることはない。そのため、一番年下の居吹に集中砲火が下るというわけだ。
あの日の同情に満ちた藤井の視線を思い出したところで、居吹の記憶は急に今朝に戻った。
(あれ? でも確か、留学生は……)
多分もうすぐ戻ってくっから、なんて適当に受け答えしながら、ふと浮かんだ疑問を確かめるため、藤井の机へ向かう。机の上には、留学手続きの書類や履歴書の類が、無造作に置かれていた。国内一のセキュリティを誇る悠綺で、ちょっとトイレに立っただけとはいえ、この無防備さはいかがなものか。
だが、その数枚にちら、と目を通した次の瞬間には、そんなことはどうでもよくなっていた。
(う……嘘だろ……、)
◇◇◇
「おはよう」
「佐野くん、おはようございます」
「ね、今日、楽しみですわね!」
「へ?」
相変わらず賑やかな、一年B組の教室。
とりわけ浮き足だった少女たちが、登校したばかりの真琴に話しかける。
なにかあったのかと、真琴は近くにいた生徒に声をかけた。振り向いたのは委員長こと、山田だ。律儀におはよう、と言い合ってから、本題を尋ねる。
「なんか皆そわそわしてるけど、どうしたの?」
「あぁ、聞いてない? 留学生が来るんだよ」
「留学生……こんな時期に?」
「なんでも、イギリスからの超短期留学らしいよ。だから、半月くらいこのクラスにいるだけだとか」
「へー……ずいぶん短いんだね」
それから一つ、二つ言葉を交わし、自分の席へ向かった。
席は、窓際の一番前から出席番号順に並んでいる。窓際最後尾である真琴の前、つまり出席番号でいう“さの”の前の人物は、机に伏せって眠っていた。
「直姫、おはよ。」
「……ああ、真琴。はよ」
「もう、起きなよ。転校生が来るんだって」
「無理……三時半まで映画観てたんだよ……」
「自業自得じゃない。早く寝ればいいのに」
呆れたように言うが、直姫からの反応は返ってこなかった。よくそんな体勢で眠れるものだと思いながら、一応とばかりに、「授業中は居眠りしちゃだめだよ」と声をかける。それから、仕方がないな、と溜め息を吐いた。
その時だった。
教室の扉が、がらりと音を立てて開いた。
いつものように入って来たのは、一年B組の担任、藤井だ。しかし、いつもとどこか様子が違う気がして、生徒たちは戸惑う。
「えー……もう皆知ってるとは思うがな、その……りゅ、留学生を紹介する……」
どこか挙動がおかしい。彼はもともと気を遣いすぎるほうなので、理由なく居心地悪そうにしていることというのはよくあるのだが、それにしてもだ。
蝶が飛ぶように泳ぐ目線に、クラス中が気を取られていた。
そんな中、扉に向かって声をかける。
「そ、それじゃあ、どうぞ入って」
「はい」
落ち着いた返事と共に教室に入って来たのは、その声から想像できうる限りで、最上級の美少女だった。
藤井がチョークを手に取り、ぎこちない手付きで、黒板に白い文字を書きつける。『志都美 里吉』、それが彼女の名前だ。
「えーと……こちらが、この度イギリスから留学してきた、志都美さと」
「ここで二週間ちょっとお世話になります、よろしくお願いいたします。どうぞ、りよって呼んで下さいね」
遮るように彼女がそう言うと、藤井が固い動きで眼鏡を直す。鼻の頭には脂汗まで浮いて、なにかとても物言いたげにしていた。
だが、そんな挙動のおかしい担任の様子を、細かく観察していちいち気にするようなクラスではない。
「まぁ、とても綺麗な方ね!」
「イギリスからですって! 私、イギリス大好きなのよ」
「こんな時期に短期留学なんて珍しいね。旅行がてらかな?」
――教室のあちこちで聞こえはじめた小声の会話は、非の打ち所のない容姿や恵まれた境遇など、全て彼女に関するものだ。クラス中から注がれる羨望と好奇に満ちた眼差しに、りよは満足そうに頬笑みながら、教室を見渡す。
しかしある一人の男子生徒のところで、その視線はぴたりと止まった。りよには微塵も興味を示さず、それどころか彼女に旋毛を向けて堂々と眠りこける、その姿。
りよの目元に一瞬、冷ややかな色が浮かぶ。
そして誰にも聞こえないような小さな声で、呟いた。
「相変わらずの無関心っぷり……西林寺、直姫……」
◇
朝のホームルームを完全に眠って過ごしてしまった直姫は、その後も一日ずっとぼんやりとしていた。浅い眠りでは、いくら寝ても目が覚めきらないたちなのだ。眠そうにとろんと蕩けた目元を一瞥した真琴に、今日だけで何度「もう……」と言われたか知れない。
その真琴に、職員室に用事があるからと言われたので、直姫は一人で生徒会室に向かっていた。
(やっぱあの連作を一気に観るのは厳しかったよなあ……)
放課後になってもまだ小さな欠伸を噛み殺しながら、北校舎の階段を上がった。なんの気なしに、蔦と鳥の装飾を彫り込まれた手摺を眺めながら歩く。
そして、三階の真ん中の部屋の前に辿り着くと、真鍮のドアノブに手をかけた。かけたのだが、かしゃん、と途中でつっかえるような感触がして、それ以上開かない。
鍵がかかっているのだ。
早く来すぎたか、と思ったが、左腕を軽く上げて腕時計を見ると、時間はいつもよりほんの十分ほど早いくらいだ。珍しく直姫が遅刻しなかっただけでは、ないらしい。
(先輩たち、まだ来てないんだ……)
生徒会室の鍵を持っているのは、直姫の知る限りでは夏生と紅だけだ。職員室まで行けばもう一つあるが、中庭を挟んだ反対側の南校舎まで取りに行くなんて、あまりに面倒である。それに、入れ違いにでもなったら無駄足だ。
彼らが来るまでは、この場で待っているしかあるまい。
直姫は壁に背を預け、待つ姿勢に入った。すると、唐突に声が一つ、かけられた。
「……西林寺、直姫さん?」
どこか高飛車な声色。
横を向くと、あまり見覚えのない女子生徒が、そこに立っていた。
「そうですけど……、何か?」
誰だったろうと、不思議そうに問いながら記憶を辿る直姫。小首を傾げると、女子生徒の眉間に薄いしわが寄った。
「……私、今日から留学生として来たんです。あなたと同じ一年B組なのですけれど?」
眉をしかめ苛々と言う彼女に、そういえば今朝真琴がそんなようなことを言っていた、と思い出す。
留学生というから、てっきりイギリス人なのだと思っていたのだ。思っていたのに、そのイギリス人らしき姿が見えないことも、教室のある一ヶ所がやけに盛り上がっていることも、まったく意識せずに一日を過ごしていた。自分のことながら、どうやって授業を受けていたのだろうと不思議でしょうがない。
「あぁ……すいません、今日はすごくぼんやりしてて」
「まったく、どうしてこんな人っ……」
「へ?」
こっちの話です、と不機嫌に言って、彼女は続けた。
「会いたい人がいますの。生徒会室に入れてくださらない?」
「え、それはちょっと……まだ鍵も開いてないし」
さすがに、顧問にも無断で部外者を入れるわけにはいかない。その顧問がほとんどここに現われないことはさておき、である。
しかもそれがこの“悠綺高校の生徒会”に関してならば、特に言えたことだ。なにしろ、彼らに個人的に会いたいという人なら、常に五万といると言っても過言ではないのだ。留学生だかなんだかはよく聞いていなかったが、彼女だけ特別扱いなんてできるはずもない。
「すいません、生徒会役員以外をここに入れるわけにはいかなくて……誰に用事ですか? 今来ると思いますけど」
「、な……」
「あれー、直姫! 早いじゃん、どしたの」
口を噤み、目尻を吊り上げて直姫を睨む彼女が、何か言いかけたときだった。
静かだった廊下に、突然明るい声が響く。それはちょうど恋宵と並んで階段を上がって来た、聖の声だった。
「わ、誰その子! 美人さんー」
「あ、先週マチルダ先生が言ってたにょろ! イギリスから来たんだっけろ?」
「そんなこと言ってたっけ?」
「ひじぃ聞いてにゃかったの?」
独特の間とテンションでにこにこと繰り広げられる会話に、直姫が口を挟む機会をなくしていると、不意にそばに立つ美少女が口を開いた。
「Inoさんに……、KNIGHT(ナイト)の柏木聖さん?」
目を細めて、皮肉っぽく片方の眉を吊り上げる仕草。様になってはいるが、あまりに不躾だ。
「テレビや雑誌で観たことはありましたけど、実物はずいぶん軽そうですのね……頭とか」
聖は笑った顔のまま動きを止めた。
呆然として少女を見つめるそこへ、他の役員たちがいつもより遅れて集まり出す。
「なんだ直姫、待ってたの……あれ、志都美さん? 聖先輩と恋宵先輩も。まだ開いてないんですか?」
真琴が小走りで来たと思えば、反対側の階段から二人上がってくる。
「あれえ、夏生まだ来てないの?」
「なに? あいつ、またか……」
いつもの間延びした口調の准乃介と、鞄から生徒会室の鍵を取り出す紅。少女の毒舌は、その三人にまで牙を剥いた。
「やっぱり芸能人ってカメラ越しの方が良く見えるんですわね……本物を見るとがっかりしますわ」
「え」
「あらいけない、イギリス人と日本のモデルの体型なんか、比べちゃいけないかしら。もう少し体鍛えたほうがよろしいんじゃなくて?」
「へ? 俺?」
「貴方、俳優の佐野真琴でしょう? 同じクラスね……イメージと全然違いましたわ。もっとクールな人かと思ってましたのに」
「し、志都美さん?」
「それと……貴女?」
振り返って視線を突きつけた少女を、紅は眉を寄せて、少し引き気味で見た。それほどまでに、少女の清楚な外見と物言いが一致しなかったのだ。身長はどちらもそれほど変わらないが、そのあまりの勢いと迫力に、心なしか紅が上目遣いになっている。
「な、なんなんだお前、」
「貴女がこの学校一の美少女なんですって? 全く、信じられませんわ……生徒間にファンクラブまで作られるという悠綺高校も、意外と低レベルでしたのね」
「は……はあ、……」
「……ちょっと、君いい加減に」
少女の辛口にたじたじの紅。
そして紅に対する暴言で、准乃介が珍しく苛立ったように頬を引き攣らせたところで、背後から爽やかな声が聞こえた。
「あれ? なんだ、皆もう来てたんですか」
一般の生徒が見ている可能性のある廊下なので、猫被りモードの夏生である。さんざん遅れておいて「もう来てたんですか」はないだろうと思うが、すでに疲れ気味の彼らには突っ込む気力もない。
「……こちらは……?」
少女と目が合い、夏生は最もな問いを口にした。唯一ちゃんと彼女の素性を知っている真琴が口を開こうとするが、それは直後の急な出来事で、あまりに強引に遮られた。
「夏生様……!」
少女の態度が豹変したのだ。
それまでのヒステリックで刺々しい声色とは別人のような声をあげ、夏生の手を取る。
「お会いしたかった……!」
「え……」
彼らの口から出た音は、偶然にも、七つとも同じものだった。うち一人は見ず知らずの少女にいきなり突然手を握られたことに、その他は自分たちに対する態度との温度差に、驚いていたのだ。
かくして、退屈で呑気で穏やかで平和な彼らの日常を覆す大事件は、大体この辺りから幕を開けることになるのである。
◇
北校舎三階、生徒会室前の廊下は、混乱の体を帰した。夏生と直姫は平然とした顔で戸惑い、准乃介は誰この失礼な子とばかりににっこりと微笑み、あとの四人はただただ唖然としていた。
色々なことが、面倒だと判断したのだろうか。
とりあえず座って話そう、という夏生の提案で、結局生徒会室の無駄に豪華な応接スペースに場所を移したのだ。
少女――志都美里吉を中心に、とりあえず夏生と紅がソファーに腰かける。彼女が夏生に渡した名刺が、聖に回ってきた。それを横から覗き込んで、直姫は首を傾げた。
「BTS社長子女、志都美……サトキチ?」
「りよですわ! なんなんですのあなた、さっきから失礼ね!」
同じクラスへの留学生だというのに、なぜ朝から今まで彼女の存在に気付かなかったのだろうか。聖がつっこみたそうにうずうずしていたが、そういう雰囲気ではないのを察して、口を噤む。きっと、鈍さとか他人への興味のなさとか、睡眠不足とかが災いしたのだろう。見るからに女なのに酷い間違え方をして、りよを苛立たせる。
直姫にはさっぱり悪気はない分よりたちが悪いが、最もなはずのりよの怒りも、どの口が人に失礼などと言うのか、といった感じだ。つまり、どっちもどっちである。
直姫は夏生の座るソファーの背もたれに手を突いて、のらりくらりとりよの鋭い視線を交わしている。
すると、りよはビッと指を突き付けた。の細い少女にしては、やけに大きな手である。
「西林寺直姫……周囲の目はうまく誤魔化しているようですけれど、私は騙されませんわよ!」
「はぁ……」
「あなたの正体は知っていますのっ」
「はい?」
そんな際どいことを言ってもぼんやりと首を傾げるだけの直姫に、りよは柳眉を逆立てて言い放った。
「あなた本当は女なんでしょう!?」
「え。うん」
平然とした顔で、それがなんだとばかりに頷く直姫。
聖や准乃介たちはりよに対しての興味が薄れたようで、ゲームをしたり雑誌を読んだり好き勝手なことをしていて、彼女の言葉を聞いている様子はない。
「どうして驚きませんの!?」
「いやあ、だって、知ってるし」
「入学して早々ぶっちゃけられたからねぇ」
「言うつもりはなかったんですけどね……」
「この子ったらもう、変なところで抜けてるんだからにゃー」
「詰めが甘いよね」
当然といえば当然だが、りよにとっての切り札だったのだろう。直姫にはとても不利な暴露話になると思っていたぶん、いまいちのリアクションのなさに、彼女の苛立ちは募るばかりだ。
「もう!」と癇癪を起こすりよに少しは溜飲が下がったのか、准乃介が雑誌から目を上げて言う。ちなみに手にしている雑誌の表紙は、彼本人だ。
「BTSっていったら、日本のでっかい文房具メーカーじゃん? 十年ちょっと前に海外にも進出したって話だったけど、イギリスだったんだっけ」
「五歳からイギリスに住んでますわ」
「にゃるほどー。それで日本人だけど留学生にゃろね」
うんうんと頷く恋宵の向こうで、聖が「はーい」と手を上げる。
「質問いいですかー」
「どうぞ」
「ところでさ、その、りよちゃんが会いたかった相手ってのが、夏生?」
「指差さないでくださらない、お行儀が悪いわ」
「で、どうなの」
「そうですわ、私、夏生様にお会いするためにイギリスから参りましたの!」
不意に早変わりの手品のように華やかな笑みを浮かべたりよに、誰もが感じたのは、いやな予感だけだ。
「……な、なんでまた」
「そんなの決まってますわ、少し考えればわかりますでしょう?」
相変わらず夏生以外にはぞんざいな物言いのりよは、完成された上目遣いを彼に送る。
「私、夏生様を、心からお慕いしておりますの」
にっこりと天使のような笑顔と、いくらか音の上がった語尾。当の夏生はというと、それはもう興味など皆無というように、明後日の方向を向いている。生徒会室の扉が閉じた瞬間からいつもの様子だが、どうせ二週間ちょっとでイギリスへ帰る彼女に対して、外面を取り繕う必要はないと判断したのだろうか。
しかし周りなんて少しも見ていないりよの方は、そんな彼の態度にも気付かないようだ。
「私の父と夏生様のお父様は昔からの知人ですの。あれは三年前のこと……」
誰も尋ねてなどいないというのに、むしろ厄介事が増えそうな気がして故意にそれを避けていたというのに、わざわざ語り出してしまった。
長くなりそうで退屈だと思った直姫は、夏生の座るソファーの背もたれに身を乗り出して、小声で話しかける。
「東雲グループって具体的にどこまでやってるんですか」
「うち? んー……ホテルとか、レストランとか、旅行会社とか色々?」
「あ、ホテルは泊まったことあります。北海道の」
「そう」
「ちょっと! 人が話しているときはきちんと聞くべきじゃありません!? ていうか夏生様と馴れ馴れしく話さないで!」
「あぁごめん、続けてください」
だがすかさず飛んできたりよの怒声に、直姫は肩を竦めた。このひとめんどう、と夏生に目で語ると、彼は無言で肩を竦め返す。
りよは自分に注目が集まっていないと気が済まないたちなのか、全員の目が自身に向いたのを確認して、ようやく満足そうに話を再開した。
「その年、イギリスのBTS支社で父の誕生パーティーがありましたの」
それから先の彼女の話はとんでもなく長く回りくどくなったので、分かりやすく思いきって省略することにしよう。
りよの父、つまりBTSの社長は、一代で小さな文房具メーカーを日本有数の企業へと発展させた二代目社長の、娘婿である。三代目の社長にして、義父が大きくした会社をさらに規模拡大し、海外進出までやってのけた有能な男だった。
三年前、彼が生まれてちょうど半世紀、五十歳の誕生パーティーを開いた際のことだ。学生時代の同級生や先輩後輩など、古い知人にまで片っ端から、招待状とイギリスへ飛ぶ飛行機のチケットを送り、盛大なパーティーになった。
東雲財閥の現会長、夏生の父は志都美の大学時代の先輩だそうで、交流も深かったらしい。招待状にはご家族も一緒にぜひ来て欲しいという手紙を同封し、チケットも人数分を送ったのだ。
「その時にお見かけしたのが、夏生様でしたわ」
そう言って、夏生をちらりと上目遣いで見上げた。
自分を見つめるその切れ長の目に、夏生はなにか思うことがあったのか。関心なさ気に目線を外すことはなかった代わり、その顔は、片目をわずかに細めた思案の表情だった。
「こんなに知性と麗しさを兼ね備えた殿方を見たのは、生まれて始めてでしたわ。あの瞬間から、夏生様のことが忘れられなくなってしまいましたの」
胸の前で両手を合わせて、頬を緩める。
始めこそなにか夏生をからかうネタになるのではと思ってきちんと聞いていた彼らだが、りよが語るのは夏生への称賛の言葉ばかりで、次第に飽きてしまっていた。そうなると自然と、ひそひそ話が繰り返される。
「単なる夏生の追っかけか……」
「なんだー」
「なんかもっと……許嫁とかなら面白かったのに」
「生き別れた妹さんとかどうかにゃ」
「別におもしろくないよ。つーか……」
夏生は冷めた目で、隣のソファーで姿勢良く座っている少女を見下ろした。眉をわずかに寄せて、それから、ゆっくりと言った。
「……だれ?」
一瞬の沈黙が訪れる。
「え? 誰って」
「三年前に会ったんじゃないのか?」
「さあ、一度見た顔はそう忘れないはずですけど。でもこの顔は記憶にないですよ」
「え、先輩すごいですね」
「当たり前でしょ。……BTSの志都美社長ご一家とは確かに挨拶したけど、あそこに娘なんて……」
「へ?」
夏生と里吉の話は、なぜか明らかに根本から食い違っている。
なにか不穏な空気が流れはじめたところで、直姫が「あれ?」と声を上げた。
「そっか、志都美さんですよね、BTSの。どこかで聞いた名前だと思ったら、確か、うちの父とも面識が……」
「え、ホントに?」
「うん、大学の後輩だったかな……BTSは父のスポンサーになってるはずです」
「父って、政治家のお父さん?」
「ええ。小さい頃に何度か、志都美社長がご家族で遊びに来たことが……多分、だから自分が女ってことを知ってるのかも」
「なるほど……」
「でも、変なんですよね……やっぱり、子供は女の子じゃなくて……」
「ちょっと! あなた、余計なこと言わないでくれます!?」
直姫の意味深な言葉に、りよが噛み付く。「うるさいな、夏生先輩だって言ってたじゃん」「う、うるさい……!? このわたくしにうるさいですって!?」なんて、温度差の激しい言い合いをしていた、その時だった。
突然、生徒会室の扉が勢いよく開いたのだ。全員の視線が集まる扉の前には、暗めの赤い髪と、白いスーツ。今日のシャツは濃いグレーだ。
「あ、居吹だー」
「なんか久し振りですね、竹河先生」
「おい佐野! 今日来た留学生、お前らのクラスなんだってな!?」
やけに慌てて入って来た居吹は、生徒会顧問のくせに、この生徒会室に来るのは数週間振りだ。しかも以前来たのは確か、職員室だと怒られるからと、わざわざ煙草を吸いに来たのだったか。
そしてなぜか開口一番、彼らにとってはとてもタイムリーな、一年B組への転入生の話。
「それならほら、ちょうど今そこに」
聖が、いまだ直姫と口喧嘩をするりよを指す。口喧嘩といっても、面倒くさそうな表情であしらう直姫にりよが食って掛かっているだけなのだが。
「ちょうどいい、ちょっとこれ見てみろ」
「え?」
居吹が来たことにも気付いていないだろうりよを無視して、彼が夏生たちの前に突き付けた紙には、顔写真やずらりと並んだ記入欄がある。
「履歴書?」
不思議に思うが、一番目立つ左上の欄に、ついさっき名刺で見たばかりの名前を見つけた。
「これ……志都美さんの?」
「いいのか? 個人情報を勝手に」
「それどころじゃねぇんだよ、よく見ろ! 今朝からずっとこれ探してたんだからよ」
証拠品だ。そう言って居吹は、手にしたその用紙を机に叩き付けた。
ざっと視線を走らせる。
おかしなところはないような気がしたが、そこはかとない違和感を感じて、来た道を戻るように改めて視線をさまよわせる。
そして、ある箇所が目に留まると、真琴は目を見開いて声を上げた。
「え……あ、え!? ちょっ、ここ!」
「え?」
彼が指差した部分を、直姫とりよを除く全員が揃って覗き込む。
そこに書かれた意味を理解するのに、おそらく最速でも五秒は要した。
『志都美 里吉
Age 16 Sex M』
口は開かれないまま。理解してからまず、どんな顔をして驚けばいいのかも、戸惑う。
そしてさらに数秒の沈黙の後、北校舎にはいくつかの声にならない驚きが、響き渡った。




